≪最終回≫ ~北前船と酒造りの伝播~ 田崎 聡
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≪最終回≫ ~北前船と酒造りの伝播~ 田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 これまで私は、正調粕取焼酎を現在でも蒸留し、生産、販売しているところを中心に紹介してきたが、その数はもはや一桁を数えるほどとなってしまったのは残念である。
 現在、日本酒蔵は全国で1700 社ほどあるが、その中で粕取焼酎を生産しているところは、約十分の一の170社ほどで、さらに正調粕取焼酎として蒸留しているのは、その十分の一の17 社もない。

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第二十七回 ~幻の正調粕取焼酎 ~④福岡・大分編~   田崎 聡
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第二十七回 ~幻の正調粕取焼酎 ~④福岡・大分編~   田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 粕取焼酎は『博多焼酎』と言われているほど、福岡県では古くから大宰府を中心に人々に親しまれてきた歴史がある。しかし、残念ながら現在正調粕取焼酎を製造し、販売している蔵元は、福岡県の杜の蔵と光酒造ぐらいだ。

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第二十七回 ~幻の正調粕取焼酎 ~③島根・鳥取編   田崎 聡
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第二十七回 ~幻の正調粕取焼酎 ~③島根・鳥取編   田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 山陰の島根県と鳥取県は、北前船の寄港地としても有名である。鳥取県の賀露・青谷・境港・赤碕(現琴浦町)、島根県の隠岐西郷・温泉津・浜田など、廻船問屋や船主集落で、江戸時代には相当賑わった場所だ。島根県と鳥取県はまた、雲州平田や境港を中心に、近江商人が木綿栽培を施し、「伯州綿」を広めた場所としても知られている。

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第二十六回 ~ 幻の正調粕取焼酎~ ②栃木編  田崎 聡
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第二十六回 ~ 幻の正調粕取焼酎~ ②栃木編  田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 下しもつけのくに野国、栃木県は近江日野の蒲生家とも縁が深く、蒲生氏郷を先祖とする蒲生君平(1768年~ 1813年)の宇都宮にある蒲生神社は、今でも学問の神様として知られている。近江商人が下野国に根を下ろし、酒や味噌などの醸造業を定着させていったのは、そうした「他国商い」を受け入れる人々の土壌があったからであろう。それは、日光参りや日光街道の宿場町を有し、必然的に他国商いの交流があった土地だったことからもわかる。

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第二十三回 ~蒸留酒技術の 伝承と未来~  田崎 聡
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第二十三回 ~蒸留酒技術の 伝承と未来~  田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 昭和40年(1965年)には3,683名ほどの隆盛を誇っていた日本の杜氏も、令和4年(2022年)には422名と減少してしまったのは、日本酒の消費低迷や売上減少、コンピュータによるIT化による合理化、などが大きく影響しているのは、私が語るまでもないが、杜氏の後継者がいない危機的な状況なのも事実だ。

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第二十二回 ~会津杜氏 と その他の杜氏~  田崎 聡
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第二十二回 ~会津杜氏 と その他の杜氏~  田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 私が、ひと通り全国の杜氏を紹介してきた令和2年現在、少なからず杜氏が日本杜氏組合に加盟している残りの杜氏組合は、会津杜氏5名となっている。この日本杜氏組合からは、静岡県の志太杜氏組合が消滅したが、新たに福井県の大野酒造組合、北海道酒造杜氏組合などが独立加盟した。しかし現在、青森県杜氏組合、越前糠杜氏組合および大野酒造杜氏組合、丹後杜氏組合、山口杜氏組合、越智郡杜氏組合などは消滅あるいは非加盟となっており、いずれも減少傾向であることは間違いない。

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第二十一回 ~九州杜氏 ~ 田崎 聡
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第二十一回 ~九州杜氏 ~ 田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 九州杜氏は、福岡・佐賀・長崎三県に分布する清酒杜氏と鹿児島県の本格焼酎杜氏とに、大きく二つに分かれる。清酒杜氏の主要な杜氏集団は、1.久留米杜氏 2.三潴杜氏(城島杜氏) 3.柳川杜氏 4.瀬高杜氏 5.九州中央杜氏 6.筑豊杜氏の福岡県が7割を占め、8.肥前杜氏 9.唐津杜氏 10.鹿島杜氏の佐賀県、11.小おぢか値賀杜氏 12.生月杜氏 13.波佐見杜氏の長崎県がある。1965年には総杜氏数は257名にも及んだが、2009年には44名、令和2年には2名と減少したのが現状である。

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第二十回 ~四国の杜氏と その歴史 ~ 田崎 聡
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第二十回 ~四国の杜氏と その歴史 ~ 田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 讃岐には、ヤマトタケルの昔から、神櫛王という酒造りの技術に長けていた集団がいて、「酒部黒麿」という美味しい酒を醸し、病人を癒し長生きさせたという伝説が、琴南町の天川神社に残っている。古代から、酒どころとして知られている地だ。奈良や兵庫、とともに香川も「清酒発祥の地」としてふさわしい、という説がある。

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第十八回 ~広島杜氏と 出雲杜氏  ~ 田崎 聡
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第十八回 ~広島杜氏と 出雲杜氏 ~ 田崎 聡

粕取焼酎と近江商人

 広島県は、灘の兵庫県、伏見の京都府に次いで、全国三番目の生産量を誇る清酒県である。16世紀末、慶長4年(1599年)に、奈良興福寺の『多聞院日記』の中で“尾道酒” の名が記載されていて、この酒を毛利輝元が禁裏へ献上していることが、慶長5年(1600年)『御湯殿上日記』に記されている。広島の造り酒屋は、概ね江戸初期から元禄にかけて創業したと言われている。

