清話会セミナー講演録 大阪 2017年2月16日(木) 【講演名】 幕末という時代! [ 特集カテゴリー ]

幕末という時代! [ 未来を見通すために 正しい歴史理解を ]

長州に汚名を着せた会津の「観光史学」

 

 イギリスの歴史家ジョン・ロバート・シーリーは、「歴史は過去の政治であり、政治は現代の歴史である」と述べた。今という時代を正しく理解したければ、過去の歴史を知らなければならない。私の専門分野である日本政治史の研究対象は近代だ。日本の近代とは幕末から大日本帝国の崩壊する昭和20年までを指す。近代を理解したければ、その起点である幕末の政治をめぐる権力関係を読み解く必要がある。

 

 例えば巷間(こうかん)上野寛永寺に立てこもった旧幕府を支持する彰義隊を、長州藩の大村益次郎が指揮する新政府軍が撃滅した上野戦争の雌雄を決したのはアームストロング砲だと言われる。テレビドラマではその砲撃シーンが華々しく描かれるが、幕末軍事史の研究者である私は、そこで用いられたアームストロング砲の口径が約6㎝しかなく、火薬の詰まっていない鉄球弾が使われていたことを知っている。名前のイメージから大層な武器であるように思われがちだが、これは事実ではない。

 

 物事を正しく理解するには、イメージや好き嫌いに捉われず実証することが不可欠だ。会津は長州に今も戊辰戦争の遺恨を持ち続けているというのも耳にすることがあるが、これも実は変な話である。会津を攻めたのは土佐藩と薩摩藩で、長州が行ったときには戦争は終わっていた。会津の人は長州によって下北半島に追いやられたと言うが、あれも実証性に乏しい「神話」である。

 

 にもかかわらず長州が「悪者」とされるようになったのは、会津のとった観光戦略に原因がある。昭和30年代の明治維新後100年に際して政府が記念イベントを多数企画し、維新ブームが起きた。会津若松市も鶴ヶ城(若松城)の再建で地域興しをしようと考えたが、そのためには地元の人から寄付金を集める必要がある。

 

 そこで市は会津人の魂に火をつけるため、史実に忠実ではない「観光史学」を提唱して敵をつくることにした。まずは戊辰戦争で最初に会津に攻め込んだ土佐藩を想定したが、空前の坂本龍馬ブームに沸いていたのでそれは難しい。そこで会津を裏切った薩摩を敵にしようとしたが、そのリベンジは既に西南戦争で済んでいる。

 

 結果的に矛先が向けられたのが長州だった。そうして創作された「観光史学」が、長い歳月を経てあたかも史実であるかのごとく共有されるようになった。その場の思いつきで事を進めると、このように後年禍根(かこん)を残す対立が起こるのだ。歴史は冷静に捉えられるべき。そういう思いから、私は微力ながら幕末史を再度問い直すための研究を続けている。

 

水戸藩の原理主義が攘夷運動を導いた

 

 第13代征夷大将軍・徳川家定の時代に、東インド艦隊提督・ペリーが来航した。
それまでも外国船は多数来航して通商関係を結ぶことを求められたが、日本はずっと追い払ってきた。イギリスにしろ、ロシアにしろ、戦争をしてまで日本から得られる利益は少ないと考えていた。当時の日本の人口は約3000万人で、市場が大きなものではなかったからだ。しかし時代が変わり、蒸気船が出現すると、強国は世界にどんどん進出できるようになった。ペリーが日本に来航した目的は、捕鯨のための基地を獲得することである。

 

 日本は外国人を夷(えびす)(野蛮人)と考えていたので1度はペリーの申し入れを断ったが、2度目の来航時に国書を受領してしまった。
しかし征夷大将軍には、その名のとおり夷狄(いてき)を成敗する義務がある。だから原理主義の水戸藩は攘夷を叫んだ。桜田門外の変で水戸藩の浪士が井伊直弼を殺したのは、アメリカの国書を受け取った井伊大老が幕府を滅ぼす元凶となると考えたからだ。当時の若者たちは、その水戸藩の原理主義思想に多大な影響を受けた。

