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「ドナルド・キーン氏と終戦の日」(日比 恆明)

【特別リポート】
「ドナルド・キーン氏と終戦の日」

日比 恆明氏(弁理士)
 
本年2月24日、日本文学研究家であり翻訳家であったドナルド・キーン氏が亡くなられた。96歳であった。

25日付けの読売新聞では、1面、9面、28面、29面に告知と評伝、関係記事を掲載し、大々的に報道していた。9面、29面ではほぼ全面で記事が占められ、評伝では作家の松浦寿輝と瀬戸内寂聴の追悼文が掲載されて、外国人の死亡記事としては異例の扱いであった。

文化勲章を受賞していることから判るように、キーン氏の過去の実績は偉大なもので、その実績を私は否定する気はない。しかし、日本のメディアの取扱いは異常なほど大きいのであった。日本人の著名文化人であっても、このような分量の記事の取扱いはなかったような気がする。
 
キーン氏がこのような扱いを受けたのは、外人であり、日本文化を外国に発信した功績があることからではないかと思われる。

戦後のGHQによる占領政策の一つに、アメリカ文化を強力に日本人に植えつけようとしたことである。いわゆる3S政策と呼ばれるものである(スクリーン〔映画〕、スポーツ〔野球〕、セックスの頭文字のSを集めたもの)。日本古来の伝統文化を全て否定し、白人の文化に置き換えようとした、ともいわれている。

戦後は歌舞伎、能、文楽などの公演が一時禁止されることもあって(特に、仇討ち物)、伝統芸能は壊滅状態であった。日本の伝統芸能が復活したのは、1966年よりNHKにより放送された「ふるさとの歌まつり」からではないかと言われている。宮田輝アナウンサーが全国各地を回り、地元の郷土芸能を番組に取り上げた。この番組の影響により、地元では郷土芸能を復活させるキッカケとなった。伝統芸能が再評価されるようになったのは、戦後20年も経過してからであった。
 
キーン氏は日本の文化を研究し、GHQの方針とは逆にアメリカに日本の文学、伝統を伝えたのだった。マスコミが紙面でキーン氏を大きく取り上げたのは、その功績を評価したのであろう。

どうも、日本人は古来から外国人による批評や指摘により、思想を変える習性があるようだ。明治時代、フェノロサは、開国により破壊されている日本の芸術を評価し、伝統芸術の保護の必要性を指摘した。また、日本の伝承民話を多くの小説に残し、土着の文化を記録したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のような例もある。外国人から日本独自の文化の重要性を指摘され、初めて気がつくのが日本人の習性のようで、悲しいことである。
 
さて、私はキーン氏と出会ったこともなければ、会話したこともなかった。ただ、一点だけで接点がある。私は以前から玉音放送に関心を持ち、関係者からの体験談を聴き取りしていた。戦時中、キーン氏は日本語を学習し、捕虜の尋問や日本語放送の傍受の任務を担っていた。このため、キーン氏が玉音放送を聴取した可能性が高いと判断した。

或るつてにより、手紙をしたためて本人に郵送してみた。数日後に1枚のファックスが当人から送られてきた。キーン氏は終戦時の体験を次のように回答された。

「放送を聞いたのはガム島(Guam)でした。同日に誰か私がいるテントまで来て、日本から重要な放送があるから、聞いてくれと言ってたように思います。私は日本語を大体理解できましたが、重要だといわれましたので、三人の日本人の捕虜を選んで、一緒に聞くことにしました。三人の名前を全然存じませんが、十年ほど後に、独りが私の東京の住まいを訪ねました。佐賀大学の教授でした。数学が(ママ)物理学を教えていました。」
 
この体験談では、捕虜の三人の氏名は判明しないが、その内の一人は10年後の昭和30年代にキーン氏を尋ねてきており、佐賀大学の教授となっていたことということである。ただ、これはキーン氏の記憶によるものであり、当人が佐賀大学に勤めていたかは確かではない。
 
次に、1988年8月13日付けの朝日新聞に戦時体験談の手記があるのを見つけた。この手記では、捕虜となった日本将兵がグアム島で玉音放送を聴いた体験談が綴られている。

手記の全文は次のようになる。

「沖縄戦で負傷、捕虜になった私は、終戦をグアム島の収容所出迎えました。八月十五日、米海軍司令部から私を含めた将校三人が呼び出しをうけました。
「これから天皇の放送がある。三人で速記しなさい」というのです。聞き取りにくい話を文字にしていると、米軍将校が「これは天皇の声か」「聞いたことはないのでわからない」「天皇の声を国民がしらないはずはないだろう」と押し間答です。日本に住んだことのある別の将校が「彼のいうことは正しい」といってくれて助かりました。
 放送が終わると、米将校は「おもしろいものを見せてやる」と笑いながらカマボコ型兵舎へ連れていってくれました。そこには畳半分ぐらいの大きさの日本の都市の航空写真が張ってあったのです。大方は空襲を受けて焼け野原となっていましたが、「つぎの目標」と書かれた写真もたくさんありました。
 ついで「広島に落とした爆弾の映画をみせてやる」といいます。大学で物理を教えていた一人が、もくもくとわくきのこ雲を見て「これは原子爆弾だ」といいながらため息をつきました。日本人で原爆の記録映画を見たのは私たちが初めてではないでしょうか。
 捕虜となって米軍の豊かな物量を見せつけられ、本土空襲の跡や原爆映画に日本は負けるべくして負けた、と思いました。
  -世田谷区、無職(68)」
 
この手記にはキーン氏の体験談と共通する点が多くある。まず、集められた将校が三人である。多数の捕虜が同時に玉音放送を聴取された、という体験談は多く残っているが、三人だけ集められて、「速記せよ」と命じられたのは極めて特異である。また、その内の一人は「大学で物理を教えていた」経歴があるという。これもキーン氏の体験で、「(戦後)佐賀大学で数学が物理学を教えていた」という点で類似している。ただ、戦時中に大学教授の職にあったら高齢であり、将校として召集される可能性は薄い。大学で物理学を学んでいた召集兵ではないかと推測される。朝日新聞の投稿者は記憶違いしていると思われる。
 
朝日新聞には投稿者の氏名は掲載されておらず、今からすれば誰であったかは確かめようにない。投稿者は1988年に68歳であったことから、大正9年生まれである。年齢から推測すれば、大学在学中に学徒動員により召集されたのではなかろうか。また、他の二人も同じように学徒動員で召集され、高学歴であったと考えられる。
 
アメリカ軍は、捕虜となった日本将兵の内で役に立ちそうな人物(特殊な能力や技術を持った人)を集め、諜報活動に活用してきた。このため、フィリピン、沖縄で捕虜になった将兵を選別し、能力のある捕虜をグアム島、オーストラリアに移送していた。多分、この三人は極めて高学歴であり、当時では珍しくある程度英会話ができたと考えられる。手記の中で、アメリカ将兵と会話しているような雰囲気があるからだ。
 
こうしたことから、終戦の日に、この三名がキーン氏と接触していたことが濃厚である。しかし、今となってはそれらの人物が誰であったかは特定できにくい。戦時の歴史を残すため、誰かこの三人について戦後の消息をご存じではないだろうか。