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『戦後日本政治の総括』(田原総一朗著、書評:小島正憲)

【小島正憲の「読後雑感」】
『戦後日本政治の総括』
田原総一朗著  岩波書店  2020年6月5日
帯の言葉 :「なぜ日本はこうなってしまったのか? 戦後政治をひもとけば見えてくる 長引く混迷の原因と再生のための展望」

本書は、長い間、「サンデープロジェクト」チームを率いて、日本の政治界に大きな影響を与えてきた田原総一朗氏の「戦後日本政治の総括」の書である。

本書を読んで、戦後日本政治が、極めて複雑な経過を経て、現在を迎えていることがよくわかった。それは米国統治・世界政治・天災・政治家個人の思想や資質・官僚や検察の行為・国民の総意などが、複雑に絡み合って生み出されてきたものであると言える。

ただし本書で田原氏は、「長引く混迷の原因と再生のための展望」を十分に示しきれているわけではない。今、まさに新型コロナウイルスという天災が社会を襲っており、安倍一強と言われた政治体制を揺るがしている。

本書で田原氏は、自らの思想遍歴を、
「レッドパージに強い憤りを覚えた私は、太平洋戦争に最後まで反対し、吉田内閣に対しても痛烈に批判を繰り広げている日本共産党に強い信頼感を抱いていた」、
しかし、1965年7月にモスクワで開かれた世界ドキュメンタリー会議に出席した田原氏は、そこで
「この国には、言論・表現の自由・そして競争というものがない。この国には将来がない。いずれ崩壊せざるを得ない」
と体感し、
「当然のことながら、私は左翼ではなくなった」
と書いている。

さらに、
「大学時代にはマルクスの“資本論”を読んだ。しかし、あまりに難解だったため、途中で読み続けることを諦めたというのが実際のところである」
「率直に記せば、私はもちろん、安保反対のデモの参加者やリーダーたちですら、そのほとんどが、実際には新安保条約の条文や吉田首相が結んだ旧日米安保条約を読んだことはなかった」
とも吐露している。

また田原氏は、大人たちに二度騙されたとして、
「国民学校5年生の敗戦以後、(戦前に、戦争を賛美していた)教師たちが、戦争には絶対に反対であり、君たちは日本が平和国家として維持できるように身体を張って頑張れと、ことあるごとに私たちに向かって強調していた」
「ところが、朝鮮戦争がはじまって、警察予備隊の役割が決まったとき、私が、“朝鮮戦争にアメリカが介入するのは反対、警察予備隊も反対”と言うと、教師たちは、“お前は共産党か”と言って私を睨みつけた。平和を守るために身体を張って頑張れと言っていた教師たちが、である」
と書いている。
これらの体験が、田原氏に、「すべての物事を懐疑的に見る」という姿勢を身につけさせたという。

田原氏は、
「私たちの世代の先輩にあたる戦後の政治家たちは、戦後、連合国から“侵略”だと決めつけられた戦争に加担し、戦後は、それと真逆の、連合国の政策にも加担しているのである。たとえば、戦後、首相として日米安保条約を成立させた岸信介は、太平洋戦争勃発時の東条内閣の閣僚であり、戦後、A級戦犯疑惑で逮捕されている。また、田中角栄、中曽根康弘、竹下登などは、いずれも戦時中は軍人だった。だが、戦後は、連合国は、二度と日本が戦えないように軍隊を解体させ、経済的にも、連合国にとって脅威にならないように、財閥を解体させるなどした。ただし民主主義国として再建させるために、象徴天皇、基本的人権、男女平等、言論・思想・宗教の自由などを明記した憲法を発布させた。もちろん、占領軍が策定したのである」
と書いている。

さらに、
「岸信介をはじめ、戦後の政治家たちは、こうした連合国、とくにアメリカの戦略に従った政治を行わざるを得ず、それは、繰り返し記すが、敗戦まで、彼らが考え、行ってきたこととは、ほとんど真逆のことであった。しかも、東西冷戦が始まって、朝鮮戦争が起きると、アメリカの対日戦略が大きく変わり、自衛隊の前身となる警察予備隊をつくらされ、日本の経済も強化されることになった
と続けて書いている。

つまり、戦前戦後を通じて、日本政治を担ってきたのは同一人物(しかも軍人が多く)であり、彼らは真逆を良心の呵責を感じることなく行ったのである。それらを可能ならしめたのは、東西冷戦の開始と朝鮮戦争であった。しかも、これらが日本経済を大きく発展させたのであるから皮肉なことである。さらに戦後の日本国民は、戦争に辟易しており、政治家はそれを忌避する勢力も無視できなかった。