 

 その1人が長州の吉田松陰である。水戸学に影響を与えた陽明学には知行合一、理解したら行動に移せという言葉があり、それが攘夷運動に結びつくことになる。その結果、松下村塾で学んだ若者たちの行動主義が大きなうねりとなって、徳川幕府を倒した。これが思想史としての幕末の見方である。

 

 しかし世の中は思想だけで動くものだろうか。知行合一といっても正しいものが常に勝つわけではなく、強者は必ずしも正義ではない。思想史としての理屈は分かるが物足りなさを感じ、実際に戦に勝ったという事実がある以上、そこにはもっと具体的な何かがあったのではないかと考えたことを機に、私は軍事という研究テーマに取り組むようになった。

 

 戦争ほど不愉快で非生産的なものはないが、戦争を避けたければそれを詳しく知る必要があるはずだ。戦はパワーバランスが崩れたところで起きる。一方が丸裸になっても防げるものではなく、むしろ丸裸になれば戦争を誘発することを、世界のあらゆる歴史が示している。

 

幕府軍の攻撃に備えた大村益次郎の作戦

 

 研究をしてみると、近代の日本の軍事は特殊な様相を帯びていることが分かった。戦前の日本の総理大臣は、軍人の経歴を持つ人物が多い。その1人である山縣有朋の初期の最大の功績は、明治6年に徴兵令を発布したことだ。ところが山縣はその制定過程のほとんどを海外で過ごしており、徴兵令制定に大きく寄与したわけではない。徴兵令は明治3年につくられた法律をそのまま利用している部分もあり、山縣はその当時国内にいなかった。

 

 実は徴兵令を設計したのは大村益次郎である。彼は戦後の日本ではあまり注目されなくなったが、業績の大きさと知名度はまったく別物だ。ただし戦前の大村は高名で、明治17年発行の冊子『維新元勲十傑論』には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、桂小五郎、岩倉具視らと名を連ねている。ちなみに高杉晋作や伊藤博文らはここには入っていない。

 

 長州の毛利公は特別に秀でていた大村の才能を高く評価し、藩に招聘(しょうへい)して軍政改革を行わせた。そのよろしきを得た大村は幕長戦争を戦って大勝利を収め、新政府に登用されて徴兵令をつくった後に凶刃に倒れたと『維新元勲十傑論』に書かれている。

 

 では、幕長戦争における大村の役割とは何だったのだろうか。150年前に長州藩で高杉晋作によるクーデターが起き、幕府に対抗しようとする松陰門下の勢力が政権を握った。その危険な長州に対して幕府軍の兵を差し向けたのは、第14代将軍の徳川家茂である。

 

 このとき幕府軍は、長州を攻撃する4つのルートを策定した。
まずは周防大島から向かう海軍が約2000人。その幕府海軍には松山藩も加わった。
2つ目は、石州(石見国)から攻め寄せる約3万人。
3つ目は、小倉方面から向かう小倉、熊本、久留米、柳川など九州諸藩の約2万人。
4つ目が広島方面からの部隊で、ここには家茂の出身藩である紀州に加え、彦根藩と越後高田藩、幕府歩兵部隊の精鋭ら約5万人が配置された。

 

 対する長州軍は、大島口500人、石州口1000人、小倉口1000人の総勢約3500人にすぎない。先の『維新元勲十傑論』によると、この戦をプランニングした大村益次郎は、どう考えても勝てない戦を圧勝に導いた。幕府海軍を農兵で追い払い、北九州一帯や石州の浜田藩まで占領したのである。

 

 小説では、この戦について、長州の鉄砲の威力が功を奏したなどと描かれる。確かに幕府軍の兵士の多くが昔ながらの火縄銃を使ったのに対し、長州藩は英国から輸入した新式のライフルをはじめとした鉄砲を用いた。
しかし、鉄砲の能力に差があった点だけに注目すると、本質を見誤ることになる。単に武器が優れているだけでは戦争には勝てないからだ。武器が強いことは戦争の必要条件だが、十分条件ではない。武器を使うのがどういう人間かというところまで目を向けなければ、歴史の本当の姿を理解することはできない。

