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【講演録】高森 明勅氏「靖国神社と 日本人の精神の歴史」

【講演録】清話会特別見学会セミナー    東京◆2023年04月14日(金)

「靖国神社と 日本人の精神の歴史」
     ~靖国神社正式参拝と遊就館見学会~

 

 講師:高森 明勅 氏  (神道学者、歴史家、靖国神社崇敬奉賛会顧問)

1957年岡山県倉敷市生まれ。
國學院大
學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。
同大学日本文化研究所研究員。大嘗祭の研究で神道宗教学会奨励賞受賞。
皇位継
承儀礼の研究から出発し、古代史上の重要テーマや古典研究に取り組みつつ日本史全体に対して関心を持ち、現代の問題にも積極的に発言。

 

 ご紹介いただきました高森明勅と申します。神道学を修めており、現在、月刊『プレジデント』のネット版で「高森明勅の皇室ウォッチ」という連載を行っております。それから潮流社の『カレント』という雑誌でも「皇室の春夏秋冬」という連載を行っており2年目になりました。國學院大學のほうでは、神道概論と国史という日本の歴史の講座を担当させていただいております。今回は、「靖国神社と日本人の精神の歴史」という演題でお話させていただきます。

祀られている方々と生前に繋がっていた方々がやがていなくなる
 神社のご本殿は、神主が身と心を清め、お祭りのための装束に身を固めて神様の前でご奉仕します。 御本殿の主人公はどこの神社でも神様です。神様がお祀りされているのが御本殿で、一般の我々がお参りをするのは拝殿になります。もっと一般的になると拝殿の手前に賽銭箱があり、その手前でお参りをします。これは社頭参拝というお参りの仕方で、昇殿参拝とか正式参拝というのは拝殿に上ってお参りをすることをいいます。
 靖国神社の場合は、祀られている神様とお参りする参拝者の距離が近いどころか、神様が息子、お参りする側が親や兄弟という関係なのです。本殿は神主さんだけというのが一般の神社ですが、靖国は一般の参拝者も御本殿まで入れます。ただ本当であればみそぎをして、白衣に着替えなければ入れない空間であるということは心しておいていただきたい。それを前置きとしまして、靖国神社を巡る基本的なお話をさせていただきたいと思います。
 まずそのバックグラウンドです。「神の道」と書いて「しんとう」と濁らないで読みます。神道とはどういうものなのか、靖国神社の始まりと現状、あるいは戦後の靖国神社についてお話します。

 靖国神社は明治2年に東京招魂社という形で始まり、明治12年に靖国神社という現在の名前になり、格官幣社(べっかくか んぺいしゃ)という社格が与えられます。
 そして今、この東京招魂社あるいは別格官幣社靖国神社が発足して以来、いまだかつて経験していない時代に入ってきています。今までの靖国神社の歴史というのは、日本の社会の中に、必ず靖国神社のご祭神、祀られている英霊を知っている人たちがいました。 始まりは、戊辰戦争から、鳥羽・伏見の戦いで戦った人々が、戦死した子供の頃から一緒に育ってきた仲間たちを御霊として祀ったのが、東京招魂社の起こりです。
 そこから明治10年の西南の役、明治2728年の日清戦争、そして3738年の日露戦争、大正時代に第一次世界大戦になって、満州事変、支那事変、大東亜戦争、その間生きている日本国民の多くはご祭神を知っていました。ご祭神と日本社会を支える人たちが繋がっていたわけです。
 ところが昭和20年から既に78経って、もうすぐ80年経とうとしています。昭和20年に生まれた方はもう78歳、80歳です。 
 要するにご祭神として靖国神社に祀られている方の生前の姿を知っている人が、まもなく完全にいなくなるということです。だから靖国神社を支える日本社会は、気心の知れた関係の人を祀っていたという段階から次の世代に入って行くということです。
 考えてみたら明治、大正、昭和と、全部戦争がありました。そしてどの天皇も戦争はしたくなかった、日清戦争のときも、日露戦争なんかもっとそうです。しかし、戦争をしたくない代々の天皇のお気持ちを裏切っていつも戦争があったのです。

