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慎重さと大胆さが同居した不思議な空気感が魅力—-㈱富藤製作所

増田辰弘が訪ねる 清話会会員企業インタビュー【第7回】

慎重さと大胆さが同居した不思議な空気感が魅力—-㈱富藤製作所
–常に新たなる分野に挑戦をいどみ続ける老舗企業–

【会社紹介】

株式会社 富藤製作所
創業年月日 :大正15 年3月10 日
設立年月日 :昭和37 年1月24 日
代表者 :代表取締役社長 藤岡健彦
事業内容 :上下水道用ゴム、工業用ゴム、トレーサビリティソフト開発等
資本金: 1,000万円

                   藤岡健彦社長

■酒屋と兼業でスタート

会社の創業というのは実に不思議である。今回取り上げるケースのようにたまたまある縁でスタートした会社が100年も続いている事例もある。鳴り物入りでスタートした会社が数年の間に市場から姿を消す事例もある。

㈱富藤製作所(本社・東京都荒川区、藤岡健彦社長)は、藤岡社長の祖父である藤岡保雄氏が大正15年に創業した会社である。経済的に恵まれなかった彼は小学校時代に酒屋に丁稚奉公に出され、子供の頃から大変な苦労をするが、やがてこの店から暖簾分けの形で港区白金で酒屋を創業している。

普通なら富藤製作所は東京のどこにでもある酒屋で終わったはずである。ところが、祖父の友人である当時の東京市市議会議員の富岡
松之助氏から大正14年に完成したばかりの金町浄水場から給水バブルへの水道用シーリングパッキンが不足しているので力を貸して欲しいと頼まれた。

この依頼を受けて当時の水道用シールリングパッキンは皮を使用していて、牛皮の皮パッキンを東京市水道局に納入したことが同社の始まりである。

当時、靴、カバンなどの皮産業は荒川区、台東区が中心であったのでこの事業を本格的に行うため白金から千住に引っ越し、酒屋をやりながら水道用シーリングパッキンの製造、販売を始める。この時に、藤岡の「藤」と富岡市議会議員の「富」を1字いただき現在の「㈱富藤製作所」が発足した。

そのうちに酒屋は廃業し水道用シーリングパッキンメーカーに専念する。その後水道用パッキンは皮材の入手が難しくなり、皮から昭和10年代頃から天然ゴムへ、そして昭和40年代に入ると粗悪な天然ゴムから品質の均質性に優る合成ゴムへと変遷して行った。

同社は、皮、天然ゴム、合成ゴムと商品の材質が変化するなかで一貫して水道用パッキンの素材を供給し続けて来た。それは取りも直さず富岡市議会議員が仲介の労を取ってくれた東京都水道局の深いつながりである。

その後、東京都水道局の鋳鉄管ゴム輪、都型節水コマパッキン、仕切弁部品などを開発段階から携わったため、その後ほかに都市の水道局や給水装置バルブメーカーから黙っていても注文が入るという大変幸運な環境で会社運営がなされて来た。


                ㈱富藤製作所の製品の数々

■東京都水道局との太いパイプが強み

私事で大変恐縮だが、かつて神奈川県庁に勤めていて最初の配属先が同社の主たるユーザーでもある企業庁という平塚市や藤沢市など県郡部の都市に水道事業などを行う部局であった。

その時に東京都水道局に出張してびっくりしたことがある。当時の水道局の職員定数が1万3千人、これは神奈川県庁知事部局の職員定数と同じであった。すなわち、東京都水道局は大きな県の組織規模と同様なところである。そして、規模だけでなく水道行政のあらゆる試みを東京都水道局が行うパイオニア的存在である。これらは本来なら厚生労働省健康局水道課でやるべきところだが組織が脆弱で、未だにそうはなっていない。私が東京都水道局に出張したのも水道料金の自動検針システムを教えて貰うためのものであった。

すなわち、東京都水道局とは単なる地方の水道局ではなく、日本の水道事業を牽引しリードしている役所なのである。あらゆることの実験をやる場所である。ここと創業当初から太いパイプを持っていた㈱富藤製作所は最初から幸運の一文字が付いている。

しかし、人脈があるからと言って仕事が自然に流れて来るわけではない。製品の技術がついていなければ無理である。特に東京都水道局はほかよりも先行しているため新しい試みに挑戦しなければならない。この流れと藤岡家に流れる新しいものに挑戦するという血筋がぴたりと合ったのかも知れない。

