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第14回「清話会会員企業インタビュー」千代田オフセット㈱ (増田辰弘)

増田辰弘が訪ねる【清話会会員企業インタビュー】第14回

 たくみに印刷業の氷河期を克服した-千代田オフセット㈱

 ~ネットワークを組み特色印刷技術を生かして新事業展開~

【会社紹介】
千代田オフセット株式会社
創立:1948 年7 月2 日
代表者: 代表取締役社長 佐野栄二
資本金: 3,000 万円
取り扱い商品: ・パンフレット・カタログ・会社案内・チラシ・ポスター・宣伝POP・書籍の装丁・商品パッケージ・シール、ステッカー・カレンダー・手帳、ダイアリー
        ・メモ帳・名刺・封筒



                                                       佐野 栄二社長 

 

バブル経済の崩壊が会社を直撃   
 産業社会の変遷は激しくまた厳しい。各々の業種や企業もそれに対応していかなければ生き残ることはできない。
 今回取り上げる千代田オフセット㈱(本社東京都千代田区、佐野栄二社長)の印刷業も大変化の激しい業種の一つで、東京都印刷業工業組合の会員数がピーク時の3000社から100
0社へと約3分の2が淘汰されている。
 まず、印刷業の変遷であるが、戦後から高度成長期までは仕事の量が年を追うごとに増えて行く上り坂。すなわち設備投資をすれば、それほどの技術力を磨かなくとも、それほどの努力を
しなくとも仕事が確保できた。途中で活版印刷がオフセットに変わる変化はあったものの、ほぼ右肩上がりで伸びてきた。
 同社の創業は、戦後まもなくの1948年に佐野社長の義理の祖父にあたる福井出身の佐野真一氏によってであるが、実際に経営を担ってきたのは、戦後フィリピンから復員後、真一氏
の養子となった佐野志郎氏である。
 そして、この会社は不思議な縁で他人が関わりながら会社が生き延びて行くことになる。
 高度成長の波に乗りそれなりに順調に伸びてきた千代田オフセット㈱だが、最大の関門であるバブル経済崩壊に直面する。しかし、それまでは借金をして印刷機を所有していれば仕事は
来るから、銀行から借金をしてどんどん機械を入れていた。同社はバブル崩壊前には印刷機を7台所有していた。
 高校の参考書でもあった『世界史年表・地図』や『日本史年表・地図』等の印刷は安定した大量注文が続き、この仕事により半年間近く同社の印刷機が動きっぱなしの時もあった。今日
より明日はもっと豊かになる、経済は伸びている。どんどん借金をし、どんどん設備投資をする。どこの業界もどこの会社もやっていたことである。
 しかし、戦後一貫して伸びてきた日本経済もやがて転換期を迎える。それは力以上に膨らんだ経済を正常化させることである。バブル経済の崩壊である。
これが千代田オフセット㈱も直撃した。仕事が激減したのだ。本の出版そのものが減って来る。出版の部数が減って来る。新しいシステムの導入も、人材の確保もうまく行かず、売上の減少
が続いた。バブル経済の崩壊後の数年であれよあれよという間に会社の経営は大変なことになって来た。

                    
          歴史手帳 2022 年版(吉川弘文館)                日本史年表、世界年表、日本史年表・地図、世界史地図(吉川弘文館)

 