 ところが上皇陛下が天皇を退位されるときに、「平成になって初めて戦争のないまま終わろうとしていることに安堵します」というふうにおっしゃられました。私は平和はもう当たり前だと思っていましたが、上皇陛下にとっては当たり前ではなかったのです。
 お言葉があったように80年近い平和が続いたことは、とても尊いことではありますが、それが靖国神社を支える、気心の知れた御霊の生前の姿を知っている人たちがいなくなるということで、靖国神社にとっては新しい局面になっていくのだろうと考えています。身近な人、見知った人を祀る靖国神社は疎かにできないという気持ちが日本国内にあったけれども、それをこれからの日本人がどう受け継いでいくのかが大切な課題になっていると申し上げたいと思います。
 そして靖国神社には様々な誤解、曲解、理不尽な批判がたくさんあります。それらについても話さなければいけないのは、まず神道という形式で靖国に祀られていることにすら批判をする人がいるわけです。

幕末の志士たちの精神的拠り所は楠木正成だった
 まず神道とはなんぞや、ということで申し上げると、神の道と書きますが、これは日本の民族宗教なのです。しかし、神道とか神社は宗教じゃないという人がいます。
 例えば社会問題になった統一教会やこの前教祖が亡くなった幸福の科学など、それと靖国神社を一緒にしていいのかと言ったら全然違います。あるいは明治神宮にしても伊勢神宮にしても全然違います。日本人の多くは宗教と言うと教祖がいて、教義があって、布教の組織がある。そして確信的な信者がいる。これらが全部揃って宗教というイメージがあるようです。
 靖国神社は教祖がいません。どこの神社にも教祖はいないし教義もありません。いわゆる教団に当たるものもないし、あなたは靖国神社の信者ですかと言われも返事に困りますね。そういう意味で宗教としては創唱宗教とははっきりと違うわけです。
 そこの風土、環境、自然の中で生まれてきた自然宗教というものがあり、それが一つの民族単位にまで広がったものを民族宗教というのですが、神道はこちらに当たります。
 むしろ宗教というのは元々自然宗教で、地球上の至るところでその環境との折合いをつけながら、人間の力の限界と、それを超えたものへの畏れや憧れ、そういったものが宗教になっていったわけです。

 ところが創唱宗教が出てきた。これは組織を持っていて、最初は限られた地域で出現しながら、強い布教力によって広大な地域に浸透します。例えばキリスト教はローマ帝国と結びついて、ローマ帝国が領土を広げればそこに全部キリスト教が入っていくという形です。だから自然宗教はどんどん圧迫されて、現在21世紀の世界に自然宗教と言えるものはほとんどなくなってきています。
 日本の場合は神道という形で例外的に残っています。日本人であれば、みんながお正月には神社にお参りに行くというようなことですが、元々こちらが古くてポピュラーで普遍的だったという意味でも神道とは日本の民族宗教であるということです。一番古いのが神道ですね。そこに遅れて仏教が入って来て、さらにキリスト教も入ってきました。
 幕末の日本人は、ヨーロッパの植民地になるかもしれないという恐怖、脅威に直面していました。そこで時代の危機を見破った、靖国神社に祀られている吉田松陰や橋本左内は、日本を守らなければいけない、ではその守るべき日本とはなんぞや、ということを問うたわけですね。
 現代の我々から見たら、それは時代錯誤だと言うかもしれませんが、今とは全然時代が違います。その時代における自問自答、最後に守るべき日本とはなんぞや、という問いに対する答えが、尊皇論であり攘夷論だったのです。
 そして幕府を倒すための様々な戦いの中で、精神の拠り所になったのが楠木正成という人物です。南北朝時代の中心人物で、皇居の前には馬にまたがっている銅像があります。
 この楠木正成は河内の土豪です。微力な土豪が力を尽くして鎌倉幕府を倒した。ならば、我々にも徳川幕府を倒すことができるのではないかということで、幕末の志士たちの心の拠り所になりました。楠木正成に続けという意気込みではあったものの、その戦いで多くの仲間が殺されていきました。その同志の慰霊を楠公祭(な んこうさい:楠木正成の命日にその遺徳を称える祭典)のときに合わせて祀るのです。楠木正成がメインではありますが、幕府側の手にかかって命を落とした同志も神道の形式で祀りました。