特に、皮からゴムへと製品の材質が変わる時期が大きな変革期であった。ゴムはあまり表面から見ると解らないが原料の配合が重要な要素である。極端に言えば配合ひとつで品質ががらりと変わる。そして、この配合は同社が現在市場に供給している上下水道用ゴム、工業用ゴム、上水道用耐塩素用ゴムと製品によりすべて異なるのである。

このゴムの配合ができるのは同社では現在藤岡社長のみである。3代の社長がこのゴムの配合の技術を伝承させて来たことが大変大きい。現在ゴムの規格は3ミリ、4ミリ、から100ミリぐらいまでの小型のものを手掛けており、特定の分野であるものの東京都水道局管内ではシェアは90%の強さである。

これだけのシェアが取れるのもこのゴムの配合技術の持つ意味は大きい。万一水道管の水が漏れたら大変な事故になるから容易にほかの企業のものを使用することができないのである。

地方都市の水道事業は少子高齢化で先細りの感があるが、同社はタワーマンションなど新たな事業が加わり年商規模の変化はない。現在も順調な事業運営が行なわれている。

■新たな事業領域を拡げた電子タグ事業

㈱富藤製作所にとって願ってもない新しい事業は突然やって来た。2013年にクロマグロの乱獲が大問題となっていた。なんとかしなければクロマグロそのものが枯渇してしまう。うまく管理する方法はないものか。当時水産庁は頭を抱えていた。

たまたま、この話が友人である船用品卸業の田中船用品㈱(本社・東京都江東区)の田中伸一社長から藤岡社長の耳に入った。何事にも前向きに取り組む藤岡社長はこれまでの同社が蓄積して来たゴム・樹脂シーリング材製造の技術力を生かして、なんとかならないかと考えた。

クロマグロは、大西洋などで収穫されるとマイナス60℃に冷凍して消費地へ搬送される。ほぼ鮮度が保持したままで搬送していると言える。しかし、そのためにはこのマイナス60℃に耐える材質の冷凍クロマグロ用電子管理タグにする必要があったのだ。

ここで同社は、水産庁の関連団体であるまぐろ漁業推進機構(OPRT)、前出の田中船用品㈱とチームを組み大西洋まぐろのトレーサビリティ(追跡可能性)システム確立への実証研究をスタートさせた。水産庁もこれに予算をつけてくれた。

この実証研究は6年間かけて2019年末についに一度に複数のクロマグロを水揚げしても一瞬ですべての魚の情報を100%読み取ることに成功させた。

これで漁業者はクロマグロを収穫すると魚体に同社が開発した電子タグを装着させ、日時や場所などの漁獲情報を水産庁と大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICCAT)へ提出できることになった。水揚げ時専用のリーダーでタグを読み取り、申請した情報が問題なく登録されていることを管理ソフトで確認する。

その後加工プロセスにおける実証実験も行う。クロマグロの漁獲を起点とする各流通過程の履歴が追えるシステムとした。トレーサビリティとブロックチェーン技術を合わせて構築すれば、IUU漁業(違法・無報告・無規制)の抑止ができるとともに、懸案であった情報の改ざんの防止も可能となった。

各過程のデータは1つ前のブロックのデータを受け継いでおり、あるブロックのデータを書き換えるにはその後のデータすべてを書き換える必要になるからだ。これで水産庁は、捕獲予定のクロマグロの電子タグを漁業者に配布するだけで資源管理が可能となり、流通の透明性が高まり、商品価値が高まった。

                本社近くの物流倉庫にて

■幻の3つの事業部の持つ意味

富藤製作所は未来志向の会社だ。今はまだ会社の規模はあまり大きくはないものの大きな夢をもっている。そしてそれを外部にも発表している。8年前から「㈱富藤製作所事業発展計画書」の発表会を上野精養軒で毎年、関連企業、金融機関などの関係者をお呼びして開催している。

この計画書で特徴的なことは、まだ会社にはない未来の事業部を書き込んでいることだ。現在ある上下水道用ゴム製品を主体とする第1事業部、クロマグロの電子タグの開発と販売を主体とする第2事業部のほかに多くの工業製品のデザインをイタリアのような洒落た製品に塗り変える第3事業部、食べ物、運動、医療、介護など人生をトータルで支援するトータルケアサービスを運営する事業の第4事業部、これは第3事業部とも通じるがドアノブや下駄箱などともかく標準化が進み過ぎ面白みが見られない日本のインテリアのデザインの多様化、高度化を進める第5事業部である。

