変革の時代を生き抜く“自己刷新力” 激変の時代を生き抜くヒント 〈前篇〉 [ 特集カテゴリー ]

ツキを気にせず最善尽くす 記憶より理解を深める(羽生善治氏 講演録)-① [ 国民栄誉賞 羽生 善治竜王 永世七冠  ]

ミスを重ねず気分転換
良いプレッシャーに身を置く
 
 将棋の世界は、ルールそのものは400年前から変わっておらず、極めて保守的・伝統的です。しかし戦術や練習方法、考え方はここ5年10年というスパンで見ると大きく変わり、これから先も、かなりの変化がやってくるであろうという世界でもあります。

 私は1年間で50、60試合の対局をしますが、プロ棋士でもミスはよくします。後から振り返った時に100点満点で完璧だった試合は年に1回、2年に1回。大部分の対局はちょっと失敗してしまった、改善や修正の余地があります。ミスをしないに越したことはありませんが、大事なのはミスを重ねないことです。ミスを重ねるのは、どうしてこんな事をしてしまったという後悔や動揺が客観性や冷静さを失わせてしまうのです。

 そこで一服することは大事で、短い時間でもお茶やコーヒーを飲む、外の景色を眺めるなどをして冷静さを取り戻し、その局面に向かう事がミスの連鎖を防ぎます。

 一方で行動や選択と結果や現実が一致するとは限らないこともあります。最善の手を指したから、勝負に勝てるか、ミスをしたから負けてしまうかが、必ずしも一致しません。そこに物事の機微が潜んでいると考えています。これは運やツキ、流れやバイオリズムなど様々な表現がありますが、目に見えるものではありませんし、科学的に証明されてもおりません。 
 とはいえ白黒がつく世界に生きてきて、それらはあると思っています。常に状況や環境は一定ではなく、刻々と変わっていきます。

 一方で運やツキは人を魅了するもので、例えばギャンブルや占いはどの時代でも存在し続け、流行しています。これから先ツイているのかを調べるのはとても楽しいことです。

 それは悪いことではありませんが、あまりツキに一喜一憂してしまうと、場面、状況で悔いの残らないように最善を尽くすことがおろそかになってしまうので、私自身は気にしないようにしています。ですが、結果が出ていない時にまったく気にならないわけではなく、多少は気になるのが人情ってものだと思います。

 昔から将棋世界で良く言われている表現に「不調も3年続けば実力」という言葉があります。不調が仮に3年間続いてしまったらそれは実力で、素直に現実を受け止めて、頑張って次のチャンスをうかがいます。一方で本当に不調というケースもあると思います。やっていることは間違っていないが、結果が出ない状態です。今日始めて明日や1週間後に成果が出ることはなくて、3カ月、半年など、ある程度の月日を経て初めて花を咲かせて実を結ぶ。 

 不調な時は、行っていることは変えず、気分を変えるようにしています。これはどんな事でも良いので、日常の生活の中で気分転換をする事です。髪型、服装を変える、部屋の模様替え、趣味を始める、早起きをするなど、小さなアクセントを付けることで、モチベーションを維持し不調の期間を乗り越えていく心掛けです。

 

 最近スポーツ選手の方たちがインタビュー等の受け答えで「楽しみたい」と答える人が増えているように思います。本当にそのとおりだと思います。一番よいパフォーマンスを発揮できるのは、リラックスして楽しんでいる時です。無駄な力も入りませんし、その人が持っている100%の力を、そのまま発揮できる環境です。

 ただ、現実的には常にリラックスして楽しむのは難しく、時には緊張してプレッシャーを感じることがあります。

 プレッシャーがかかっている状態は決して最悪の状態でありません。最悪の状態というのはやる気がまったくない状態です。しかし、プレッシャー状態は結構よいところまで来ているというケースも非常に多いのです。

 高跳びの選手を例にあげると、1m50cmのバーを跳べる選手がプレッシャーとなるのは、1m55、60cmのバーを目の前にした時です。確実に跳べる1mのときでも、絶対に跳べない2mの時でもありません。跳べるか跳べないかの緊張感。目標に到達できるあと少しの時なのです。
「胸突き八丁」という言葉通り、山登りでも八合目まで登った後の頂上までが肉体的、精神的に苦しく、それがプレッシャーに感じるのです。しかし冷静に、客観的に見てみれば、大部分のところまで来ている事が意識下にもわかっていて、緊張感を感じているのではないかと思います。

 また私の知合いで出版の編集者がおりますが、昔の作家の先生は締切りの直前でないと原稿に着手しない方がおられました。ものすごく暇なのに3日前にならないと書き始めないとか、前日にならないと書いてくれないなどです。これはイジワルなどではなく、締切りという避けることが出来ないデッドラインに身を置くことで、深く集中して良い作品を書くことができると考えていたからです。

 私も普段の練習や研究の時も一生懸命やっているつもりですが、最も深く考えているのは公式戦で待ったができない状況、時間にも切迫している時です。プレッシャーの中に身を置くことではじめて、持っている才能や能力、天性のものが開花するのではないかと思っています。