 これが源流になり幕府が倒れ、新しい時代が来て鳥羽伏見の戦い以降の戦でも倒れていった者たちの御霊を祀ることになりました。
 最初は京都で祀る予定でしたが、明治2年に明治天皇が東京に移られ事実上の遷都が行われましたから、お祀りの中心は京都ではなく東京になりました。最初は上野公園あたりが候補地でしたが、最終的にこの九段下になりました。こちらの祀りがやがて招魂社になり、靖国神社になっていったというわけです。
 では、楠公祭はどうなったのかというと兵庫県の神戸に湊川という楠木正成が亡くなった場所があります。そこに徳川光圀が「楠木正成こそ忠義の臣である」と言って、元々逆賊扱いされていたのですが、「嗚呼忠臣楠子之墓」というお墓を建てました。これが明治維新の精神的な源流になっていきます。それが後に江戸幕府を倒すことになるという歴史の皮肉があるのですが、明治維新の結果、その精神的源流になった楠木正成を祀る湊川神社が創建されるわけです。
 明治天皇が「楠木正成は千年に一人の英雄で、国民の手本である」ということで湊川神社創祀の御沙汰を下され、明治5年に創建されました。そして、同志の慰霊祭のほうが靖国神社に結実をするという流れですから、そういう意味では湊川神社と靖国神社は兄弟関係にあると言ってもいいと思っております。

神社としての格は低いが代々の天皇や皇室はとても大切にして下さっている
 靖国神社の神道で祀っているのはけしからんという意見が、いかに成り立たないかというと、二つあります。
 おかしな議論の中には、憲法の政教分離原則に照らして、宗教ではなく無宗教でなければいけないという議論まであるのですが、亡くなった人を弔うのに無宗教ってあるのかということです。
 8月15日には、日本武道館において全国戦没者追悼式があり、天皇陛下にお出ましいただいていますけれども、そのときに中央に建てられている標柱には、全国戦没者の霊と書いてあります。霊を対象にして拝礼しているのはどう考えても宗教だということです。
 政府主催ではありますが、戦没者の霊を慰めるのであれば宗教を100%排除することは無理というか偽善、欺瞞になると私は考えていて、ではどういう宗教でやれば良いかといったら、キリスト教ですか、仏教ですか。消去法で考えても、それは神道しかないと思っています。
 そもそも戦没者の皆さんは、もし戦死した場合、靖国神社に祀られることを願っておられたという事実があります。靖国神社の場合、ご本殿は厳重な神道の形式ですが、拝殿のほうは結構寛大で、色々な宗派の、例えば仏教の団体が集まってお参りをして、拝殿で仏教式の供養というか追悼行事を行ったりしています。
 神道の包容力が、靖国神社では 特によく表れています。ご本殿の厳格さに加え、今日も玉串をお供えされて皆二礼二拍手一礼、これは純粋な神道形式です。戦没者を追悼しようとしたとき、最近の日本人が始めたわけではなく幕末から維新期に日本人が選択した神道の形式を選んだわけです。それを今更、別の形式にしろとか、各宗派の輪番制にしろとかというのは、あまりにも歴史を軽んじていると私は思います。

