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【講演録】「〝渋沢栄一〞と〝久坂玄瑞〞」(坂市太郎)
一坂太郎氏
萩博物館特別学芸員
1966年兵庫県芦屋市出身。大正大学文学部史学科卒業。現在、萩博物館特別学芸員、防府天満宮歴史館顧問を兼任。日本文芸家協会員。幕末維新史を中心に研究・執筆。最近の著書に、『暗殺の幕末維新史』(中公新書)『坂本龍馬と高杉晋作』(朝日新書)『久坂玄瑞』(ミネルヴァ書房)など多数。
◼️盛り上がらなかった〝明治150年〟
明治は決して遠い昔ではない
渋沢栄一と久坂玄瑞は天保11年(1840)、同じ年に生まれています。久坂玄瑞は禁門の変で元治元年(1864)に数え歳25で京都で亡くなり、渋沢栄一は昭和6年(1931)、92歳まで生きしました。
渋沢栄一に会ったという人に私は会ったことがあります。作家の南條範夫さんという方。明治41年(1908)生まれで、NHKの大河ドラマで『元禄太平記』という作品の原作を書いた方です。
東大の学生だった頃、学生新聞の編集をやっており、渋沢栄一に取材に行ったそうです。渋沢栄一が慶応3年に徳川慶喜の弟、昭武の随行としてパリ万国博覧会に行った、その間に幕府が倒れ、帰ってきたら幕府がなくなって、新しい政府になっていたということについて聞いたとの話を後になって知りました。
平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から150年で、国を挙げてのイベントがありましたが、全く盛り上がりませんでした。明治100年のときは昭和43年(1968)でしたが、まだ明治生まれの人たちがたくさん生きていました。1968年の長者番付1位は松下幸之助さんで、明治生まれです。
その当時から20年ほど前、日本は戦争で負け、ひどい目に遭った。こんなことになったのはなぜか。明治維新からの何かボタンの掛け違いがあったのではないかということで、特に歴史学会は明治100年を祝うべきではないと徹底して抵抗しました。政府が歴史を書き換えようとしている、という運動も起こりました。各家庭にも戦争の傷跡が普通に残っていたでしょうから、明治維新はよかったのか悪かったのか、お茶の間の話題でできたのでしょうが、150年になってみるともうそれは分からない。
政府が出したものを見ると、明治150年のとき、明治は素晴らしい時代だった、という論調が、明治100年のときとあまり変わらないのです。明治維新で産業や経済が発展した、それは事実でしょう。民主主義の芽生えみたいなものもありましたが、結局は国家主義へと進みます。
ただ私が思うに、当時の日本は外国に戦争をすることが一番の目的で、だから産業が発達し色々な科学技術が導入された。それは国民の生活を豊かにしようとしてやったというより、富国強兵を目指していこうということです。
その中心に天皇制があった。天皇を日本の中心に持ってきて富国強兵を実現、対外戦争を繰り返し、とうとう昭和20年に敗戦を迎え、それから民主主義が出てくるという歴史だったはずが、随分イメージが違うという妙な違和感を覚えました。
対外戦争や天皇制の歴史だった、それがいいか悪いか、賛成するか反対するかは別としても、そうであることは史実です。そこに全く目を向けない明治維新像を広めようとしたから、何となくそっぽを向かれて盛り上がらなかったのかなと思っています。

