[ 特集カテゴリー ] ,

「李登輝元総統の死去」(日比 恆明)

【特別リポート】
「李登輝元総統の死去」

日比 恆明氏(弁理士)

7月30日、台湾の李登輝元総統が死去された。翌31日の各新聞の朝刊一面には死去を知らせる記事が掲載された。日本の友好国であり、日本の大学を卒業されていることから、記事の取扱いは大きいものであった。李登輝元総統は本省人最初の総統であり、台湾の政治を民主化させた功労者である。
 
私が最初に訪台した時、台湾は未だ蒋介石総統率いる国民党により統治されていた。小学校の教室には蒋介石と孫文の写真が必ず掲げられていた。映画館では、映画が始まる前に必ず蒋介石と国民党の業績を宣伝する数分のニュース映画が上映され、ニュース映画が上映されている間観客は起立しなければならなかった。

日本語が理解できる老人と会話する際に、政治や歴史の話題になると何となく口ごもった話し方に変わったことを記憶している。当時の日本では、台湾でどのような統治がされているかについては殆ど入らず、旅行ガイドブックでは知らされない暗い雰囲気があった。

【李登輝元総統との接点】
 
国民党による独裁政治を打破し、台湾を民主化したのが李登輝元総統であり、私とはほんのかすった程度であるが接点があった。
 
私は著名人の終戦体験に関心を持ち、2000年(平成12年)に「新潮45(現在は廃刊)」の編集部に著名人のインタビューする企画書を提出した。運良く企画が採用され、インタビューを開始することになった。私が人選した著名人のリストを編集部に提出すると、手際よく取材の日取りなどの手配をしてくれた。直接取材したのは、中曾根康弘氏、山口淑子氏、森英恵氏などであった。取材した内容は「玉音放送をどこで聴きましたか?」とタイトルされ、「新潮45」平成12年8月号に掲載された。
 
この取材が上手く進んだことに気を良くした私は、翌年になって李登輝氏を取材することを考えた。日本統治時代の著名人であり、日本語を理解されるためインタビューは容易であると判断したからであった。

以前と同様に企画書を作成し、主立った雑誌「月刊文藝春秋」「SAPIO(現在廃刊)」「月刊正論」「月刊選択」などに提出したが全て却下された。その理由は、台湾政府との交渉をしなければならず、取材の際に渡航費用がかかる、といったものであった。外国での取材になるため、準備が大変になるからであろう。

このため自腹で取材することにして、交渉の窓口を「亜東関係協会(現在、台湾日本関係協会に改称)」と決めて企画書や資料を送付した。2、3度、協会に電話して交渉してみたが全く進展しなかった。私の熱意に同情したのか、面倒な交渉は避けたいと考えたのかは不明であるが、協会の職員は「李登輝氏の個人事務所の住所を教えてあげるから、そちらに直接交渉してみてはどうか」と親切に回答してくれた。

早速、2002年12月1日に個人事務所に取材のお願いと資料一式を送付してみた。それから10日もすると、李登輝氏の秘書から別紙の丁寧なお断りのファックスが到着した。
 
どこの馬の骨か判らない日本人が勝手に取材を申し込むのであるから、断られるのは当然のことであろう。しかし、丁重に日本語でファックスを送って頂いただけでも感謝しなければならない。
 
「新潮45」による取材では、中曾根氏、山口氏などの著名人との面談はいとも簡単に決まった。それは新潮社という老舗出版社であったからであった。巨大メディアが長年かかって創り上げた信用力というのはたいしたものだ、とつくづく感心させられた。

【靖国神社の雪洞】
 
さて、李登輝元総統は例年7月に靖国神社で開催されるみたま祭りに揮毫を提出されていた。揮毫は雪洞(ぼんぼり)に加工され、境内で展示されていた。しかし、2015年を最後にしてそれ以降は展示されなくなった。ご高齢になったため、揮毫されることができなくなったからかもしれないが、寂しいことである。
 
揮毫を年代順に並べ、李登輝元総統を偲んでみることにした。


                  2010年


                  2011年


                 2012年


                  2013年


                   2014年


                  2015年