 

銃の技術革新が招いた幕末の社会改革

 

 幕末期まで日本人が慣れ親しんできた鉄砲は、南蛮渡来の火縄銃である。関ヶ原の合戦があった1600年代の日本は、世界最大の小銃保有国だった。
各藩が大量に製造して所持し、改良も加えられていたが、徳川時代に入るとその鉄砲の進化は完全にストップしてしまう。新しい技術を開発するには費用が必要だが、金を持っていたのは武士ではなく商人である。彼らが自由に技術革新して優れた鉄砲を開発できれば、武士を倒す可能性が生じてしまう。事実ヨーロッパでは17世紀にピューリタン革命が起き、商人たちが支配階層をひっくり返した。

 

 そうならないよう、幕府が技術の進展を止めた結果、徳川時代を通じて火縄銃は次第に工芸品化していった。銃床に螺鈿(らでん)細工を施してきらびやかなものにしたり。また、銃づくりの名人と呼ばれるような職人も生まれたが、使用する火薬の量などは流派ごとに異なり、門外不出の秘密とされた。銃を扱えるのが限られた個人となると、集団で戦う近代戦では使えない。

 

 そこでペリーの来航後、幕府はオランダからゲベール(小銃)を輸入した。これは火縄銃と違い工場で造られる大量生産品で、使われる戦争は集団戦となる。小銃の運用にはたくさんの人間を必要とするので、火縄銃からゲベールへの移行は、幕末に大きな社会変革を与えることとなった。

 

 それまで戦争をしていたのは、人口の5%程に当たる武士である。しかし近代戦では、それだけでは兵士の数が不足する。5万の幕府軍のなかには幕府陸軍など、博徒や人足ら、江戸で集められた庶民による洋式化された部隊ものもあった。集団戦を必要とするゲベールの導入は、このように身分制をも壊しつつあったのである。

 

 ただし幕長戦争のころはまだ幕府軍にはゲベールも行き渡らず、戦争をリアルに想定したことのない諸藩の軍勢の多くは火縄銃を携行していた。

 

 一方の長州軍は、雨が降ると使えない火縄銃の弱点を十分に理解していた。ゲベールの基本構造は火縄銃と同じだが、火縄の替わりに火薬を詰めたキャップ(雷管)をはめ、引き金を引くとそれがハンマーで叩かれることで火がつく仕組みになっている。

 

 有効射程距離はどちらも80mほどで、厳密にはゲベールのほうが少し短かった。火縄銃は発射時の衝撃が小さいが、ゲベールは金具が当たる衝撃で揺れるためである。だからこそ、ゲベールを使うには集団を必要とした。長州軍は当初3000丁のゲベールを調達したが、それだけでは幕府軍を圧倒できないと考え、より優れた銃を購入。庶民で構成される奇兵隊を持つ長州軍には、集団戦ができるような土壌が既にあった。しかし実際の戦となると寡少な兵力を顧慮したとき、もっと有効射程距離が長く、命中率も高い鉄砲を欲したのだ。

 

 それがフランスのミニエー大尉が開発したミニエー銃である。後にイギリスやフランスやオランダなどで同じ構造の銃がつくられるようになり、そのなかで一番高性能だったのが、当時世界一の工業生産力を誇ったヴィクトリア朝時代のイギリスのものだ。イギリス産のそのミニエー銃を、エンフィールド銃という。

 

 火縄銃やゲベールの筒より小さい丸い弾は、銃口から詰められた。発射時にはガスが漏れてエネルギーが低下するし、手づくりでいびつだった弾は不規則に回転しながら飛ぶために命中率も落ちた。そうした既存の銃の難点を改善したのがミニエー銃で、弾の先端は現在の銃弾のように尖り、ガスを漏らさない工夫もなされていた。また、銃身に螺旋状の溝が彫られ、弾が一定方向に回転しながら飛ぶため有効射程が約270mと飛躍的に延びた。

