ドンドンドンドンドン、ドンドンドンドンドン……雪音(ゆきおと)という山より吹きおろす風が木々を激しく揺する音で幕が開く。雪の降る場面を心象的に形容する大太鼓による囃子は、深々と淋しく表現されている。
「お七」彼女は江戸きっての狂気の持ち主。美しくも儚き短い一生である。第十五回尚雄里と日本舞踊は、冬をテーマに~お七と浮世絵~を記します。
伝統を伝え、育て、革新する伝・Tokyo 若柳 尚雄里 [ 特集カテゴリー ] 伝統を伝え、育て、革新する伝・Tokyo
ドンドンドンドンドン、ドンドンドンドンドン……雪音(ゆきおと)という山より吹きおろす風が木々を激しく揺する音で幕が開く。雪の降る場面を心象的に形容する大太鼓による囃子は、深々と淋しく表現されている。
「お七」彼女は江戸きっての狂気の持ち主。美しくも儚き短い一生である。第十五回尚雄里と日本舞踊は、冬をテーマに~お七と浮世絵~を記します。
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毎時正時に鐘が鳴り、中央の駅より拡がる五本の水路、そこを優雅に行き来する船、対岸には100年から200年以上前に建てられたレンガ創りの建物。全て石畳を敷かれた歩道を歩きながら、日本との400年にも渡る国交はどの様なものだったのだろうと想像していました。この度は、オランダ・アムステルダムより、「尚雄里と日本舞踊」~オランダ国交と浮世絵~をテーマに記しております。
10月2日より7日迄のアムステルダム滞在は、ある国際会議でのパフォーマンスと、オランダの方へ向けた日本舞踊のワークショップの為、訪蘭しました。オランダは日本との国交は古く、1598年6月の午後、アムステルダムより60キロ南下したロッテルダムの港に、5隻の船が長きに渡る航海の途に就こうとしていました。目的地はモルッカ諸島(別名・スパイスアイランド)で、そこで胡椒などの様々なスパイスを調達し、更にその先の銀の王国日本を目指すものでした。
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「松嶋屋!」歌舞伎座の三階席の最後方より大向うが飛ぶ。九月の秀山祭の夜の部は歌舞伎十八番の内『勧進帳』が上演され、武蔵坊弁慶のお役を奇数日は松本幸四郎丈、偶数日はなんと今年75歳になられた片岡仁左衛門丈が勤められました。
「丈」とお名前の最後に付けるのは、昔から歌舞伎役者に限ってはいないそうなのですが、役者の場合、立役と女形、年齢も様々である事から「さん」や「様」ではなく、「丈」をつけるのが習わしとなっております。
そして毎年恒例の歌舞伎座九月の「秀山祭」とは、初代中村吉右衛門丈の顕彰し、その巧みなる芸を継承する事を目的とした興行で、吉右衛門丈は巧みな台詞回しや、役に対する深い解釈により、現在の歌舞伎に大きな影響をもたらした役者です。そしてこの度は、もしかしたらこれで最後かもしれない仁左衛門丈の弁慶を、お勉強しに歌舞伎座へ。決して楽ではない役に、私は勝手に楽しみやら心配やらで、登場を心待ちにしておりましたが、静寂の中にも機敏なる荒事での舞も、台詞回しも全てに於いて、あの様にどこかお品のある弁慶を拝見させて戴いたのは初めてでした。江戸歌舞伎を中心にさせて戴いている我々には、到底真似の出来ぬ上方の芸。当代きっての二枚目役者は健在で御座いました。
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~行水の おせんえがいた紅筆を 水に落とした夕間暮れ 廻りどうろがくるりと廻る
江戸の昔を今の世の 夢の雪岱(せったい)あで姿 おびは空解け柳ごし
咲いた桔梗のひと片が 仇に散ったか蚊帳のかげ
こうもり来い あんどの光をちょいと見てこい
道行のおせんかくした青すだれ 萩に流れる蚊やりをよそに 廻りどうろが くるりと廻る~
第十一回 尚雄里と日本舞踊は、テーマを浮世絵に変えて記させて戴きます。
冒頭の夏の風情を唄っている文句は、日本舞踊ではポピュラーなジャンルの大和楽の曲で、演目『おせん』の全文です。日本舞踊の古典では新しく、昭和二十年に邦枝完二作詞、宮川寿郎作曲により発表されました。また、文句にもある「雪岱」とは明治生まれの画家で小村雪岱といい、昭和八年に新聞小説で、おせんの挿絵を描いていたのがきっかけで、当時はおせんといえば雪岱さんとのイメージが強く、作詞の際に盛り込まれた様です。