田原氏は、宮澤喜一について、1953年に池田と二人で渡米したとき、アメリカ側から11万名であった保安隊を32万名に増員せよと迫られ、18万名に値切ったとして、
「宮澤は、後に、親しい人物に、“あのときぐらい憲法9条をありがたいと思ったことはない。憲法9条の存在が日本側の最大の武器だった”と語っている。“あなたの国がつくった憲法が戦力を持つことを封じていて、あなたの国の占領政策によって、日本人は、おかげで、軍隊嫌いな、平和愛好者になってしまったのですよ”という言い方までしたようだ。アメリカ側が、“それなら、米軍は日本から全軍撤退するぞ”と脅かしたのに対して、宮澤は、いささかも怯まずに、“どうぞ撤退していただきたい”と開き直ったそうである」
と書いている。
私は、この宮澤のクソ度胸に驚いた。最近の日本の首相は、アメリカ大統領の鼻息ばかり気にしているが、宮澤を見習うべきだろう。

田原氏は60年安保について、
「吉田茂による安保条約が、米軍の占領政策の延長であったのに対して、岸安保は、それなりに日本の主体性が認められていたのだ。ただし、岸信介は、安保条約の前に、警察の強化を図ろうとし、安保条約後には憲法改正を考えていて、私を含めて、国民の多くは、それを恐れたのである。岸信介は、いわばこの国を敗戦前の状態に戻そうと考えていたわけだ。しかし、岸信介にしてみれば、それが日本の主体性を取り戻すことであったのだろう。ところが、池田勇人以降の首相は、誰も憲法改正を主張しなくなり、警察力の強化、つまり戦前の警察に戻すことも考えなくなった。そして多くの米軍基地が持続し、事実上の対米従属であることを認め続けた。何よりも、日本の経済の復興と、戦争を避けることに重点を置き続けてきたようだ」
と書いている。

そして田原氏は、
「私たちは、安保改正案を誤解していた。しかし、岸首相は、憲法を改正して自衛隊を戦える軍隊にしようと謀り、しかも昭和の戦争への反省を全く無視している。戦争を知っている私としては、こういう政治姿勢を認めるわけにはいかない。また、吉田茂にしても、結局、米軍の占領政策の延長を是認している。しかも自民党は徹底した対米従属で、事実上アメリカに支配されている。かといって、共産主義、社会主義を肯定するわけにはいかず、私は1960年代後半から1970年代はじめまで、展望なきアナーキストに陥っていた」
と書いている。

田原氏は、
「1965年にアメリカは、ベトナム戦争をはじめた。そして、日本に自衛隊をベトナムに派遣せよ。そして一緒に戦おう、と言ってきた。日本としてはアメリカの要求を拒否はできない。佐藤首相は困惑した。そのとき宮澤が佐藤首相に、アメリカが難しい憲法を押し付けたから、ベトナムにはいけない、と説明するように言い、佐藤首相はそのように対応して、アメリカの戦争に巻き込まれるのを避けられた。宮澤は得意そうに、“安全保障は米国に任せ、防衛のための予算もエネルギーも控えめにし、経済復興に全力を注いで、日本は奇跡と称される高度成長を成し遂げたわけです”と言った。安全保障を米国に押し付けて、経済復興、そして成長に全力を注ぐ。こうした方針を定めたために、池田首相以降、歴代首相は憲法改正を唱えなかったということだろう」
と書いている。

田原氏は田中角栄の知力・能力を高く評価し、
「田中は、私に、何度も、“戦争を知っている世代が政治家でいる間は、日本は戦争をしない”と強調した。その意味では、宮澤喜一や竹下登と同じ姿勢だったのである」
と、その姿勢にも敬意を評している。

その田中が不幸にもオイルショックに遭遇し、
「田中は日本の資源政策を大きく転換し、オイルメジャーに頼らず、資源の調達先を多様化するという資源外交を行った」、
その田中の動きに対して、
「1976年2月に、ワシントンでロッキード事件が火を噴いた」
と書き、そのとき田原は、
「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」
という論文を書いたという。

その後、東京地検特捜部の手で、田中は有罪となった。しかし、田原の調査では、無罪だった可能性があると書いている。だが、田中は脳梗塞で倒れ、1993年12月に75歳で死んだ。

田原氏は、民主党政権についても、
「民主党政権が3年3か月で終わった要因について、民主党の政権運用が下手だった、確かな戦略を持っていなかったなどと語られていて、そういう弱点があったことは確かだが、私は、小沢が検察に徹底的に攻め続けられたためだと捉えている」
「小沢が官僚主導体制から政治主導体制への転換を図ったことで、官僚たちの猛反発を受けたのだ」
と書いている。
なお私は、菅首相のときに、東日本大震災が起き、福島原発事故があったことも、短命の原因の一つだと思う。

田原氏は、池田勇人首相以降、民主党政権を経て、安倍晋三首相時代まで、それぞれのエピソードを含めて、面白く書いている。私も初めて知ったことが多く、参考になった。

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清話会 評者: 小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化 市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を経ながら現職。中国政府 外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。