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書評:『心を病んだらいけないの?』(斎藤 環・與那覇 潤対談、評者:小島正憲)

【小島正憲の「読後雑感」】
『心を病んだらいけないの?』

斎藤 環・與那覇 潤対談 新潮選書 2020年5月25日
副題 : 「うつ病社会の処方箋」  
帯の言葉:「うまく話せない。人づきあいが苦手。それでも何とかなるーー」

一風変わった題名の本だが、面白い中身だった。私は、コロナ下で、人生を振り返る時間が取れたので、いろいろと過去を反省しているのだが、本書は、そのような私に新たな視点を提供してくれた。

この視点は、最近のある体験とも共通していた。先日、私が急に胃が痛んだので、病院に行ったら、若い女医さんが私に、「お腹の痛みの80%は原因不明です」と、あっけらかんと言い放った。私には、若い女医さんがウソを言っているとは思えなかったので、素直にその言葉を信じた。

しかし、その言葉は、私の常識を根底から覆すものだった。今まで私は、お腹が痛くなったら、医者に診てもらい、病名をつけてもらって、指示通りの薬を服用して、治してきたからである。それが、「原因不明のことが多い」と言われたのである。

今まで医者を信じてきた私は、騙されていたのか。騙した医者が悪いのか、騙され続けた私が悪いのか。それとも、結果として、腹痛が治れば良いのか。

これに対して與那覇氏は、
「家族や友人がどうも、心の病らしい。メンタルクリニックに連れていこうと思うが、よい医者の探し方を教えてくれないか」
という質問を提起して、
「心の病気に、“よい医者”はいません。むしろ、“悪い医者”を避けることを考えましょう」
「よい医者がいないというのは、もちろん“全員が悪徳医師だ”“精神医学事態がインチキ”といった意味ではない。誰にとってもひとしなみによい医者はいない。そういう“客観的な名医”みたいなものを探すのは、徒労になるからやめたほうがいい」
と答えている。

なるほどとは思うが、患者の立場からすれば、やはり「よい医者」を探して右往左往してしまい、「悪い医者」に引っかかってしまうのがオチなのではないか。

本書の各章のタイトルは、
「1.友達っていないといけないの?」
「2.家族ってそんなに大事なの?」
「3.お金で買えないものってあるの?」
「4.夢をあきらめたら負け組なの?」
「5.話でスベるのはイタいことなの?」
「6.人間はAIに追い抜かれるの?」
「7.不快にさせたらセクハラなの?」
「8.辞めたら人生終わりなの?」
「9.結局、他人は他人なの?」
というものであり、すべて常識を覆すようなものである。
そして各章末に、その答えがポイントとして示されている。

たとえば、第2章では與那覇氏が、
「マルクス主義の疎外論が生きていた1968年のころまでなら、“社会のせいだ!”として学生運動の中で生きづらさを発散できた部分があるけど、それはもうない。そうするとどうしても問題の“原因”を自分自身か、本人の近くに求めてしまう」
と言い、ポイントでは、
「精神分析のトラウマ論は、これが病気の原因だという“正解”を示すのではなく、家族関係を“見なおす”ためのきっかけを提供するもの。標準家族のイメージから外れていることを気にするより、自分自身がはつらつと生きられる新しい家族像を考えることの方が、ずっと大事だ」
と書いている。

たしかに、自分自身を総括する場合には、「社会のせい」と「家族のせい」という両極からの視点が必要であると思う。

第4章では斎藤氏が、
「こどもには成長していく過程で“自分はこういう存在で、それ以外にはなれないらしいな”として、自然にあきらめを獲得していく側面があるんです。ところが戦後民主主義の教育は“君たちは何にでもなれる! だから夢を捨てるな”と強調し、そうしたあきらめを禁圧する性格があった。いわば、教育システムが“去勢”を否認してきたわけです」
「圧倒的多数が普通科の高校に進学し、過半数が大学をめざす日本のキャリアパスは、良くも悪くも万能感―“努力すれば何にでもなれるはずだ”という感覚が温存されやすいシステムになっています」、
與那覇氏が、
「医者の息子であれ大工の息子であれ、学校では“同じペーパーテストで勝負するんだ”というのが戦後日本の教育の前提にある平等主義で、戦前の巨大な身分格差を払拭するうえでは絶対によいことだったと思うんです。しかし薬が効きすぎちゃったというか、ちょうどその裏返しで“なりたいものになれていないやつは勝負に負けたんだ。努力が足りなかったんだから自己責任だ”とする、おかしな感覚も生んでいます」
と言い、ポイントでは、
いつ、なにを、どのように“あきらめるか”が人生の本質であり、適切になされれば成熟と精神の安定をもたらす。だからこそ、いつまでもあきらめるのを認めなかったり、逆に都合よくあきらめさせることで相手を支配するような、悪い意味での“権力”の装置に気をつけよう」
と書いている。

両氏は当節流行のエビデンス主義についても、
エビデンス主義はつまるところ統計至上主義であり、……、調査対象者数を操作するなどすれば“有意差”があるかのような結果は割と簡単に導ける。この程度の根拠で“この疾患ではAを使うべき”などと決定するのはやりすぎである」
と書いている。

これはコロナウイルスについても言えることであり、経済や歴史一般についても言えることである。つまり、エビデンス主義とは、科学的に立証された結果であると偽装された統計で、世論をミスリードするものであるとも考えられる。

私もこのエビデンス主義=科学万能主義に強く影響されてきた一人である。今では、悪しきエビデンス主義を卒業し、新たな視点を付け加え、人生を総括すべきだと思うようになった。

また両氏は、ビジネス界などで流行しているPDCA理論について、
「PDCAの最大の弱点は“偶然性を取り込めない”ところで、事前に予測できないハプニングをプラスの結果につなげる仕組みになっていません。またプランを立てていないのに良い結果が出ると、人はどんどん楽観的になるのですが、逆にプランをしっかり立てると大概は予定通りに行かないので、治療者を“現場主義という名の悲観主義”に傾かせてしまいます」
と書き、
おそらく日本人は共産主義の教訓を取り違えていて、国家や経済のような“マクロなもの”を計画的に管理しようとしたから失敗しただけで、ミクロなレベルでなら“最強の自分”を設計できるんだと、いまも信じている
と書いている。

たしかに偶然性は人生に大きな影響を与える。これは面白い視点である。

 

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清話会 評者: 小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化 市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を経ながら現職。中国政府 外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。