ファブレスで生き残ることを決断
 佐野社長が千代田オフセット㈱に入社するのが、1988年である。同社の売上げのピークが1989年であるから佐野社長は会社の山頂から下り坂を経験することになる。義理の父に
あたる佐野志郎氏とは相性も良く当初は順調な事業継承かと思っていた。
 しかし、開けてびっくり、驚くほどの借金の額、いわゆる債務超過状態である。佐野社長は入社後の人生を千代田オフセット㈱の再生事業に取り組むことになる。当時はどの業界もどの
企業もそんな状況であった。戦後一貫して経済が成長してきていたため、どの会社もまずそんな体験がなかったのだ。
 かつて、あるメガバンクの方に「バブル経済の崩壊後機敏に対応しすぐに体制を整えた日本企業はどの程度ありますか」と聞いたら「わずか5%」との回答を得た。この時期はほとんど
の企業が銀行の貸し剥がしに遭遇しながら長い年月をかけてバブル経済の崩壊後の体制立て直しに苦しんだ時期である。このことがその後の内部留保金を貯め込む超堅実経営となり、約30
年の長期に渡る日本経済の停滞を招くから皮肉な話である。
 バブル経済崩壊後の体制立て直しについて、印刷業においては大手企業や地方の企業を除けば多くの企業がもはや今までの体制は維持することは厳しく、印刷機能はファブレスにして、それまでのブランド、のれんを生かして営業で生き残るか、思い切って営業機能は捨てて印刷の生産現場のみで生き残るか等の選択に迫られた。なにしろピーク時東京都内で3000社あった印刷会社が1000社に減ることになるから業界としても相当な構造調整であった。
 同社のバブル経済の崩壊後の体制立て直しに佐野社長が本格的に動き出すのが社長になる前年の2003年である。この時、佐野社長は当時板橋区にあった印刷工場を整理しファブレスの
印刷会社で生き残ることを決断する。幸い、取引のあった会社の中に生産体制の再構築を考えていたところがあり、この会社にオペレーター数名を転籍させ、設備の一部も移設し、生産面で
の業務提携を行うことができた。永年取引のある得意先にも生産体制の変更を伝えたが、ほとんどの得意先が変更を受け入れてくれた。
 普通のカラー印刷はシアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの4つの色のバランスで色を重ねて色を作り出す。ところが同社の印刷はこれに加え「特色」と言われるインキを使用する仕
事を多く抱えていたため、これも生き残りには大きな武器となった。この色彩技術の保持と品質チェックのため、今でもこの会社に出向のかたちで1人の社員を派遣している。

印刷業界に2つの変革期
 佐野社長は、2003年頃から本格的に会社の建て直しに奔走する。小さな印刷会社とは言え、長年運営して来た工場を手放すわけであるから大変な作業である。しかし、これに大きく
役立ったのが、神田神保町に会社が所有する約200坪の土地であった。
 東日本大震災翌年の2011年にこの土地の半分を売却し、2013年に約6億円かけた10階建ての新本社ビルが竣工している。1階と地下1階は千代田オフセット㈱のスペースであ
るが、2階から上は賃貸マンションである。地の利が大変良いためこのマンションは常に満室である。
 これで本業の印刷業がそれほど振るわなくとも何とかやって
行ける体制を整えた。バブル経済の崩壊から約20年、佐野社長が本格的に会社の建て直しに奔走してから10年、やっと同社は明日を見て生きる体制を整えた。
 しかし、会社というのはとてもやっかいなしろもので、安定して食べて行ける体制が整うと、決してさぼっているわけではないが新しい挑戦や新技術の開発などをしたがらなくなる。事実
その後の10年は牛歩のごとくあまり多くの新しい動きをしてこなかった。
 これには印刷業特有の事情もある。典型的な受注産業で得意先の仕事を納期通りきちんと納入するそんな雰囲気が業界自体に充満している。新たな顧客を開拓する。新しい技術を開発す
る。そんな対応にどうしても遅れがちである。そんななかで大きく成長している企業もあるが、業界の企業の目から見るとどうしてもアウトサイダー的な動きをしている企業である。
 印刷業界にはこれまで2つの大きな質的変化がある。一つは1970年代後半頃からの活版印刷からオフセット印刷に変わる生産方式の変革の時、もう一つは1995年頃からのデジタ
ル革命である。今ではどこの会社でも高機能のプリンターや印刷装置を持ち、そこそこの印刷ならこなせてしまうレベルになって来た。
 今の印刷会社はこの2つの変革期をどう乗り切ってきたのかでかなり違ったものになって来ている。少数ではあるもののこれをテコにして成長した印刷会社も少なくはない。いつの世も、
どの業界でも、極端に言えばどの人間にもこの時代の風、感性を受け止めることが不可欠で、これを受け止めた側が生き残り、受け止め切れなかった側が淘汰される。歴史はこれを繰り返し
ている。

