[ 特集カテゴリー ] ,

「コロナで七転八倒」(小島正憲)

小島正憲氏のアジア論考
「コロナで七転八倒」

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

1.1月下旬 : 中国のコロナ騒動でぬか喜び

1月23日、春節を迎え、わが社の中国人技術者たちは、ヤンゴンから心を躍らせて昆明行きの飛行機に乗っていた。そのとき彼らは、その後とんでもない事態に巻き込まれるとはまったく思っていなかった。

昆明空港に着いた彼らは、そこで翌日からの武漢閉鎖を知らされ、びっくり仰天した。なぜなら彼らの家は湖北省内ではあったが、武漢から汽車とバスで数時間という田舎にあり、武漢閉鎖ということになると、武漢市内で立ち往生し、家までたどり着けない可能性があったからである。

彼らは急いで武漢行きの最終便に飛び乗り、武漢空港に着くとタクシーなどあらゆる手段で武漢を脱出し、辛うじて当日中に、無事、家に辿り着いた。しかしそのとき彼らは、その後約8か月間にわたって、全員が田舎に足止めされるとは思ってもみなかった。ミャンマーが外国人の入国を禁止したからである。今から考えると、あのとき彼らを、昆明から武漢ではなく、逆にヤンゴンへ舞い戻らせていたら、わが社も中国人技術者たちもハッピーだったのだ。

1月初めに、すでに私は武漢で新型肺炎が流行し始めているという情報を得ていた。しかし私はかつて中国の工場でSARS騒ぎを体験し、それを上手く乗り越えてきていたので、新型肺炎など恐れてはいなかった。

逆に私は、「数年前から、わが社の中国工場はほとんどが休止・閉鎖・清算状態にあり、中国で新型肺炎が大流行しても、痛くもかゆくもない。すでにわが社は、中国から工場を東南・南西アジアに転出させており、今回、このわが社の戦略が的中したことになる。中国の他の会社の縫製工場がコロナで全滅になるので、これでわが社の一人勝ちとなり、大儲けできる」と、ほくそえんでいた。だが、私の考えは甘く、その後、七転八倒することになった。

※春節前の時点で、わが社の海外工場と駐在社員の状況は次の通り。

・中国:湖北省黄石市に1工場=300人 日本人駐在技術者2名は、1/20に帰国ずみ。
・バングラデシュ:ダッカに2工場=合計2100人 中国人駐在技術者10名は、1/20に全員帰国ずみ。
日本人7名はダッカ工場に残留。
・ミャンマー:ヤンゴンに2工場=1100人 中国人駐在技術者の中の8名が1/23に湖北省の自宅に帰還済み。残りの6名はヤンゴン工場に残留。日本人駐在技術者1名はヤンゴン工場に残留。
・フィリピン:マニラに1工場=350人 日本人3名・中国人6名ともにマニラ工場に残留。

2.2~3月:欧米諸国への感染拡大とライバル工場の休止・撤退

2月に入って、全世界にコロナが蔓延し始めた。日本政府がクルーズ船への対応などで、右往左往している間に、欧米各国への感染も爆発的に拡がって行った。欧米各国は慌てふためいて、強力な都市封鎖を行ったので、街中から人の影が消えた。レストランや小売店なども閉鎖を余儀なくされ、それらの店の売り上げが激減した。

その結果、数週間後、東南・南西アジア諸国の縫製工場が悲鳴を上げることになった。なぜなら欧米各国の小売店で販売されている衣料品の多くは、東南・南西アジア諸国で縫製されたものが多く、欧米各国のアパレルメーカーが、すでに発注済みのオーダーをいっせいにキャンセルしたからである。もちろん新規発注は皆無。

東南・南西アジア諸国の縫製工場は、2月初めごろ、コロナの影響で中国工場の資材生産がストップしたため、それらが入手困難となり、稼働休止を余儀なくされたところが多かった。

3月に入り、やっと資材が到着し始めたら、今度は欧米からのオーダーキャンセルでまた稼働ストップになった。欧米からの発注形態は製品仕入れが多く、資材などは工場持ちなので契約を破棄しても、発注側に損害は出ない。ましてやコロナという想定外の事態の前に、発注側に契約破棄の法的・道義的責任を問う声は少なかった。