 

 この鉄砲は当時18両程度と非常に高価だったが、長州藩は大村の指示で4300丁を調達して前線に配備。命中率が高く遠方から攻撃できるので、兵の少ない長州軍にはうってつけである。火縄銃と違い、この銃はむしろ少数精鋭の兵士が使うことが求められた。命を惜しむ兵士が戦場を逃れて売りに出すようでは困るため、士気の高い兵士のみがその効果を十分に発揮できたのである。

 

長州軍の勝利は技術革新と教育の成果

 

 幕長戦争で長州軍が取ったのは、縦隊、横隊、散兵を混合させた近代戦術だった。なかでも散兵を効果的に用いるには、自らここを守るのだという強い愛国心が兵に行き渡っていなければならない。自軍は3500、敵は10万人以上だから、敗れたら国土は蹂躙(じゅうりん)され家族は虐殺される可能性がある。
そういう状況下、長州藩は武士だけではなく市民も郷土を守ろうとする意識で固まった。散兵は、前述の4つの戦場のうち、芸州、石州、小倉の3カ所で機能した。

 

 このなかで悲しい状況になったのは大島口である。周防大島は大村によって防衛ラインの外側に位置づけられ、幕府軍が諦めるまでゲリラ戦で耐えろと命じられた。動員されたのは、村上水軍の生き残りの私兵たち。島には寺が多く、お坊さんたちも部隊を編成して戦った。その彼らが、他の3カ所の長州軍が幕府軍を追い払うよりも前に、幕府海軍や松山藩兵を退けてしまった。

 

 芸州、石州、小倉で採用された散兵の利点は少数で戦えることだが、兵が散らばるため命令が伝わりにくいという欠点がある。戦うのだという気合だけではだめで、兵士1人ひとりがこういう場面にはこう動くということを理解していなければならない。
そのために重要なのは教育だと大村は考えた。山口や萩での講義には、オランダで発行されたナポレオン戦争後に一般化された、軍事理論をの翻訳テキストが用いられ、庶民も徹底的な教育を受けてこの戦に臨んだ。長州が3500の兵で幕府軍を破ったのは、技術革新、教育、志が混然一体となったからである。実証的に見ればこれは奇跡ではなく、勝つべくして勝ったのだと言える。

 

 この戦争における長州の大きな目的は、幕府軍の侵攻意図を断念させることであり、大村はそれを達成するため、藩境を専守防衛し敵に消耗戦を強いる戦略を立てた。
戦略に続くものが戦術だが、当時の近代戦術は先に述べた3つの混合となるのが一般的だった。1つ目が縦隊で一気に攻める縦撃力。2つ目が一斉に鉄砲を撃つ横隊の火力。3つ目が散兵の機動力だ。散兵は一般に「散兵戦術」と言われるが、これは戦術を構成する要素の1つだから、本来は「散開戦闘法」とでも呼ぶのが妥当だろう。こうした近代戦術をしっかり実行するには、教育と心と社会の平準化が欠かせない。

 

 このような分野はマニアックと受け取られることもあるが、1つの物事は多角的に眺めて初めて立体的に見えることもある。

 

 私たちはなぜ歴史を学び、子供たちにもその重要性を説くのだろうか。冒頭で述べたように、歴史をきちんと学ぶことで感情論を排し、今という時代を正しく理解できるようになるからだ。過去を学ぶことで今を理解すれば、これを原因としてつくられる未来をよりよく見通すことができるはずだ。

 

(構成 ライター 今野靖人)

 

【講演者プロフィール】


大和大学 政治経済学部 専任講師

竹本知行〈たけもと・ともゆき〉

1972年山口県出身。同志社大学大学院修了(博士・政治学)。日本政治史に広く通じ、幕末から明治初期の軍事史を専門とした研究に定評がある。大村益次郎研究の第一人者。著書に『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制-大村益次郎とその継承者』(思文閣出版)など。