~日本の伝統文化存続のために [ 特集カテゴリー ] 【 清話会講演録 】, ◆先見経済◆
【講演録】「西洋人初の芸者、新たな挑戦」(紗幸)
紗 幸(さゆき:フィオナ・グラハム)
(芸者、早稲田大学講師)
オーストラリア出身。交換留学生として日本の高校を卒業。慶應義塾大学で学位取得後、オックスフォード大学でMBA取得。世界数ヶ所の大学で講義をし、ドキュメンタリー制作の監督も務める。2007年12月浅草で正式に芸者としてお披露目を行い、花柳界400年の歴史上初の西洋人芸者としてデビュー。
■芸者に扮してテレビ番組をつくる中で
本当の芸者になる運命に
私が日本に最初に来たのは交換留学生としてでした。15歳のとき1年間、日本の高校に入って、日本の家庭にお世話になりました。直接の交換でしたので、私のオーストラリアの実家には19歳の真面目な女の子が来ました。その後一回、帰国して、16歳でまた日本に来て高校に入り直して、高校を終えました。そのとき1年間、休学をして日本の四季を味わえるところでアルバイトをしました。夏は東京の離島、冬はスキー場。芸者になった今、思い返しても素晴らしい体験でした。
その後、慶應義塾大学に受かって、人間科学という分野を選び、それが後に社会人類学という分野を専攻するきっかけになりました。大学を卒業してから、大手の生命保険会社に就職して、日本の会社がどんなところで、会社員はどんな生活を送っているかを知ることができましたので、それも芸者になってからいい経験だった、と感じています。2年間勤めましたが、その後、英国のオックスフォード大学に渡ってMBAを取得しました。それでまた日本に戻ってきて、経済関係の記者になり、共同通信、ロイター通信に1年ずつ所属しました。
その後、もう一回オックスフォード大学に渡って、社会人類学で博士課程に通いました。社会人類学はフィールドワークが必要で、社会の中に入って勉強します。同じ時期に通っていた学生は伊豆の海女さんの修行をしましたし、またカラオケについて博士論文を書いた人もいました。
私は、22歳のときに入った生命保険会社に戻って、日本の会社について論文を書くことにしました。当時、すでに終身雇用という考え方が変わり始めていて、その時代の変わり目を、私自身の動きを追いながらNHKで番組をつくる、ということをしました。そうしたらその保険会社が潰れてしまって、論文とはほかに大手企業が潰れたことについての本も書きました。芸者の世界は100年間、成績が落ち続けている世界です。大手企業がどのように潰れていくかを目の当たりにしたのは、今から思うと得難い経験でした。
オックスフォードで博士課程を取得した後に、シンガポール国立大学で先生になって、日本文化と社会人類学的な観点で、ナショナルジオグラフィックやNHKなどでドキュメンタリー番組をつくり始めました。カルロス・ゴーンが最も注目を浴びていた時期、BBCの密着取材で番組をつくったこともあります。ゴーン氏が工場に入っていくと社員がピンと立ち上がって、神様が工場に来たかのような感じでした。
大学の先生をやりながら番組づくりをしていましたが、フリーランスのディレクターでしたので、自分でテーマを考えて調べてテレビ局でプレゼンをするのですが、2、3分で「この番組は絶対につくるべきです」とアピールしなければなりません。
ある日『SAYURI(さゆり)』という芸者を主人公にした本を原作にした映画ができるので、それをテーマにドキュメンタリーをつくってはどうか、と提案を出したのです。そのときはあまり興味を持ってもらえなくて、「私が芸者になっていく過程を番組にしてはどうですか」とポロっと言ったのが、今日の芸者になったきっかけになりました。
第10回「年商100億(社員100人以上)を突破させる方法」(小池浩二) [ 第10回 ]

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第11回「中小企業を取り巻く環境の変化」(河本和真) [ 第11回 ]
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第六回 ~江戸の疫病と本草学~ (田崎聡)
「なにをなすべきか」(小島正憲)

「コロナとは何だったのか?」(3/12、村上貴志氏、大阪ライブ講演)

書籍『実践‼「感謝話法」の極意』(澤田良雄氏)を販売します
「積小為大の実践で生涯現役を楽しむ」(澤田良雄)

「オミクロン株の拡大と、ワクチン接種」(3/7,二木芳人氏、東京ライブ講演)

「新型コロナ後、ビジネスと社会の新潮流」(2/24、高島健一氏、SJC)

