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【講演録】「“東京五輪”と“日本書紀”」(久野 潤)

■後鳥羽上皇「承久の変」の意図と

 「正道」を『日本書紀』に求められたこと

 日本の2000年以上の歴史を見ると100年に一回くらい疫病が流行っていて、先人たちは今のような科学的な知見がなくても、一致団結して乗り切ってきたわけです。

 今日から5日間、「承久の変と令和」という連載を『夕刊フジ』に連載させていただいております。今年はちょうど承久の変(承久の乱)が起きて800年の節目の年です。承久の変は後鳥羽上皇、この方は18歳で譲位されて23年間ずっと院政を敷かれていたのですが、土御門天皇、順徳天皇と譲位して仲恭(ちゅうきょう)天皇のときに変が起きました。何で後鳥羽上皇が兵を挙げたのかというと、そのとき鎌倉幕府が政治的な混乱の極みにありました。来年の大河ドラマの主人公である北条義時という方がおられますが、第二代の鎌倉幕府の執権になります。もともと北条家は源氏将軍家の補佐役でした。そこに政所の別当を兼務することで強大な権力を手に入れることになりました。

 天皇からみれば天皇によって任命される将軍の補佐役つまり家来の家来に過ぎない、そんな北条家が皇室をも危うくさせるような状況でした。それは正道から外れるということで後鳥羽上皇はあえて挙兵をした。初代将軍の源頼朝も不審な死を遂げましたが、二代将軍の源頼家などは将軍にふさわしくないということでお寺に閉じ込められたり、三代将軍の実朝も北条家が直接暗殺したわけではないけれども、いろいろ吹き込まれた一族の若者(頼家の子公暁)に鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいました。

 将軍家や皇室をないがしろにするあり方はおかしいということであえて挙兵をした、それを今の教科書では承久の「乱」として後鳥羽上皇が引き起こした、つまり本来なら北条氏の主君の主君にあたる後鳥羽上皇が家来の家来に過ぎない北条家に対して反乱を起こしたという書き方になっています。しかも、天皇であられた方が隠岐に流されたという日本の歴史上の一大事態です。これはあまりにもおかしいと思い、『夕刊フジ』に書かせていただきました。

 明治時代になって、かつて後鳥羽上皇の離宮があった近くに水無瀬神宮を建てて隠岐から御霊にお戻りいただいたという経緯があります。明治維新の際に「王政復古」と言われたのも、武家政権でないがしろにされてきたこうした歴史を総括するという意味もあったということです。

「奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞを 人に知らせむ 」という後鳥羽上皇の御製(和歌)があります。奥山の枝などがたくさん茂る中でも、ほんとうの山頂に至る道はこちらだということを知らせるように、政治が混乱している世の中であっても正道はこちらだということを日本の人々、その時代の人だけでなく後世も含めた世の中に知らせるのだ、という強い意志の読み取れる歌であります。

「道」というのを、後鳥羽上皇もそうですし、他の例えば後醍醐天皇とかそういう方々が「道」を何を根拠に、参考にしてお求めになったのか、というと大元の元が『日本書紀』に描かれた国のかたち、日本精神、皇位継承でした。今、女性宮家、女系天皇でもいいのではないか、という学者もいる中で、なぜ「男系継承でないと皇室が途絶えてしまうのだ」と言われているかというと大元は『日本書紀』です。戦後の学者は、『日本書紀』に出てくる初代天皇以降しばらくの天皇は実在したかどうか分からない、と言ったりしますが、確固たる史料のうえでどう判断できるかという議論は差し控えるとして、その代々の天皇がどうやって皇位継承されたかが『日本書紀』に全部書かれています。一つの例外もなく男系継承です。様々なお話がある中で、エッセンスをどう読むかが大事なのですが、戦後は「あり得ないようなことを書いているから『日本書紀』はすべて嘘っぱちの物語だ」というような決めつけ方をされてきたのが歴史教育や戦後全体の風潮だったりしたわけです。

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