 そういう形で始まった靖国神社ですが、非常に興味深いのは、明治12年に靖国神社という名前と別格官幣社という社格をいただきました。別格官幣社というのは、すごく位が高いと誤解されている人がいますが、古来国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のために設けられた社格で、官幣小社に準じていてランクは低いのです。どうしてランクが低いかというと、明治の人たちにとってはできたばかりの新しい神社だったからです。京都の石清水(い わしみず)八幡宮や島根の出雲大社など、古代からあってしかも代々朝廷から天皇から崇敬を集めているような神社が数あるうえで、片や同世代の創健で造営に関わった大工の名前まで知っている神社、しかも人間を祀っているというので、当然格が下がってしまうわけです。別格というと格上のように感じますが、実は正式な社格の横っちょみたいな感じです。国家の制度としての社格は低いけれども、皇室や代々の天皇はものすごく大切にして下さっています。
 明治天皇がお参りされたときの絵画が遊就館にありますけれども、天皇陛下ご自身に8回お参りいただいています。神道の伝統的な考え方では、一般の神社に祀られる神様より天皇陛下が上であるという信仰ですから、天皇陛下が一般庶民の霊に頭を下げられるというのは前近代では本当に考えられないことなのです。 
 要するに靖国神社は近代的な神社で、どういう身分であっても、日本国民として国家のために亡くなったのなら皆等しく靖国神社のご祭神であるとしています。
 天皇より上の神様は天照大神を祀る伊勢神宮ぐらいです。京都伏見稲荷大社が正一位。お稲荷さんは全て正一位だと思っている人がいるようですが、あくまで伏見稲荷だけです。正一位というのは、天皇陛下から位を授けられて、その中で一番上ということです。位を授ける側と授けられる側、どちらが上かといえば、それは位を授けるほうが偉いでしょうという話です。
 要するに神様であっても天皇から位をもらう。ということは、天皇はその上ということです。そういう伝統的な信仰に立って考えたら、天皇陛下がわざわざお出ましになってご拝礼をされる、これは靖国神社が画期的な新しい精神の1ページを切り開いたと思うのです。

 靖国神社は天皇が行って賛美しているから戦争に繋がるとか、変な勘違いをしている人がいるのですが、天皇陛下がご丁寧に亡くなった庶民に対して拝礼して下さるということであり、明治天皇は御名代1回を含めて8回、大正天皇はご病弱で短かったですけれど御名代2回を入れて4回、昭和天皇は御名代ゼロで、なんと戦前戦中20回、戦後8回、合計28回ご拝礼をされています。そういう事実をご存じない方がとても多いのが事実です。
 靖国神社は国家の制度としての格は低いけれども、国のために命を捧げた国民に対して皇室は重んじて下さった。この事実を我々国民としては知っておく必要があると思います。
 毎年4月と10月に例大祭、神社の一番大切なお祭りがありまして昭和天皇も上皇陛下も今の天皇陛下も欠かさず勅使を差遣されています。
 全国に約10万の神社がありますが、勅使の差遣をいただくのは、伊勢神宮を別にして16しかありません。例えば東京だと明治神宮でも年に1回、千葉では香取神宮、茨城県には鹿島神宮、こちらは6年に1回です。そして福岡の香椎宮、大分の宇佐神宮は10年に1回です。出雲大社は年に1回ですね。ただ、伊勢神宮だけはそれらの勅祭社より上の地位にあって、年3回で、靖国神社が年に2回です。
 勅使は天皇のお気持ちを託されて御祭文を読み上げられます。その現物が遊就館に展示されています。柳筥(やないばこ)という箱に入っている天皇陛下からご祭神への御供物なのですが、蓋を外して中身が見えるようにして展示してあります。

 勅使とはどれだけ重い存在かというと、過日、安倍晋三元首相の国葬がありました。その時にまず国の偉い方々が入って来て、最後に安倍昭恵さんたちご遺族が入られ、その後に皇族たち、秋篠宮殿下、妃殿下も入られました。
 ところが、秋篠宮殿下が最前列にお入りになっているのに、立ったままなのです。昭恵さんが立ったままなのは皇族が来るのを待っているからですが、秋篠宮殿下はじめ皇族がみんな揃っているのにまだ立っている。それは、上皇宮使、上皇后宮使という特別の使者が入られ、最後に天皇陛下と皇后陛下それぞれの使者として勅使と皇后宮使が来るからです。勅使が入るまでは秋篠宮殿下も立って待っています。勅使は着いたらすぐ座り、最も重い立場の勅使が座れば皆さんも座るということです。勅使は普段は宮内庁の役人ですが、陛下のお遣いになった瞬間にこのような極めて重い待遇を受けることになるのです。
 靖国神社に勅使が来るときは、本殿から権宮司が迎えに行きます。賽銭箱はあらかじめどかしています。普通は正中というのは、神様に失礼だから避けるのですが、勅使ですから正中を通って真正面から拝殿を通り抜けそのまま本殿に上がってお供えをされ御祭文を読んで帰ります。
 お越しになったとき拝殿の席に着いている我々は、立って勅使のほうに体を向けて頭を下げてお迎えをします。帰られるときも同じです。毎年、2回の大祭ごとにわざわざ勅使をご差遣いただくほど靖国神社を大切にして下さるのは、日本のために命を捧げた方々を大切にして下さっているからです。