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第十六回 ~但馬杜氏と 能登杜氏  ~ 田崎 聡
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第十六回 ~但馬杜氏と 能登杜氏 ~ 田崎 聡

 日本三大杜氏の、丹波杜氏、越後杜氏、南部杜氏に加えて知られているのが、但馬杜氏と能登杜氏で“日本四大杜氏” とも言われている。但馬杜氏は、丹波杜氏と同じ兵庫県にあり、美方郡香美町・新温泉町周辺は、古くから雪深く冬は農作業ができない地域として、出稼ぎして全国各地に酒造り出かけている。丹波杜氏が池田・伊丹・灘に出稼ぎ先を求めたのに対して、但馬杜氏は、大和・紀州などに働きに出ていたようである。

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第十四回 ~ 越後杜氏と江州店 (だな) ~ 田崎 聡
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第十四回 ~ 越後杜氏と江州店 (だな) ~ 田崎 聡

 南部杜氏に次ぐ日本三大杜氏の越後杜氏は、季節労働者として各地に出稼ぎに行った人がたくさんいた。厳しい幕府の農民に対する制約と統制、過重な年貢米の貢租、天候不順や洪水、浅間山噴火などによる度重なる飢饉や凶作などによる全壊的な被害、また、自給経済から商業市場経済へ移行する際の高利貸の侵入、などによって農民の階層分化が進み、小農層や隷属農民たちが離村・離農した者も多い。

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第十三回 ~南部杜氏と近江商人~ 田崎 聡
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第十三回 ~南部杜氏と近江商人~ 田崎 聡

 現在、日本三大杜氏の中でも最大の杜氏組織を持つのが、南部杜氏だ。しかし、昭和44年に403名の杜氏数を誇っていたが、2006年には287名となり、近年の減少率は顕著である。南部杜氏は、岩手県石鳥谷(いしどりや)町を中心に、紫波郡(しわぐん)紫波町、花巻市、北上市から杜氏を
多く輩出している。

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第十二回 ~全国の杜氏集団と今~ 田崎 聡
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第十二回 ~全国の杜氏集団と今~ 田崎 聡

 

 日本三大杜氏と言えば、南部杜氏、越後杜氏、丹波杜氏と言われており、かつては越後杜氏が最大の杜氏集団を築いていたが、現在は南部杜氏が最も多く、平成17年(2005年)には全国の杜氏数は897名、そのうち越後杜氏145名に対して、南部杜氏は284名、丹波杜氏は37名となっている。また、日本酒造杜氏組合連合会の統計によると、昭和50年(1975年)時点で全国の杜氏数は2,810名、越後杜氏は700名、南部杜氏405名、丹波杜氏は204名となっており、今では南部杜氏が越後杜氏の数を逆転する結果となっている。丹波杜氏の全盛1755年には、5,000名もいたというから、丹波杜氏数の減少ぶりは、著しいものがある。直近の令和2年(2020年)の全国の杜氏数は、全国で710名と昭和初期の7,000名から10分の1と大きく減少しており、将来的に杜氏の存在自体が危ぶまれている状況だ。

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第十一回 ~農民による杜氏集団~ 田崎 聡
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第十一回 ~農民による杜氏集団~ 田崎 聡

 

  日本酒の量産化を可能にした伊丹鴻池の山中新六は、その酒造技術を『童蒙酒造記』(1687年頃)の中に記している。しかし、もともとは奈良の興福寺の醸造技術書が、摂津に持ち込まれ、その中に量産化の技術が載っていたとされている。粕取焼酎のルーツでもある「柱焼酎」のことが『童蒙酒造記』の記述にあることは前述したが、室町時代の農具の発達、牛馬の農民所得の普及、肥培技術による地力の強化、水稲品種の改良や雑穀、灌漑技術の進歩などの農業の生産性向上の進歩が時代背景としてあったと考えれば、日本酒の酒粕を蒸留し、農民がその粕取焼酎の下粕を肥料にしていたとしても、想像に難しくない。

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第十回 ~下り酒と杜氏~ 田崎 聡
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第十回 ~下り酒と杜氏~ 田崎 聡

 摂津の伊丹では、17世紀はじめから酒を江戸へ出荷し、鴻池新右衛門が清酒の江戸送りをはじめたのは慶長4年(1599年)と伝えられている。江戸時代最高の酒造り技術書といわれる『童蒙酒造記』(1687年頃)は、鴻池流の技術を中心に「寒造り」という低温発酵を薦めている。その中の「伊丹流」では、上槽前に焼酎を醪の一割くらい加え、酒の日持ちをよくするという、「柱焼酎」すなわち粕取焼酎を使用したことが書かれている。この時に、刀傷の薬として各藩に「柱焼酎」としての粕取焼酎が注目され広まった。その「柱焼酎」は、現在の「本醸造」のはしりである。この「寒造り」を酒造りの基本とした技術が広まり、農閑期の寒い時期に、丹波の農民が灘など大量の酒造りが可能な地区に移り、酒造りに腕を磨いた。これが丹波杜氏の始まりとされている。

この頃から、上方から江戸へ運ばれ消費された酒のことを「下り酒」と言い、伊丹や灘、山城、河内、播磨、丹波などで造られた酒が運ばれた。また、伊勢、尾張、三河、美濃で造られた酒を「中国もの」と言った。下り酒は、17世紀後半は「菱垣廻船」、酒樽専門の「樽廻船」は明治の中期まで海上輸送された。下り酒は、造り酒屋>江戸酒問屋>酒仲買人>小売酒屋>消費者という流通で送られ、江戸の下り酒問屋のある新川、茅場町、呉服町などで仕切られた。この時に活躍したのは、近江商人であることは、間違いない。

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