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「恋も誠も世の在る時 人の心は飛鳥川 変はるは勤めのならいぢゃもの 逢はずといっそ去んで呉れう イヤイヤイヤ 逢はずに去んでは此胸が 済まぬ心の中にも暫し 澄むはゆかりの月の影」
元は近松門左衛門の人形浄瑠璃『夕霧阿波鳴門(ゆうぎりあわのなると)』という作品から、文化五年(一八〇八年)に歌舞伎にて書き替えられ、『廓文章』(通称・吉田屋)が初演され、冒頭の歌詞は、日本舞踊での舞台の際の『清元 夕霧』の文句です。
先月号にて大阪新町の廓の成り立ちを少しご紹介しましたが、この舞台は正に大阪新町の吉田屋の格子先へ、年の瀬につい先頃まで、毎夜の様に豪遊していた藤屋伊左衛門が紙衣を着、変わり果てた姿で訪ねて来る場面から始まります。伊左衛門は新町きっての太夫夕霧と恋仲で、放蕩が過ぎ、家から勘当されこの有様。数日振りに夕霧に会ってもすねて見せ、夕霧は思い病にでもなったかと心配していたと話します。そこへ大店(おおだな)の藤屋より勘当が許され、夕霧を身請けする許しの知らせが有り、それと共に千両箱が運び込まれるというファンタジックで、バブリーなあらすじの上方の代表的な作品です。
第一〇回 尚雄里と日本舞踊~全国の遊郭と遊女の祖先~をテーマにご案内致します。
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「秋の夜長に牡丹花の燈籠踊に 一節に残る暑さを凌がんと 大門口の黄昏や いざ鈴虫を思ひ出す つらい勤めのその中に 可愛男を待ち兼ねて 暮松虫を思ひ出す」
これは、日本舞踊の古典演目の一つ、長唄【高尾さんげ】の一節で、
「秋の夜に燈籠に彩られた吉原で、牡丹の花の燈籠踊の一節にあれはどんな唄だったと思い返す。残暑に追われ、日暮れ時に大門口まで涼みに出て、自分の事を鈴虫に例える。つらい勤めをしながら、逢いたい人を待ち兼ねて日暮れを待つ私は、まるで松虫だと思う」
高尾太夫は、江戸吉原を代表する名妓であり、吉原京町三浦屋抱えの太夫で、万治(一六五八年~六〇年)から寛保(一七四一年~四三年)頃まで約八十五年もの間、七代に渡り名前が引き継がれておりました。
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【鐘は上野か浅草か その約束を待つ宵の 風も浮気な仲の町 過ごして植ゑし初桜 つい移り気な色も香も 留めて素足の八文字】
これは長唄【傾城】の初頭の文句です。桜も終わり、新緑に移り変わろうとしております。江戸の旦那衆は、季節が変わる毎につい移り気に、新しくフレッシュな太夫や新造に目移りされていたのでしょうか……。
この度も、尚雄里の日本舞踊は、まだまだ奥の深い吉原仲之町と、また全国にあった吉原についてご紹介したいと思います。
先号は花魁のファッションについてでしたが、花魁の支度でホテルニューオータニ日本庭園にて久しぶりに出演したイベントでは、約30キロに及ぶ支度で御座いました。江戸時代の吉原での花魁は同じ重さか、または更に重量のあるものだと憶測されます。この度も若衆の肩を借り、高さが五寸から六寸(15センチから18センチ)の三枚歯で、黒塗りの畳付きという高下駄を履き、道中をさせて戴きましたが、これは寛政期(1789年~1801年頃)の江戸後期に完成されたもので、現在受け継がれている花魁道中の形は江戸後期のものというのが解り、この最終的に残ったものが一番華やかで豪華であり、人目を惹くものだと言えるでしょう。
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春爛漫の今日この頃、日々美しい桜を眺め、心華やかにお過ごしの事と存じます。
第七回尚雄里と日本舞踊~其の六~は、前回よりの江戸幕府と共に三百年余り続いた歴史を持つ江戸吉原の、太夫(遊女)の服装や化粧、髪型についてお話したいと思います。
そもそも長い年月を経た江戸吉原の遊女の衣裳は、時代による変化が大きいものでした。
元吉原から新吉原初期にかけての太夫は、最高位と言えども、現在の男帯程度の細帯を巻き、庶民と余り大差のない出で立ちでありました。その後元禄時代(一六八八年~一七〇四年)の頃になると、経済も成熟し遊女の帯も広くなり、享保(一七一六年~一七三六年)の頃より現在皆様のイメージされている、前で結ぶ前帯となりました。