昭和50年を最後に天皇陛下のご参拝が途絶えたままの状態
 実は今、靖国神社がおかしな状態にあるということを申し上げたいと思います。今から何代か前の宮司さんで南部藩の殿様の家柄で旧華族の南部利昭宮司様がいらっしゃいました。元々電通マンです。その方の立派な業績は台湾の李登輝元総統を日本にお招きして、ご本人がかねて念願されていた靖国神社参拝の実現にこぎつけられたことです。
 自分に宮司が務まるかどうか悩まれていたときに霞会館で旧華族の集まりがあり、そこに現上皇陛下、平成時代ですから天皇陛下がお越しになっていて、そこで「靖国をよろしく」と声をかけられ、これはもう断れないと腹を決めたとご本人から聞きました。
 陛下は間違いなくご心配されているのです。なぜかというと昭和50年を最後に天皇陛下のご参拝が途絶えたままだからです。
 それは政治の責任です。政治的なトラブルを解決できず、内閣総理大臣の参拝ができていません。内閣総理大臣の参拝ができない状態で、天皇陛下に参拝をお願いできるわけがありません。

 小泉元首相は賛否いろいろな評価がありますが、靖国神社については大きな功績があります。それまで途絶えていた靖国神社の首相参拝を復活させ、在任中は欠かさずに毎年必ず参拝されました。中国、韓国がどれだけ批判、非難攻撃しても決して屈することはありませんでした。
 しかも退任された後に自分の真意はこうだったという講演録を宮司さんに渡されて、それを私も見せていただきましたが、自分が靖国神社を尊敬と感謝を捧げるために毎年参拝をして、それを中国や韓国から何と言われようと気にしない、とはっきり言っています。アメリカの大統領が止めろと言っても私は止めない、と。それでも日本国民が自分の行動を理解できないようであれば、そんな日本国民の総理大臣なんてやりたくないと、そこまでおっしゃっている。それだけの心を持ってやり続けられたのです。
 それが次の第一次安倍政権で靖国参拝が定着すると思ったら、体調を崩したということで結局参拝しないまま退陣になり、また第二次で復活はしたものの結局1年後に1回参拝しただけで辞めてしまいました。亡くなった方に非難めいたことは言いたくありませんが、最悪なことに第二次政権の退陣した直後に参拝されたのですが、これは要するに現職の総理大臣の間はできませんというメッセージになってしまったということです。とにかく今は、総理大臣が参拝できないのだから、一番大切な天皇陛下もお参りができないという異常な状態なのです。

 戦後の歩みを簡単に言うと、昭和40年代までは戦争体験者がいたので、靖国神社国家護持法案というものがあり、靖国神社は国家で責任を持ってお守りすべきだということを自民党が何回も国会提出しようとしました。が、昭和49年の国会では結局審議未了で廃案になり潰れました。
 後の昭和50年に三木武夫元首相が、初めて8月15日に参拝をするのですが、ここで憲法違反ではないか、政教分離違反ではないかと政治問題化していきました。日本国憲法が施行されて吉田茂内閣から三木武夫内閣まで歴代総理大臣のうち参拝していないのは、石橋湛山氏と鳩山一郎氏の2人だけです。
 靖国神社にとっては終戦記念日よりも大祭のほうが宗教性は高いです。8月15日は神社にとっては平日ですので特別な日ではありません。よく、陛下には8月15日に参拝していただきたいと言う人がいますが、全く心得違いです。それでは、大東亜戦争の御祭神のみの追悼になってしまうからです。ご祭神をあまねく追悼していただくのが天皇陛下の立場ですから、それはあり得ないことなのです。

