小島正憲のアジア論考
消えた80歳の壁?
小島正憲((株)小島衣料オーナー)
1.社長再退任
私は、62歳のとき、すっぱり社長を辞めた。だが、2024年4月、やむを得ない事情により、小島衣料の社長に復帰した。15年間の空白を経て、77歳での現役復帰はたいへんだった。それでも、なんとか勤め上げ、本年4月、社長を卒業し、会長職に就くことになった。
この2年間、社長として行ったのは、主に撤退戦だった。私の得意分野であるとは言っても、利益を上げながらの撤退経営は楽ではなかった。攻める戦いは、自主性を鼓舞することつまり「やりたいことを自由にやらせる」ことに注力すれば良いので、そこに社長としての権力を行使する必要は少ない。だが撤退戦は、社員に負け戦を指令しなければならない。そこには夢がない。自主性の発揚などという文句はまったく通用しない。大事なことは、社長としての権力を行使して、社員の意志を押さえつけながら、最小限の損害でその戦線から引き揚げさせることである。
2年前、社長を引き受けるに当たり、私がもっとも自戒したのは「老害」だった。会社経営に余計な口出しをして、若手社員のやる気を失くさせてしまうことを恐れたからである。だから、1か月に1回の幹部会議以外には、出社するのを控えた。もちろん、幹部会議でもできるだけ発言を控えた。それでも、幹部との意見の相違は、しばしばあった。残念ながら、妥協点を見出せないときは、強権発動をしなければならなかった。そんなとき、私は、自らの決定が「老害ではないか」と恐れた。
ありがたいことに、この2年間で、運よく、戦線を縮小させることができた。諸般の事情を鑑みると、これはギリギリセーフのタイミングだった。「結果良ければすべて良し」、私は、自分自身にそう言い聞かせながら、社長の座を息子に移譲することにした。私が持っている小島衣料の株も、すべて息子に生前贈与することにした。これで、私の手から、権力はきれいさっぱり無くなる。
62歳で社長を辞めたときは、小島衣料の大半の株を私が持っていたので、勝手にオーナーと称していた。その15年間、会社経営も順調で、海外の会社から式典などへの招待も多く、結構、忙しかった。バングラのハルタル、ミャンマーのクーデターやコロナ騒動もあり、それなりに私の出番もあった。また、会社の経費で海外に出かけ、いろいろなことを見て、それらの真相を発信し続けることもできた。この期間、私は会社経営の最終責任者ではなかったので、気軽で本当に面白かった。
しかし、社長再任後は、その責任の重さから、夜、いつも取引先の倒産や資金不足、果ては猛獣や大蛇と格闘する夢を見て、奇声をあげることが多くなった。そのつど、妻に、「夢、夢だよ」と起こされたものである。
79歳で、権力の移譲を決断してから、もう大蛇と格闘する夢から解放されると思うと、身も心も軽くなった。しかし、今度は、なんとなく寂しい感情に襲われることになった。「小島衣料は大会社にはなれなかった。俺は、結局、経営者として成功することはできなかった。ただ単に、57年間、生き延びただけなのだ。それなりに、おもしろかったが、何も結果は残らなかった。中途半端な人生だった」という思いが、急に襲ってきた。寂しい。若きころ、「老害」について考えたとき、それは「あせり、あきらめ」などの心情の結果と考えた。この年になって、そこに「寂しさ」が加わるとは思ってもいなかった。
2.謝罪行脚
私は、その寂しさを吹き飛ばすために、何か行動しなければ思った。だが、すぐには自分を没入させるほどの対象がみつからなかった。そうこうしているうちに、高校時代の仲間の訃報が入った。彼には、いろいろなことで迷惑をかけた。だが、残念ながら、しっかりと謝らないうちに、彼は先に逝ってしまった。その夜、彼の顔を思い出しながら、「仕方がない。あの世で謝ろう」と自分に言い聞かせて眠ろうとした。しかし、頭の中には、80年間の人生の出来事や迷惑をかけた多くの友人たちの顔が次々に浮かんでは消えた。
そのとき、私の頭に、「謝罪行脚」という文字が浮かんだ。今までの人生に一区切りつけるための「謝罪行脚」。私は、これを目下の行動の最優先課題にしようと思った。早くしないと、謝罪相手がどんどん先に死んでいってしまうからである。
私の頭の中には、まず韓国の友人への謝罪が浮かんだ。40年ほど前、商売上で韓国の友人に大きな恥をかかせたことがある。私は、今まで、それを彼に謝らずに来てしまった。幸い、古い住所録の中から、彼の韓国の連絡先を見つけ出すことができた。韓国へのフライトを予約しようと思っていたとき、偶然にも、その韓国の友人から、わが社に突然の連絡が入った。「岐阜に行くので会いたい」というのである。私は、飛び上がって喜んだ。
2週間後、私は彼と再会できた。彼は昔とほとんど変わらず、日本語も流暢だった。私はあいさつもそこそこに、過去の行為について謝り、深々と頭を下げた。すると彼は、怪訝な顔をして、「まったく覚えていません。何のことでしょうか」と言ってきた。そして、「私こそ、小島さんに謝りたい。中国でビジネスをいっしょにやったとき、うまく応援できなかった。申し訳なかった。今回、岐阜に来たのは、そのことを謝りたかったからです」と言った。私は、そのことを全く覚えていなかった。そして私とその友人は、顔を見合わせながら、大笑いした。