今の日本政府、日本企業で何が欠けているかと言えば夢が欠けている。今後この国(会社)をどう持って行くのかという夢がない。かつては所得倍増計画、全国総合開発計画というそれなりの国家としての目標があった。

人間とは不思議なもので目標があるからそれを目安にがんばれるところがある。ところが、小泉政権の頃から財務省が予算要求の材料にされてはかなわないとこの経済計画の策定をやめさせてしまった。

この目標を持たない国家というのは大きな海を漂流しているようでどうにもうまく運べない。これは長期の日本経済の停滞の大きな原因のひとつになっている。

このことは民間企業も同様である。㈱富藤製作所もただ社員が食べていくだけなら余程のことがないかぎり水道関連の事業でおそらく今後50年は大丈夫である。しかし、それだけでは社員がイキイキとやってはいけないのだ。むしろ、組織的にも、人材的にも危機に陥る。

藤岡社長が、第1事業部以外の新しい事業の柱づくりにしゃかりきになるのも実はこのためである。種は蒔かなければ生えてこない。しかし、蒔いておけば花が咲き、実がなることもある。

トレーサビリティ、スマートデバイス、クラウドと外部資源を活用しながら常に新しい領域に次々と挑戦する富藤製作所の姿勢は大変貴重なもので多くの老舗企業の参考になる。


 会社の前に立てられていたウェルカムボード

◆会社のある街の景色
―生涯をかけ人生の
  筋を通した 長谷川伸

㈱富藤製作所の近くには隅田川、荒川という2つの大きな川が流れている。千住仲町、南千住、千住旭町と千住という街はこの2つの川に囲まれた街とも言える。

私はこの荒川にいささか思い入れがある。荒川土手にたたずむと番場の忠太郎の母親おはまが「忠太郎、忠太郎」と何度も呼んでいるような気がするのだ。

と言うのも、ある時に我々の歌う股旅演歌のほとんどは長谷川伸原作のものであることに気が着いた。沓掛時次郎、番場の忠太郎、一本刀土俵入り、関の弥太っぺとこれらはすべて長谷川伸原作である。特に、番場の忠太郎はこれまで三波春夫、三橋美智也、橋幸夫、中村美津子、三門忠司、氷川きよしとほとんどの演歌歌手が歌っている。

そこでこの股旅演歌ご本家で作家の長谷川伸に興味が出て調べて見た。彼は横浜の生まれ、父親は建設会社を経営していたが事業に失敗して一家は破産、やむを得ず母親は離婚しほかの人と再婚した。子供の頃、彼と弟はある時相談して東京で再婚した母親の家を訪ねるが、会えるわけはなくとぼとぼと2人で家に帰る。その後、彼は横浜港の荷役人夫などをやりながら苦学をして成長しやがて有名な作家となる。

ただ、「番場の忠太郎」のドラマと少し違うのは、その後母親が有名になった息子の長谷川伸に会いたいということで、一度だけこの親子は会う。その時、彼はここに早死した弟と一緒に来たかったと母親の前で号泣する。その日は彼の生涯で忘れられない一日となったのは言うまでもない。そして、この親子はもう二度と会うことはなかった。

番場の忠太郎とは実は長谷川伸の人生そのものであり、彼なりに筋を通したのである。彼のこのすごみのある生き方に私は密かに感動した。人間の価値はこの筋をどれくらい通せるかどうかで決まると私は思う。そして、彼の作品はどれもよく読むとこの人生の筋の通し方を語ったものである。

「番場の忠太郎」のドラマが、母親に冷たく遇された柳橋の水熊横丁、やがて反省し忠太郎を探し続ける荒川土手、これだけではそれほど荒川への思い入れは起きてはなかったが、長谷川伸の人生を調べるにつれ荒川という川にこだわりが出てきた。人生何にもまして筋を通さねばならないと教えられるのである。

 

 

増田辰弘(ますだ・たつひろ)

『先見経済』特別編集委員

1947年島根県出身。法政大学法学部卒業後、神奈川県庁で中小企業のアジア進出の支援業務を行う。産能大学経営学部教授、法政大学大学院客員教授、法政大学経営革新フォーラム事務局長、東海学園大学大学院非常勤講師等を経てアジアビジネス探索者として活躍。第1次アジア投資ブーム以降、現在までの30年間で取材企業数は1,600社超。都内で経営者向け「アジアビジネス探索セミナー」を開催。著書多数。