 これが一つと、誰でもわかりやすいことを言えば、例えば赤坂日枝神社が首相官邸の氏神様ですから首相は赤坂日枝神社にお参りをしますが、それを政教分離違反なんて誰も問題にしていない。私人としての参拝か公人としての参拝かなんて誰も聞かない。あるいは安倍元首相が山口県で地元だから松陰神社にお参りをしても全然問題にはなりません。
 あるいはお寺で、法隆寺に行こうが、金閣寺に外国の大統領を首相が案内したりしますが、あそこはお寺ですから大宣伝にはなるでしょうが、それが政教分離違反だなんて誰も問題にはしません。お寺や教会は全く問題にならないのになぜ神社だけなのか、しかも神社の中でも松陰神社や赤坂日枝神社などは問題にならないで、問題になるのは靖国神社だけなのです。
 そして、これが昭和50年からガタガタと問題になって、それまでは普通に参拝していたことが、私的な参拝という逃げ口上を付け加えるようになりました。その後、公式公人としての参拝を望むという国民運動が盛り上がり、中曽根康弘元首相が昭和60年の1月、4月、8月に公人として参拝に行き、8月15日の参拝の1ヶ月後ぐらいに中国が批判をし始めました。
 そして今度はいわゆるA級戦犯を合祀してるからけしからんと言うのです。もう既にA級戦犯は昭和53年10月には合祀されていて昭和60年に合祀されたわけではありません。
 昭和53年に、厚生省から祭神名票で戦没者として準ずる形で認めました、という連絡が神社にあり、それをもとに合祀をします。靖国神社が勝手に合祀しているわけではないのです。国家として戦没者と同等に扱いますという名簿が来るのです。

 昭和54年の大平首相の参拝のときにA級戦犯合祀とは如何なものかという声が上がりましたが、それに対して大平首相は実に見事な答えをしています。国会やマスコミに追及された時に、「大東亜戦争の評価は歴史が下す」と言ったのです。侵略戦争を美化することになるのではないかという議論に対して「これは歴史が審判を下すことだ」と言っているのと、大平正芳元首相はクリスチャンだったので、キリスト教徒としてどうですかと言われたときには、「キミは人の内面に踏み込むのか」と言って、全く相手にしませんでした。
 昭和53年の10月に合祀して54年の大平首相から中曽根首相まで20回参拝していますが、それでも中国、韓国は全部スルーしているのです。それが昭和60年の8月に急に炎上したのです。
 だからA級戦犯を外さなければ問題解決しないというのは全くの後付けなのにも関わらず、今では日本国内なのに内閣総理大臣になったら入ることができない場所になってしまったということです。
 そんなおかしな状態ですから、天皇陛下も皇居がすぐ目の前にあって、毎年8月15日は日本武道館にまでお出ましいただいていながら、そして4月、10月には勅使のご先遣をいただきながら、陛下のご参拝ができないという状況が未だに続いているのです。ただし皇族の方々の参拝は続いています。要するに皇室が靖国神社を軽視されてるわけではなく、国民側がその条件を整えていないのです。

 石原慎太郎氏などは、総理大臣がお参りできないのならまず天皇陛下からと言いましたが、全く順序が逆です。毎年内閣総理大臣が参拝して何の問題もない状態ができて、そこに陛下にお越しいただけるわけです。今は、内閣総理大臣は春秋の大祭のときに真榊の奉納は途絶えなくやっていただいており、天皇陛下からは勅使の派遣をいただいていますが、決してこれが本来の姿ではないということを知っていただきたいのです。
 昨今、日本を巡る安全保障環境は極めて厳しいですから、防衛費を増やすのは大切なことですが、日本のために命を捧げてくださった方々に対して国が丁重な敬意と感謝を表明する姿勢を示さないで、誰が体を張って命をかけて、いろいろな思いを断ち切り踏み越えて、日本を守り抜くということが果たしてできるのかどうかということです。靖国神社という場で、改めてその点を共々に振り返りたいと思います。