踏んだり蹴ったりの工場は、休止を続行するところが多く、中でも中国から進出してきていた工場は撤退の道を選ぶところも少なくなかった。東南・南西アジア諸国における欧米各国向けの工場は、大型工場が多く、1万人を超すところも珍しくはない。それらの多くの工場が休止・閉鎖・撤退ということになり、その結果、各国で人出が余ってきた。

そんな中、わが社の工場群は日本資材なので遅れもなく、日本からの発注のため、順調に稼働できた。日本からの発注は、欧米各国とは違い、資材が発注元の所有であり、工場は生産のみを請け負うという形態なので、オーダーキャンセルということになると発注元に損害が生じる。だからオーダーキャンセルが起こりにくいという事情も有利に働いた。

私は、「わが社はライバル工場の休止や撤退などで、優秀なワーカーを安定して確保でき、しかも人出過剰な状況下では、東南・南西アジア諸国の最低賃金のアップなども延期されるに違いないし、大儲けの構図が変わることはない」と睨んでいた。

3.4~5月:東南・南西アジア諸国への感染拡大とわが社の困惑

4月になって、東南・南西アジア諸国にも感染が広がりはじめ、各国政府がコロナ対策を徹底し始めた。この期に及んで、やっと私は事態が深刻なことに気が付いた。

私は、コロナの蔓延で、わが社の各工場が閉鎖という事態に追い込まれるのではないかと思った。同時に、現地駐在の日本人や中国人技術者がコロナに巻き込まれる可能性が大きいと考えた。そして、いずれにしても、わが社に大損害が出ることは必至だと思った。

私はかつて、中国から転出する企業に対して、「東南・南西アジア諸国は政治・経済が不安定であるから、たとえ中小零細企業であっても、リスクを避けるために多国籍企業化せよ」と言い続けてきた。そしてそれをしっかり実践しているわが社は盤石だと思っていた。ところがコロナは、東南・南西アジアのすべての国を襲った。その猛威の前には、多国籍企業化はまったく無力だった。

また、ベトナム・カンボジア・インドネシア・バングラデシュ・ミャンマー・フィリピン・ラオスなど、各国政府のコロナ対策は、時期も対策も一様ではなく、それらに個別に対応することもかなり難しかった。

バングラデシュでは、政府はすぐに工場閉鎖を命じてきたので、多くの工場がそれに従った。ちょうどそれが、欧米からのオーダーキャンセルが起きてきた時期と重なったので、大型工場にとっては工場休止を行う絶好の口実にもなった。しかしバングラデシュのワーカーはその日の食にも事欠く者が多く、コロナでの感染死よりも、飢死を恐れ、閉鎖中の工場に押し掛け、操業再開を求めた。

その勢いに押された工場経営者たちは、工場をオープンさせ、政府はそれを黙認した。わが社も操業を再開させた。その結果、コロナはバングラデシュ国内に蔓延し、感染者279,144人?、死者3,694人?(8月18日現在)という事態に陥った。

ミャンマーでは、労働組合が、労働者たちをコロナ感染から守るために工場閉鎖を要求し、デモやストライキを主導した。これに対して政府は、デモやストライキで密になるとコロナを拡大するという理由で、それを禁止した。

その後、政府は、10項目以上に及ぶ工場の稼働条件を発令した。それは、とにかく労働者が密になることを避けるような対策が中心で、「ミシンの間隔を2mにせよ」など、いわば、工場内にソーシャルディスタンスを持ち込んだようなものだった。そして、それを完全にクリアーした工場のみが稼働を許された。

もちろん、政府当局による厳格な査察が行われた。わが工場もその査察にパスし、順調に稼働をさせることができた。政府の他の諸施策とも相俟って、コロナはミャンマー国内では拡大せず、感染者376人、死者6人(8月18日現在)となっている。

フィリピンでは、政府から工場閉鎖の命令が出たが、約1か月後、解除された。現在は通常稼働中。なお、フィリピンの8月18日現在の感染者は169,213人、死者は2,687人。