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春告げ鳥のホウホケキョ。旧暦での弥生はすっかり春満開なはずですが、平成最期の春を待ちわび、桜も待ち遠しく存じます。
桜と言えば、日本舞踊では数多く有る大道具(舞台背景のセット)桜満開の江戸、【吉原仲之町】。緞帳が開いた時にこのセットが見えるとそれだけで季節は関係なく、心が弾み、その華やかさに魅了されます。更にそこへ太夫(傾城又は花魁)と呼ばれる女性が登場すれば、尚一層、一気に江戸へタイムスリップする事が叶います。
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皆様、寒中お見舞い申し上げます。
東京も今年は暖冬と申しましても、やっぱり冬らしい日が訪れ、年中行事も落ち着かれた頃でしょうか。
私は昨年の暮れより、年末年始のイベント出演にて、アメリカはサンフランシスコへ伺っておりました。
現場となりましたサンフランシスコでは有名な日本食レストラン【山昌】様にて大歓待を頂戴し、古典舞踊と現代音楽舞踊(We are the world等)をパフォーマンスさせて戴きました。
現地在住の日本人会の皆様と、アメリカ圏、中華圏、ヨーロッパ圏と、世界中からの皆様とカウントダウンが出来、新年を喜び合えた事は心温まる一生の思い出と成りました。山昌様はレストランとカラオケルームが沢山有り、お食事もとても美味しく、現地へお出掛けになられる事が御座いましたら是非お薦めです。
そんな幕明けをさせて戴きました伝・Tokyoの2019年は、有り難く、平素より増して舞台に勤しむ年になりそうです。
来る3月16日、国立大劇場にて伝・Tokyo所属の日本舞踊家・勝見智之が勝見流二代目家元継承披露【勝見會】が催されます。そちらで、同じく伝・Tokyo所属の日本舞踊家・若柳慶次郎と共に常磐津【将門】という演目にて出演しお勉強をさせて戴きます。
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「ほんにお前もどうか見たようだと思うたら、遠い国からこのお江戸へ?」「あいさ、たれしも(誰しも)かせぎはあいたがい」と、日本舞踊の演目の一つ、常磐津【角兵衛】での台詞。これは【鳥追い】(江戸に住む粋な女太夫)と、江戸の初春に越後より江戸へ芸を売りに、出稼ぎに来た角兵衛とのやり取り。文政十一年(1828年)より今日まで継がれてきた演目です。
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暖かな冬を迎え、師も走る季節と成りました。(師匠も私も年中猛ダッシュしておりますが・笑) 暦から遥か古より続く季節が移り変わる様子が解り、少し前は当たり前に皆さんご存知な事を、現在は教育機関でも余り取り上げないそうで、自身の主宰しております【正派若柳流 雄の会日本舞踊研究所】にて日々お稽古に励む子ども達は、その様な話を面白そうに聞き入っております。
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今年は台風や地震などショッキングなニュースが飛び交う中、秋はどんどん深まり、秋の夜長にも読んで戴けます様、第二回のこの度は、「尚雄里と日本舞踊~其の一~」という事で、私の短く始まったばかりの舞踊人生の中で、お勉強させて戴きました日本舞踊の歴史や種類、見方等のお話をさせて戴きます。
先ずはかぶき踊の誕生から紐解いて参りたいと思います。
慶長八年(一六〇三年)の春、此処は京都四条、祇園社まで続く広き河原。そこに出雲の阿国という一人の女性が登場し、脚光を浴びます。
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ある朝、早朝に起床し身支度を終え、色無地に一つ紋の着物に着替え劇場に向かう。神棚に御参りをし楽屋に入り、その日の舞台での安全と成功を祈念した儀式を行う。
これは舞台の四隅に塩を撒き、参拝し、お神酒を頂戴するお祓いである。
楽屋に戻り、羽二重をし、顔をする。(舞台化粧)衣裳を着け鬘を乗せる。そして拍子木(柝)が打たれ幕が開く。
2歳の時の記憶はありませんが、物心つく頃からは頻繁に訪れるローテーション。私は日本舞踊家の家に生まれました。家業を継ぐ強制は一度もされた事は無く、4歳からはバレエやダンス等を真剣に勉強して留学までしたいと思う迄の自由奔放さ。