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「文化大革命五十年」と「左翼老人」(小島正憲)

小島正憲氏のアジア論考
「文化大革命五十年」と「左翼老人」

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

1.共産主義と私

毛沢東も私も、「“世の中を良くしたい”“人の役に立ちたい”という思いを持っていた」。そして私は、その気持ちを捨てきれないまま「左翼老人」になり果てた。

しかし私は、「共産主義の洗礼を受けて良かった」と心の底から思っている。何よりも、常に搾取・収奪にうしろめたさを感じており、あくどい資本家・経営者にならなかった、否、なれなかったからである。したがって大儲けもできなかったが。

また、毛沢東から弁証法を学び、身に着けることができたおかげで、思想の軸ができ思考が柔軟になり、情勢の変転に機敏に対応できたからである。また生死を賭けて闘い抜いた学生運動の中で、一生涯の友人と伴侶を得たからである。

2.文革と私

20歳の時、文革が始まった。ちょうど中国経済を学び始めたばかりであり、毛沢東ファンだった私は、突如起こった文革に面食らった。

当時、多くの学者や知識人が文革について論じていたが、どれも納得のできるものではなかった。やっと今回の楊継繩氏の「文化大革命50年」で、私はその真相に辿り着くことができた。結局、毛沢東は自らの理想を追い求め、中国を大混乱に陥れたのである。

毛沢東は初志を実現できず、彼の社会主義の壮大な実験は大きな失敗で終わった。もちろん中国だけでなく、他の国における社会主義の実践も、すべて失敗した。これは認めなければならないことであり、私もその実験の片棒を担いだことを真摯に反省しなければならない。

文革が始まったとき、高校時代の私の友人は毛沢東派に身を投じ、私とは絶縁状態になってしまった。彼は武闘派への道を進んだのだ。たまたま私は彼には殴られることはなかったが、対立するセクトからはよく殴られた。

彼らは平気で、民主主義を蹂躙した。その彼らの行為は許すことができない。彼らに殴られた私は、一時は失明寸前だったこともある。その恨みは、いまだに消えない。私を殴った彼らは、その後、赤軍派となり、テロを行い、リンチ殺人事件を起こし、よど号で北朝鮮に逃亡した。

あれから半世紀、彼らの中にはすでに鬼籍に入った者もいる。まさに死人に口なしで、彼らからは、私に一言のわびもなかった。彼らの中には、平然と、社会で法律を守る職業に付いている者さえいる。彼らは、死ぬ前に、私と社会に、謝罪するべきである。幸い、当時私の所属していた組織は非暴力を唱えていたので、私は辛うじて加害者にはならなくて済んだのだが。

楊継繩氏は上掲著で、
「文革の最終的勝利者は官僚集団であり、当然老幹部と幹部の子弟は保護された。恐怖の“紅い8月”(1966年8月の紅衛兵による大量殺傷事件)の中で大いに殴打、破壊、略奪をした幹部の子弟は清算されることもなく、逆にすべてのチャンスを先んじて握り、つまり公費海外派遣、優先的登用、職権利用の商売などを独り占めにした。彼らは父親たちの政治的影響力を借りて、社会的資源を掌握し、中国の政治、経済を独占したのである」
と書いている。

私はこれに殺人を付け加えたい。現在の中国の指導者は、殺人・殴打・破壊・略奪の経験者である。その体験は消すことができないし、その体験が彼らの精神を異常なものにしている。加害者も被害者も、恨みや異常心理を抱え込んだまま、生き続けているのである。

文革の総括は、中国の指導者が文革中の所属派閥を明確にし、殺人・殴打・破壊・略奪などの体験を吐露し、加害者と被害者の間の手打ちができたとき、真に完成するものと考える。

3.死にゆく前に、いかにして、祖国日本に貢献するか?

思い返せば、私も多くの人に迷惑をかけ続けてきた。私は、今や中途半端な「左翼老人」そのものと化している。その批判は甘んじて受ける。毛沢東も左翼老人である私も、「“世の中を良くしたい”“人の役に立ちたい”という思いを持っていた」、それが初志だった。

私は今、その初志を貫徹しないまま、また迷惑をかけたまま、半分、棺桶に足を入れているのである。森口氏は上掲著で、私たち左翼老人に、「死にゆく前に、いかにして、祖国日本に貢献するか?」と問いかけている、否、挑戦状を送り付けている。

私は、この10年以上、通信を続けてきた。そこで、中国や東南・南西アジアの真実に迫り、小論文やエッセイとして発信してきた。ことに中国の「人出不足」「労働法改正」「借金大国」などへの警鐘は、他の中国ウォッチャーに先駆けて発信したもので、多くの人に役立ったと思う。

私は常に現場で起きていることに興味を持ち、調査を重ね、その本質を探ってきた。ことに「暴動調査」では中国全土の現場に足を運び、その真相を発信し続けてきた。自己満足だが、これはそれなりに貢献できたと考えている。

しかし数年前、内モンゴルの暴動現場で公安に拘束されたこともあり、中国の暴動現場調査からは離れた。また事業の方も、すでにバングラデシュとミャンマーに工場を移転完了し、今年からフィリピン工場を立ち上げている。中国での事業は来年でほぼ終了する。したがって私は、中国の現場に立ち入る必要がなくなった。つまり結果として、中国の真相が追及できないこととなった。

私は今でも、「中国は張子の虎」だと確信している。しかし中国とは縁が切れた今、私の中国論は、自分でも、現場から離れた空論に成り下がってしまったような気がする。
  
ことに、この数年、私の興味の中心が、「即身仏」や「死に場所探し」などになってしまい、それに関連する配信が多くなってしまった。そのせいか、最近、読者からの配信停止要求が多くなってきた。きっと、それは読者と自分の興味が乖離してきたからであろう。

毎週、読者が離れていくと、私はこの通信が、「本当に役に立っているのか」と、疑問に思うようになったし、だんだん書く意欲を無くしていった。しかしこれをやめると、自分の生き甲斐が消失してしまい、認知症への道に踏み込んでしまうような気がして、私はこの数か月間、煩悶し続けてきた。それは森口氏に、勇気がないと言われても仕方がない状態だった。

私は、元来、十年一節を唱え、72歳で人生を大転換すると公言してきた。しかし、この歳で全く違う道に踏み出すには、たしかに勇気がいる。森口氏に、「左翼老人は、死にゆく前に、いかにして、祖国日本に貢献するか?」と挑戦状を叩きつけられても、私にとってのその道はまだ定かではない。それでも、最近読んだ本の中の、「最後の10年が勝負」という文言に勇気づけられ、私はひとまず5月末で、この通信を終了し、退路を断つことにした。

「“世の中を良くしたい”“人の役に立ちたい”」、それが私の初志だった。

私は、中国とは縁が切れた。今こそ左翼の初志を貫徹する老人になる。

 

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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。