私の初恋は高校時代だった。幸いなことに、私が大学に入り、岐阜を離れることになったとき、彼女から「お別れの手紙」が届き、1年間ほどの付き合いは大きな問題ともならず終わった。しかし、今から思えば、私の行動は、まだ幼い感じを残す彼女には、迷惑なことが多かった。私は、死ぬ前に、それらを彼女に謝っておきたかった。彼女の嫁ぎ先の住所や電話番号は分かっているので、連絡することは可能だった。そんなとき、私は、たまたま、内館牧子の「迷惑な終活」を読んだ。そこには、老人が初恋の人を訪ね、やっかいなことに巻き込まれていく姿が、面白おかしく書かれていた。私は、そこで踏みとどまった。つまり、迷惑の上塗りをしないで済んだのである。
結局、私は、謝罪行脚をあきらめた。
3.自民党の圧勝
年初の衆議院選挙で、自民党が圧勝した。この現象に対する評論家たちの見解は、「若い人たちが高市氏の対中姿勢を支持した結果である」とのこと。私はこの結果にがっかりした。高市氏の政治信条を見れば、戦争放棄を掲げた憲法が改悪され、今後の日本が戦争に巻き込まれ、若い人自らが戦場に駆り出されることは必定である。「若い人たちは、何を考えているのだろうか。馬鹿につける薬はない」と、憤慨した。
その後数日間、私は政治関連のすべての情報を遮断した。そして学生時代の負け戦の時に、いつも聞いていた「スラブ行進曲」を大音量で流し、心を鼓舞しようとした。だが、百回以上聞いてきたその曲が、この時は、妙に物悲しく聞こえた。そのうち、「私が戦場に出向くわけではない。日本が戦争に巻き込まれる頃には、私はこの世にはいない。若い人たちが戦死するのは、今回、高市氏を選んだからであり、それは自業自得というものである」という文句が頭の中を通り過ぎて行った。そしてなぜか肩から力がすっと抜け、身が軽くなった。
私は、高校生時代に共産主義の洗礼を受け、爾来、労働者階級の前衛たることを目指してがんばってきた。行きがかり上、労働者の敵対階級に身を置くことになってしまったが、それでも、常に、労働者の味方になろうと努めてきた。私は、労働者や他国の人民を搾取・収奪してきた。常に、この後ろめたさが私の心を暗いものにしていた。しかし、今回、社長再退任、全株移譲ということになり、資本家階級から、きれいさっぱりと足を洗うことができた。
同時に、今回の衆議院選挙の結果は、私の政治への未練を断ち切った。私は、労働者階級の前衛をあきらめた。衆愚のリーダーはあきらめた。
これで私は、はからずも、運よく、政治と経済両面で、同時に、新生可能な身になった。
4.体力維持
正月中、少し油断して、散歩をさぼり、お餅をたくさん食べた。そのせいだと思うが、糖尿病の数値=HbA1cが跳ね上がり、担当医から、「これ以上になると、注射になりますよ」と脅かされた。次の日から、私は一念発起して、毎日1万5千歩と朝の健康体操(20分)を徹底するようにした。1か月後、勇んで病院へ行き、血液検査に臨んだ。担当医は、データを見ながら、「見事に下がりましたね。何をやりましたか」と聞いてきた。私は得意げに、毎日1万5千歩、歩き続けたことを話した。
この散歩には副産物があった。歩き始めて数日間は億劫だったし、ふくらはぎや腿が痛かった。だが、10日間ほど経つと、それがなくなった。また20日間ほど経つと、意外なことに、歩くことが楽になってきて、2万歩を超えてもすたすた歩けるようになった。試みに、2年ほど前まで、フーフー言って登っていたゆる山に挑戦してみたところ、これまた、意外に、抵抗なく登ることができた。たしかに、高齢者本には、「筋肉は何歳になっても鍛えられる」と書いてある。今回は、それをわが身で体験したということである。運動嫌いの私には、これは新鮮な驚きだった。
私は、それ以来、毎日1万5千歩を3時間ほどかけて歩き続けている。だが、そのうちに、この3時間が、私の残り少ない人生を無駄使いしているのではないかと思うようになった。そこで散歩しながら、イヤホンをつけて、現代短編小説を聞くようにした。これが意外に面白く、疲れも時間も忘れ、散歩できるようになった。それどころか、続きを聞きたいために、散歩の時間が待ち遠しくなったほどである。いつも新進作家たちのストーリー展開に魅せられ、登場人物の想定外の人生展開に驚かされ、学ばされた。
5.私の5か年計画
櫻井秀勲氏は、近著「“これからの5年”をどう生きるか」(きずな出版)で、「 “これからの5年”。この距離感が、人をもっとも現実的に動かします」と書いている。私はこれまでの人生を「十年一節」で生きてきた。これからの人生は櫻井氏の言に学んで「五年一節」で生きることとする。また櫻井氏は、「(夢が)曇りを生む最大の原因は、欲張りです。あれも捨てたくない。これも残したい。失敗もしたくない。そうやって残したものが、夢全体をぼやかしていく。夢とは、選んだものの集合ではありません。捨てたものの跡に残る形です」と書いている。この櫻井氏の指摘から、私は、若きころの「青雲の志」を揚棄することが、「これからの5年」の核心だと悟った。
若きころ先輩から、「若い時は、体力はあるが、金がないし、時間がない。老人になると、金はそこそこあり、時間はたっぷりあるが、体力がない。人生はうまく行かないものだ」という話を聞いたことがある。ありがたいことに、私は今、「資金面で老後生活に困ることはない。時間はたっぷりある。しかも体力は維持できている」という状況である。しかも、経営者としてのしがらみ、政治への思い、若きころ悩まされた性欲の悩みなどからも、完全に解放された。
今なら、好きなことができる。自らの強みを活かして、好きなことをやればよい。しからば、私の強みはなにか?