 またそのプレッシャーには良い緊張と悪い緊張というのがあり、日本語には適切な表現が残されています。悪い緊張は「身が強ばる」です。強ばってしまい動けない状態。良い緊張の表現としては、「身が引き締まる」があります。これは良いポジションなどについたときに、慣用句としてよく使われる表現ですけれども、まさにこの表現のときが一番良い状態です。適度な緊張感や緊迫感を持った状態だと思います。能力発揮のためには、プレッシャーを感じるくらいが丁度よいのです。

園児の対局は自由奔放
寿司ネタでは覚えられない

 NHKの「将棋の時間」でプロ同士の対局を振り返る時、視聴者から「よく100手とか再現することができますね」と言われますが、これはとても簡単なことなのです。なかなか信じてもらえないのですが、歌を覚えるのと全く同じです。皆様方も何百曲、何千曲と歌を記憶していると思います。最初の歌詞を聞いたら誰の歌か、サビの部分を聞いたら、これは何の音楽かを瞬時に思い返すことができます。棋士も同様に対局の棋譜を覚えています。もちろん覚えるためには、楽譜や音符に該当するような棋譜とよばれているフォーマットを覚える必要はありますが、あとは歌を覚えるのと同じ様に、振り返ることができます。ある種の法則性や連続性、周期性があるものはたくさん覚えられるのです。
 
 ある時幼稚園に呼ばれ、「園児同士が対局をするので解説をお願いします」ということで、お安い御用と引き受けましたが、将棋のルールを覚えた幼稚園児同士の棋譜を覚えるのは極めて困難です。こちらの予想する一手を指してもらえない、カオスそのもの、自由奔放、勝手気ままに好きなように指してくるので、とても覚えられるものではありませんでした。

 短期記憶と長期記憶が違うといわれていて、人間が短い時間で覚えられる記憶の容量は7字±2ぐらいと言われています。9桁程度の数字は聞いた瞬間は覚えられますが、20~30分経つと忘れてしまう。短期記憶を長期記憶に変える為には、24時間以内に復習してフィードバックするのが大事だとも言われています。

 棋士はたくさんのデータを覚える必要があり、20年位前からはパソコン使用が主流です。DVDの再生と同様に、一度ボタンを押すことで、最初から最後まで約1分間で1試合を盤面上に再現して見ることができ、短い時間で大量の情報を得ることができます。簡単に見たものはあっという間に私も忘れてしまいます。また本当に大切な事で5年後、10年後でも、正確に覚えなければならないと思った時には、将棋盤に駒を並べる、ノートに書く、誰かに話をするなどをします。大切なのは、五感を使うことで、人間は視覚から大半の情報を得ていますが、口や手、耳を使うという、さまざまな感覚機能を駆使することによって、より深く記憶が定着すると思います。

 また記憶に関して難しいのは、似て非なるものを覚えることです。将棋は81のマス目で40枚の駒がありますが、そのうち39枚が同じ配置でも、歩の位置が上か下かで結論が変わる事があります。記憶があいまいで類似した形と混乱すると、大きな間違いとなります。 また、大量に覚えていくので、時には忘れてしまうこともあります。これは記憶の問題ではなくて、どれだけその物事に対して深く理解できたかが鍵です。何百時間も費やして研究、分析した形やパターンは、仮に忘れても時間をかければ思い出せます。しかし丸暗記で記憶したものは、一度忘れてしまうと復元できません。記憶は大事ですが、全体像の理解度を上げることを最近は心がけています。

 

 棋士は、脳の研究の被験者をすることが多いのですが、テストの一つに、盤面を見て5秒間で駒の配置を記憶するものがあります。これは大体の棋士であれば可能で、駒一つずつではなく、塊として記憶していきます。右上半分のそれぞれ10枚はこの形、このパターン。右下はこのパターンと塊で記憶しています。このテストは囲碁の棋士も盤面が広いにも関わらず、40個の石を記憶することができるらしく、全体像を固まりとして覚える、パターンとして認識することで記憶しているようです。

 ある時テレビ局の企画で、将棋の駒だと簡単だから、代わりに寿司でと言われ、カッパ巻が歩、マグロが飛車、イカが桂馬、と寿司を盤面に置かれました。これは覚えられません。大体寿司がこっち向きかあっち向きかがまず分かりにくいですし、単なる握りずしの塊にしか見られませんでした。何でも覚えられるかというと、そうではないのです。   (続)

 

 

構成 ケアメディア編集部
編集責任 清話会編集部

 

 

【講演者プロフィール】

羽生 善治<はぶ・よしはる>
国民栄誉賞
将棋棋士、竜王、棋聖、永世七冠

1970年埼玉県生まれ。二上達也九段門下。85年プロ四段。史上3人目の中学生棋士となる。89年に初タイトルとなる竜王を獲得。94年第52期名人戦で初の名人に。将棋界の記録を次々と塗り替え、96年には前人未到の七冠独占を達成。十九世名人のほか王位、王座、棋王、王将、棋聖の永世称号を獲得、昨年12月には永世竜王を獲得、史上初の永世七冠を達成。今年2月、囲碁の井山裕太氏(七冠)とダブルでの国民栄誉賞を受賞。