わが社の工場は、バングラデシュ・ミャンマー・フィリピンともに工場閉鎖は短期間で終わり、無事、操業を再開させることができた。しかし現地駐在日本人や中国人の処遇については、明快な方針を打ち出せず、思考錯誤を繰り返した。ことに、バングラデシュでは工場内にコロナが蔓延してくることが確実視されており、それから現地駐在者をいかに守るかが難問だった。

4月初めには、まだ広州~ダッカ便が飛んでおり、春節で中国へ帰っていた中国人技術者5名がダッカ工場に戻ってきており、日本人技術者ともども、じょじょに蔓延してくるコロナに戦々恐々としていた。技術者をそれぞれの国に帰してしまうと、工場内の品質の維持が難しく、わが社は大損害を被るかもしれない。しかし、そのために人命を犠牲にするわけにはいかない。悩んだ末、わが社は、日本人技術者を4/30の最終チャーター便で全員帰国させた。

なお、残留を希望した中国人技術者3名に後を託した。ミャンマー国内では、コロナは抑え込まれており、なおかつ、わが工場はヤンゴンからかなり離れた田舎にあるので、わが工場内でのコロナ感染はないと判断し、日本人・中国人技術者とも残留することに決定した。ただし中国に帰った技術者の再入国は不可となったため、残留した中国人技術者には任務が倍増することになった。フィリピンは、緊急帰国の道が閉ざされていなかったので、全員の残留を決定した。

4.6月 : コロナ対策優秀国:ベトナムの一局面

ベトナムはコロナ封じ込め成功国として名を挙げた。工場も早期に稼働を再開し始めた。そのような中で、政府は韓国人のIT技術者について、条件付きではあるが入国を許可し、経済のV字回復を狙った。だが、そのベトナムにも、欧米からのオーダーキャンセルの波は押し寄せ、それらを受注していた企業は窮地に立たされた。その結果、靴工場などでは数千人規模でのリストラが相次いだ。

しかし日本向け工場は安泰だと思われていた。ベトナムは物流にかかる時間が短く、短サイクル生産が可能なため、受注が途切れないだろうと思われていたのである。

しかし実際には、そうは問屋が卸さなかった。コロナで日本の小売店がいっせいに休業し、まったく売れない状況では、売れ筋もみつからず、さすがの短サイクルオーダーも消滅してしまったのである。したがって縫製工場の中には、マスク・医療用防護服生産に転換を余儀なくされたところもあった。

また最近では、ダナンを中心に、感染者が発生しており、政府も神経を尖らしている。なお、8月18日現在で、感染者983人、死者25人。

5.7~8月 : 七転八倒

全世界にコロナが蔓延し、各国が空港を閉鎖し、厳しい検疫や隔離を行ったので、人の往来がピッタリ止まった。わが社の技術者たちも、往来が遮断されてしまった。そのような中で、ダッカ工場とは、残留してくれた中国人技術者と本社が毎日テレビ会議で打ち合わせを行い、品質の維持に努めたので、それに成功している。ヤンゴン工場とマニラ工場には、運よく技術者たちが残留できたので問題は起きていない。もちろん技術者たちの体調にも問題はなく、わが社はしばらくこの体制を維持することにした。

その間に日本では、コロナの第2波に猛暑が加わり、日本人の多くは引き続き巣ごもり生活を余儀なくされ、衣料品の店頭は悲惨な結果となっていった。そして、「8月上旬までに新型コロナの影響で破綻したアパレル企業は50社、今後、約1万社のアパレル企業が倒産する」と言われるほどになった。つまり、今後、オーダーが激減するということである。

わが社の受注は8月末まで埋まっており、今のところ、9月以降の見通しは7割であるが、受注不足は明白である。このままでは現地工場が赤字となるので、全工場とも残業時間を短縮、バングラデシュは主力工場に集約、ミャンマーは衛星工場を閉鎖、フィリピンは新人ラインの休止などのキャパ縮小戦術で、ひとまず急場を乗り切ることにした。

 

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。