現在、構造改革の真っ只中
 千代田オフセット㈱において、野球でいうならば中継ぎ投手が佐野社長であるならば強力な2番目の中継ぎ投手が息子の佐野大祐氏である。幸運にも3年前に入社してくれた。彼を中心に
現在、同社は構造改革の真っ只中にある。
 その現況であるが、まず初めに手掛けているのは、千代田オフセット㈱の「ブランディング」である。つまり会社の立ち位置、方向性、価値観を作っていくことである。次には、企画・マーケティング力のアップである。そのために昨年は「年始に配るお年賀」を独自に考案した。昨年は新型コロナウィルスの感染拡大という環境と所謂“レトロ”が注目されていることを受け、
紙石鹸をレトロ調の箱に入れて配った。これは、大変好評であった。
 今年のお年賀は、昨年から取り組み始めた「ペーパーフラワー」を配り、受け取ってもらった女性客からは「かわいい!」
との声が多かったようだ。
 ペーパーフラワーは1枚1枚手で巻き、花を作り出すわけであるから、時間がかかる根気のいる仕事である。これが実物と見間違うほどの出来栄えで見事なものである。これはある障害
者施設との協業で生産している。この製品は将来、障害者と社会を繋ぐ新しい仕事になるのかも知れない。
 後は、デジタル化である。同社はこれまでホームページやネット販売にはそれほど力を入れてこなかった。先に上げた成長している印刷会社はこのデジタルを幅広く活用している。
 佐野大祐氏が東京都印刷工業組合の青年部の会合に出ると、高齢者が多い。会員の高齢化が進み、かなりの若手になる。それだけ高齢化が進んでいるし、印刷業とデジタルは対軸にある
ためどうしてもデジタル化が遅れやすい。
 若返りを果たした同社はまさにデジタル化のチャンスである。

         

           昨年のお年賀(紙石鹸)                     ペーパーフラワー

 

 

◆会社のある街の景色
神田的施設のちよだプラットフォームスクエア
 千代田オフセット㈱のある神田の街は不思議な町である。まず町の数が多いことである。神田が頭に来る町は26もある。文京区が全部で20町、中野区が19町であるから一つの区ぐらいの
数の町がある。
 鉄道の駅についても御茶ノ水駅、新御茶ノ水駅、秋葉原駅、神田駅、淡路町駅、神田神保町駅、小川町駅と7駅もある。このくらいの規模の町は、あとは日本橋くらいである。このこと
はやはり神田と日本橋が東京の町の原点であることが伺える。
 もう一つの神田の特徴は、「神田で創業し、成長したら大手町に移る」と言われるように地価、家賃が近隣と比べると安いことである。スタートアップ企業が多いのもそのためである。そのほかに、日本大学、明治大学などの学園街、秋葉原などの電気街、神田神保町の古本屋街、そして何よりも日本そばの聖地である。いろいろな施設が揃い多様な顔を見せているのが神田の
街である。
 そのなかで神田らしい施設を一つ挙げるとすると、神田錦町3丁目にある「ちよだプラットフォームスクエア」である。5階建てのこの建物には伊豆諸島の御蔵島村東京事務所、(社)シニア社会学会、(社)日本わさび協会などのほか多くのNPO、学会、協会、コンサルタント会社などが入居している。
 1階のレストランでのランチは毎週替わりで全国の町や村の野菜や魚などを素材にした料理が振る舞われ大変好評である(ちよだプラット村ランチスケジュール参照)。地下1階と5階は全室会議室で主に学会や行政機関などの会議が連日開催されている。
 1階の総合案内カウンタ―を見ていると、ここはてっきり東京都か千代田区などの役所の運営かと思っていたが、プラットフォームサービス㈱という民間会社の運営である。正確には千代田区が公共施設をリノベーションしたもので、2004年にシェアオフィスの先駆けとしてスタートしている。会社の事業内容は、官民連携によるまちづくり拠点の企画、運営とあるから官の民間化ではなく、民の官営化である。
 こういうまことに便利でうまい施設の運営も霞が関でも大手町でもない神田という街だからできる芸当である。神田の街は実に不可解で魅力溢れる街である。