小島正憲のアジア論考
老人よ、「認知症」と闘うな
小島正憲((株)小島衣料オーナー)
30年前、近藤誠医師による『患者よ、がんと闘うな』という衝撃的な本が発刊された。近藤医師のこの主張には、いまだに賛否両論が多く、決着がついていないようだ。だが私は、近藤理論は、「がんという病気に、“闘わないという選択肢”があることを世に知らしめた」という点で、おおきな意味があったと思う。
あれから30年、超高齢社会の到来とともに、今、巷では「認知症」の話題が持ちきりとなり、多くの老人やその家族を、正体不明の不安の中に追い込んでいる。最近、私の親族たちにもその傾向が表れてきており、私も「認知症」の実態を深く観察する機会に恵まれ? ている。また同時に「認知症」に関する本も数多く出版されるようになってきているので、それを読み漁り、私の見ている実態と照らし合わせたりしている。
その結果、私は、現状の「認知症」の一般認識も、かつての「がん」と似たようなところがあるのではないかと思うようになった。だから今、多くの老人に、「老人よ、“認知症”と闘うな」と問いかけ、新たな選択肢を彼らに知らしめたいと思うに至った。
私は、医者ではない。一介の世捨て人である。しかし、認知症予備軍として、発言権はある。
1か月ほど前、『父と僕の終わらない歌』という映画を観に行ってきた。この映画は、若きころミュージシャンとしてならし、レコードを出すという見果てぬ夢を持っていた父が認知症となり、それを知った息子がレコーディングを実現させようとするドタバタ喜劇であった。つまり、認知症になった父親とその介護に奮闘する息子の美談であった。
だが、私の心には、この映画を観終わっても、なにか釈然としない気持ちが残った。家に帰ってから、今まで観てきた認知症関連映画を思い出しながら、それらの映画の共通点に思いを巡らせてみた。そして二つのことに気が付いた。
ほとんどの認知症関連映画は、まず、ハッピーエンドで終わるように作製されているが、認知症は、今のところ、完治する病ではなく、悪化の方向に進行していく病である。だから、映画の最終時点ではハッピーではあっても、あくまでもそれは、中間地点であり、その後に、さらに難しく悪い事態が続行する。だから、ハッピーエンドでは終われないはずである。
さらに、映画では、認知症の老人にその兆候が表れてから、深刻な事態に陥るまでが1時間足らずで描かれている。だが、実際には10年ほどの余裕がある。つまり、この10年間という長い期間に、当時者である老人やその家族が、どのような認知症対策を行い、決断をしたかということが大事なのであるが、映画ではそれが欠落してしまっている。
これらの映画は、結果として、老人やその家族たちの目を、認知症の本質から目をそらせる役目を果たしてしまうことになる。
伊古田俊夫氏は、『認知症とはどのような病気か』(講談社ブルーバックス 2025年5月20日刊)で、
「認知症は非常に難しい疾患であり、私たちはまだその全貌のごく一部を知っているに過ぎないように思われる」
「認知症の原因となる病気には、最も有名なアルツハイマー型認知症をはじめとして、主なものだけでも、前頭側頭葉変性症・レピー小体型認知症・血管性認知症・特発性正常圧水頭症・ないか疾患に伴う認知症・アルコール性認知症などがあり、65歳未満で発症した認知症を『若年性認知症』とよびます」
「一般に、認知症と診断されると徐々に症状が悪化し、数年から10年ほどの期間で中等度から高度の認知症へ進行していきます」
と書いている。つまり、現時点では、認知症は完治しない未解明の病気であり、数年から10年ほどの期間で進行する病気だということである。
この認知症に対する認識は、30年ほど前のがんに対する認識と似ている。また伊古田氏は同書で、「認知症とがんの予防法は、ほぼ一致している」と書いているが、私は、決定的に違う点があると思う。
長谷川嘉哉氏は、『認知症は決断が10割』(かんき出版 2025年3月17日刊)で、
「認知症、認知症介護は、“決断”次第で天国にも地獄にもなるのです」
「認知症は、家族に“決断”を強いる病気です。なぜなら、認知症とは、患者さん本人が“決断”できなくなっていく病気だから」
と書いている。
つまり、がんは本人の意思が最期まで鮮明であるが、認知症は、一定の時点を過ぎると患者本人の意思表明ができなくなる病気だということである。
だが、ありがたいことに、それまでには、約10年の余裕期間がある。だから、その余裕期間のうちに、患者本人は、認知症と闘うことを諦め、死に臨む決断をすべきだし、家族は心を鬼にして、患者本人に最期のときの決断を迫るべきなのである。
しかしながら、残念なことに、認知症の場合、どの時点で、決断をすべきなのかの医学的見解が確立していない。がんならば、今では、「70歳以降のステージⅣならば、がんと闘わず、放置して死を待つ」というのが、一般認識になりつつある。認知症に対しても、医学が、「認知症の患者の死の決断時期」を、できるだけ早く科学的に解明し、「老人よ、“認知症”と闘うな」と提言してくれることを望む。
さらに、長谷川氏は、上掲著で、「患者さんの銀行関係は家族が管理する」「患者さんの定期預金を解約して、普通預金にしておく」などなど、金銭面でのトラブルに備えて、いろいろな提案をしている。
また、「患者さんにこの症状が出たら、介護施設への入所を考える」として、「①患者さんに夜間の徘徊が出てきたとき、②患者さんが火を使うのをやめてくれないとき、③患者さんが長時間の入浴をやめてくれないとき」などと書いている。
ところが、日本には認知症患者専用のホスピスは少なく、ましてや認知症がん患者さんのホスピスでのケアは困難を極め、多くは入所を断られるという。
甚野博則氏は、日本の介護業界の現状を憂い、『介護大崩壊』(宝島新書 2025年5月9日刊)で、
「介護人材の不足は現場の崩壊を加速させている。厚労省の推計によると、2026年度には240万人の介護職員が必要とされるが、2022年度時点での職員数は215万人しかおらず、25万人が不足している。2040年度にはさらに57万人が不足すると予測されており、この人材不足をどう補うかが今後の大きな課題となっている」
「60歳以上のケアマネは30.5%(2022年度のデータ)を占めており、今後の定年退職によりさらなる人材不足が懸念される」
「高齢者への虐待が頻発している」
と書いている。
今でも、このような状況だから、将来、認知症患者の行く先は、どこにもないことになる。
私は、10年ほど前から、「海外老人ホームへの高齢者の転出」を提言している。開発途上国ならば、若くて安価な介護人材が豊富であり、豪勢な住居を望まない限り、入居費も安価である。食費もかなり安く済む。なにしろ病気になっても医療を行わず、静かに死を待つだけだから、医療費は格安。もちろん、金銭に余裕のある人には、すでに超高級老人ホームもある(既報:「バングラデシュの日本式高級老人ホーム」参照)。
海外だから言葉の問題があり、老人には酷なのではという声も聞くが、すでに日本語もおぼつかなくなっている認知症患者には、言語の問題などは、患者本人以外の取り越し苦労だと思う。とにかく、「やさしく介護してもらう」ことができることが、認知症患者にとって最も望ましいことなのである。日本の介護施設で、虐待されているよりも、はるかに良いと言える。
「老人は認知症と闘わず、海外老人ホームでバラ色の最期のひとときを過ごす」という決断が、老人には必要である。たしかに、海外生活経験が少ない人には、酷だと思われるかもしれないが、ここに「決断」が必要なのである。私は、その意志を固め、最期の場所を、「海外老人ホーム」に決めている。
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小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。