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【講演録】「岸田政権と日本経済のこれから」(吉崎達彦)
吉崎 達彦氏 ((株)双日総合研究所チーフエコノミスト)
1960年富山県生まれ。一橋大学卒、日商岩井㈱入社。広報誌『トレードピア』編集長、米ブルッキングス研究所客員研究員、経済同友会代表幹事秘書・調査役などを経て企業エコノミストに。日商岩井とニチメンの合併を機に2004年から現職。『モーニングサテライト』等でコメンテーターを務める。
■サプライズのないバイデン大統領
進むインフレとFRBの出方
11月最後の木曜日に行われる感謝祭という習慣は、北米だけで欧州にはありません。つまり、植民地であるアメリカとカナダにやってきた人たちが、今年の秋に収穫がなかったら全員、飢え死にだという切羽詰った状態でやってきて、それで秋の収穫に対して感謝を捧げる日で、大変重い意味のある日です。この感謝祭を過ぎると、翌日がブラックフライデーで、年末商戦の始まりです。お店が黒字になるからブラックだという話です。
政治の立場から言うと、この感謝祭の11月25日前にいろいろ済ませておかなければいけない。例えば、大きな法案はできればこの前までに通したい。もう一つ、バイデン政権は昨日(11月23日)石油の戦略備蓄の放出を発表しました。アメリカは常に石油を備蓄しており、場所はルイジアナ州ニューオーリンズの近くです。ここはミシシッピ川の河口です。つまり、石油が何かのときはミシシッピ川を遡って、全米各地に供給できるようになっています。これを緊急放出する。そうやって石油価格を少しでも下げたい。
バイデンさんは、やることが非常に丁寧で念が入っています。日本政府にも付き合ってくれ、おたくも石油備蓄あるだろう、ということで、日本は苫小牧の港の反対側の所に、大きな備蓄基地があります。ただ、日本政府はそこまでやるつもりはなくて、余りの部分を放出して、お茶を濁すということです。
~若き農業法人社長の挑戦 [ 特集カテゴリー ] 【 清話会講演録 】, ◆先見経済◆
【講演録】「農業の無限の可能性にかける!」(中森剛志)
中森剛志氏(中森農産(株)代表取締役)
1988年東京都生まれ。東京農業大学農学部卒業。在学中より「日本の農業に一生を賭ける!」を合言葉に活動。日本農業最大の課題は生産分野にあるとの確信から25歳の時に埼玉県加須市へ移住。27歳で稲作農家として独立、翌年法人化。JGAP・有機JAS認証事業者。埼玉県稲麦作経営者会議理事。
■25歳で就農、なぜ米の
大規模農場化を目指したか
私は今、農業をやっていますが、東京生まれでもともと農家ではありません。今年、農業を始めて6年目で、今33歳です。東京農業大学の農学部で「日本の農業に一生を賭ける」を掲げて学生時代を過ごし、青果流通業や飲食業を東京で営んでいました。同時に、超党派のシンクタンクやスローフード協会に関わって、農業に貢献できる形で動いてきました。
25歳のときに、様々考えた上で農業生産のほうに行かなければ、日本農業の課題が解決できないという結論に自分なりに至り、埼玉県加須市に移住し、メガファームの構築を目指すということを、ここ5、6年やっています。
加須市で1年半、米作りを大規模にやっている早川農場さんで研修を受け、2016年に独立就農しました。お米作りで10ha。17年、18年と毎年、規模を拡大し、今年は150ha、作付け延べ面積だと200haぐらいやっております。米、麦、大豆、サツマイモ、日本で四大作物といわれるものを栽培しています。同時に有機栽培の取組みもどんどん増やしていて、今年は15 haぐらいやっています。
今は社員が10人ほどいます。資材は普通に卸やメーカー、JAから仕入れており、出荷先は、ほとんど卸売業者で、流通業者に販売する前に、間に入ってもらっている形です。今年、このコロナ禍で非常に米価が下がっており、2年前に比べ半値ぐらいになっています。輸出米も同じくほぼ半値です。弊社は契約栽培で大ロットで出していますので、それほど影響は受けていないというのが正直なところです。