私は若いころから、「書くこと」が好きだった。30代で新聞に60回の戦国古戦場の連載を行い、40代でサピオの懸賞論文で大賞を取った。さらに50~70代では、ネットで配信を続けた。ありがたいことに、その私の駄文が転載され、多くの方々の目に触れていたようである。和田秀樹氏は、近著「老人は“キれる”くらいでちょうどいい」(集英社インターナショナル)で、
「意欲だけではなく、文書を書くには論理的な思考力や、構成を整理する計画性も求められます。自分の感情と向き合いながら書けば、自然と情動のコントロールを行うことにもつながります。さまざまな角度から前頭葉に刺激を与えてくれるのです」、「書くことで自己認識力が高まるだけでなく、“書く”ことを前提に日々を過ごせば、思考や感情の在り方が変わり、人生は多角的で豊かなものになるのです」、「文章は人に読ませるために書く方が真剣になれますし、アウトプットの質も高まる(したがって前頭葉がより鍛えられる)ものです」
と書いている。私は、和田氏のこの提言に学び、これからの5年間で、下記のことを行うつもりである。
私は、20数年前から、ネットで、「東南・南西アジア短信」・「読後雑感」・「エッセイ」・「小論文」などを発信し続けてきた。ありがたいことに、これらには固定読者ができている。それぞれ私からの通信を心待ちにしておられるので、今後も続けたい。
30代に新聞連載した「戦国古戦場の探索」を完成したい。1か月に1古戦場のペースで踏破できればと考えている。幸い、歴史が好きな孫娘がいるので、歴女に育てようと企んでいる。先日も、いっしょに敦賀へ行き、「織田信長の金ヶ崎の退き口」を踏破してきた。
私は、名古屋大学文学部哲学科に進みたかった。高校2年の時に、先輩から勧められた「ものの見方考え方」(三浦つとむ著)を読み、その面白さにとりつかれた。それが私を哲学への道を歩ませようとしたのである。だが、試験に、見事に落ちた。仕方なく、私は同志社大学経済学部に進んだ。経済学部には進んだが、哲学への興味は捨てがたく、マルクスやレーニン、毛沢東の著作を読み、学生運動の現場で実践した。ことに、弁証法的唯物論が面白かった。
今、私は、名古屋の文化センターで、哲学を学んでいる。この3年間で、ソクラテスから始まりデューイまで、数十人の哲学者について詳しく教えてもらった。だが、はっきり理解できたのは、マルクスだけだった。それでも、面白かった。4月からの新哲学講座にも通う予定で、費用は支払い済み。次回からは、一講座ごとに、しっかりまとめ、それを発信していく予定である。そうすれば、5年後には、私の哲学論が完成できるかもしれない。
若きころ、私は、学生運動に全身全霊を打ち込んだ。高校時代には岐阜県下の高校生連合を結成し、その代表者となり、数十名の高校生を率い、政治活動や大衆運動に参加した。大学時代には同志社の民青の責任者となり、数百名の同志と共に、その先頭に立ち、学園闘争や政治運動を行った。私は、そこで、「組織力」を学んだ。もちろん「民主集中制」のマイナス面も体験した。そこで学んだ「組織力」が、その後の会社経営に、大きな効力を発揮したことは言うまでもない。
この「組織力」を、実践組織を通じて、誰かに教えておきたい。残念ながら、今では、「組織力」が学べるチャンスや組織は、この社会には少ない。だから、せめて、実践の中で鍛え上げた「組織論」や「弁証法の面白さ」を書き残しておきたいと思っている。もちろん、それを実践する機会(老人決死隊の出番など)が到来すれば、いち早く、そこに身を投じる決意である。
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小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。