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『素描・1960年代』(川上徹・大窪一志共著、評者:小島正憲)

【小島正憲の「読後雑感」】
『素描・1960年代』  
川上徹・大窪一志共著  
同時代社  2007年3月28日
帯の言葉:「60年安保、三池闘争、東大闘争、ヴェトナム反戦、新日和見事件―。僕らのあの時代経験は
何だったのか。“民青系”青年学生運動の渦中にあった二人が、60年代精神を検証する。」

私は、本書が15年前に発刊されたとき、すぐに買って読んでみた。だが、恥ずかしながら、数週間前、油井喜夫著「総括」を読むまで、油井氏が指摘する点-「川上氏が“素描・1960年代”で、新日和見主義事件の真相を告白している」に気が付かなかった。だから、さっそく本書を読み直してみた。

本書は、60年代前半を学生運動と共に生きた川上氏(1940年生)と、団塊の世代(1946年生)として東大闘争を闘った大窪氏の共著である。本書では、川上氏が全学連の再建過程を、大窪氏が東大闘争を、そして川上氏が新日和見主義事件を、自分たちの生い立ちを含めて、詳しく書いている。だから、両者の体験を通じて、1960年代の左翼運動史の一面を窺い知ることができる。

ただし、両者がともに東大生であったにもかかわらず、川上氏の文章は読みやすく分かりやすいが、大窪氏のものは哲学的で分りにくい部分がある。もちろん、これは私の学力不足なのかもしれない。だが、「どちらが大衆的指導者として適任か」と問われれば、私は川上氏に軍配を上げる。なお、川上徹は2015年1月死去。大窪氏は存命中。

また川上氏は、党との接触のきっかけを、
「フロントは当時の日本共産党東大駒場細胞の指導下にある大衆組織だった。なぜ僕がフロントを選んだかといえば、れは偶然だった。最初にどの党派の人に会うか、それで決まった
と書いている。
さらに大窪氏は、
「のちになってから、1960年代にさまざまな党派の活動家として学生運動に参加した人たちに、なぜその党派に加わったのか、かたっぱしから訊いてみたことがある。そうすると、多くの場合、自分が信頼する先輩や友人がその党派の活動家だったから、という声がかえってきた
と書いており、大窪氏自身も、東大入学時のサークル勧誘で、
「詰襟の学生服をきちんと着た、見るからに誠実そうな学生」
にセツルメント活動に誘われたことを、運動に関わるきっかけとして書いている。
つまり、二人とも、理論を学び、突き詰めて、日本共産党の活動家になったわけではなく、それは偶然が作用した結果であったようである。
 
川上氏は、新日和見主義事件について、
「これは僕らが“分派”という名の<徒党>を組んだおかげだった。ひとりだけの精神的作業としてはムリだったろう。なぜなら“シンヒヨ”のほぼ全員が30歳前後だった。ということは彼らが、それまでの60年代を党と共に歩んできた、もっとも自己犠牲的党員だったということでもあった」
と書き、分派を認めた。
だが、本文中で川上氏が書いている分派は、およそ分派という名にはそぐわないもの、いわば仲良しサークル程度のものだった。しかし、宮本顕治の分派活動への恐怖と警戒心は、それをも容赦しなかったということだ。

それに、全学連を再建させたという川上氏らの慢心が、宮本氏への警戒心を緩ませた。それは、本文中の、「党中央は相当準備していたようですからね(大窪)」、「今度“シンヒヨ”のことを書いて、自分でもずいぶん発見があったんだ。僕らの動き、<策動>って言えば<策動>だけど、あけっぴろげでしょ。アレは一体何だったんだ(川上)」という記述を読めば、手に取るようにわかる。

この新日和見主義事件を境にして、日本共産党は急坂を転げ落ちるように衰退していった。それは、この事件が、未来を背負うはずだった青年たち、自己犠牲をいとわず、まじめに活動してきた青年たち、つまり幹部候補生を一網打尽、宮本氏が党外へ放り出してしまったからである。

これで日本共産党の足腰はいっぺんに弱くなった。なお、川上氏は、「新日和見主義事件の際、最初、共産党中央は彼らがいう民青内“分派”は朝鮮労働党の画策によって形成されたと疑われた」と、不思議なことを書いている。

川上氏は、
「時に開かれる“全国学生細胞代表者会議”などで、こうした方針は全国に染みわたっていった。60年代半ば、僕らの運動が全国的に席巻できたのは、こうした自由な雰囲気、民主的な気風が、自治会や民青の活動家たちの気分とマッチしていたからではないかと思う」
「でもね、明るいイメージってそれだけじゃない。面白かったんですよ。つらいこともあったけど、つらさも含めて面白かった。ともかくいろんなことが愉快だった」
「1971年夏から72年5月まで、民青会館内は解放区のようなものであり、人生の充実感のようなものがあった
と、当時を回想している。

川上氏は、
「ソ連の宇宙飛行士ガガーリンが“地球は青かった”と言ったの、覚えているだろ? 社会主義の優越性は間違いないものと思った。そこにまったく迷いはなかったな」
という宗の言葉を紹介し、続いて、川上氏自身の、
「未来をそっくりいただく、僕らはそう思った。いつの日かわれわれは国家をそっくりいただくのだ。経済も社会も、国家独占資本主義が発達すればするほど、つまり資本と国家の癒着が構造的に進めば進むほど生産の社会化進み、それは将来の社会主義計画経済の土台を準備することになる。あとは革命により国家をいただくだけだ」
「<いずれ来る日>はいつ来るのか。それはだれにもわからない。しかし、必ず<その日>は来る。社会主義はいずれ地球的規模で勝利する程度の差はあれ、当時の党員たちの多くがそう確信していたと思う」
と書いている。これが当時の再建全学連初代委員長の認識である。
 
これに対して、大窪氏は、
「川上さんたちの世代は、おそらく、社会主義になれば豊かな社会になる。ということを素直に信じた世代だったろう。信じられる条件があったともいえる。でも、僕らの世代は、現実に存在する社会主義にはほぼ幻滅していた世代である」
「僕ら、当時の共産党員―中でもインテリゲンティアーは、社会主義の実態を知ろうともせずに盲信していた、といって非難されるべきなのではなく、かなりの程度まで知りながら擁護していたのはいったいなぜなのか、という点において批判されるべきなのである」
「“各人は能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る”とか言った、予言者たちによる豊かな社会の約束を信じていた。現存する社会主義に失望しつつあった僕らは、現存しない、どういうものなるのかいまだ定かならぬ、そのイメージすら具体性をもって語られていない共産主義社会における美しき完成に、豊かさの夢を託していたのである」
と書いている。これが当時の東大生共産党員の牧歌的な社会主義認識であったのである。

つまり、川上氏や大窪氏のようなエリート共産党員の中ですら、科学的社会主義ではなくて、感性的・宗教的社会主義がその脳内を制していたのである。ましてや私のような落ちこぼれにとっては。

川上氏は、
「(連合赤軍の)兵士たちが山岳のベースからベースへと彷徨っていたちょうど同じころ、僕らは意気高く民青会館“解放区”の中にいた。そしてほんの数か月の時差をもって、僕らもまた突然の敗北を喫した。突然ではあったが、時代に通用しなくなったという点では共通していた。歴史的に見ればほぼ同時消滅したのだった」
と書いている。

この二つの事件が、1972年に同時に起きたことは、注目に値する。つまり、1972年は、戦後左翼史における分水嶺だったのである。

川上氏は、三井三池闘争について、
「第二組合の連中はどこかで後ろめたさがあったと思う。だから彼らが強いところでは第一組合を助けたのさ。贖罪の気持ちがあったんじゃないかな。オレはそう思うけど。第二組合の人たちには、信念を曲げたという自覚が想像以上に強いと思うよ」
という生粋の炭鉱労働者の宗邦洋の言い分を紹介している。

なお、宗氏と川上氏は、新日和見主義の首謀者として断罪されている。私は、この宗氏の性善に基づく皮膚感覚を貴重なものだと思う。

 

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清話会 評者: 小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化 市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を経ながら現職。中国政府 外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。