澤田 良雄氏(株)HOPE代表取締役) 東京生まれ。中央大学卒業。現セイコーインスツルメンツ㈱に勤務。製造ライ…
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【清話会 催物カレンダー】2025. 9月-10月 ◆2025年 ■ 9/5(金)(清話会セミナー)「トランプ関税の世界経済、日本経済への影響」(真田幸光氏) ■ 9/18(木)(SJC2025.9月例会)「トランプ関税下の日本経済」(吉崎達彦氏) ■ 10/30(木)清話会特別セ…『先見経済』に広告を掲載しませんか?
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~仕事観や人生観の明確化 [ 特集カテゴリー ] ◆先見経済◆
【新連載】第2回『コロナ禍による価値観の変化』(申 燕澔、 シン ヨンホ) [ 第2回 ]
【講演録】現役アナウンサーが直伝「聞き手を惹きつける魅力的な話し方」(林 暁代)
林 暁代氏 フリーアナウンサー / ㈱KEE’S講師
元愛媛朝日テレビ アナウンサー、元日経CNBC「エクスプレス」「ヘッドラインニュース」 キャスター、テレビ東京「E morning」「NEWS FINE」マーケット中継キャスター。スピーチ/コミュニケーション、新入社員、エグゼクティブ等、数多くの研修を担当。シンプルで、魅力ある声の出し方を伝える大人気講師。
■ビジネスに役立つ印象よく話す力と、
分かりやすく話すスキル
KEE’Sは、アナウンサーが話し方・スピーチ・プレゼン・コミュニケーションをお教えする会社で、元々はアナウンサーを目指す学生向けに後輩を育てる企業として始まりました。私たちが使っている2つのスキルがビジネスのお役に立てると考えて、今の形になりました。
2つのスキルとは、1つ目は“印象よく話す力”。老若男女どんな方からも、テレビに映ってニュースを読んでいるのを見た瞬間、そして実際に取材に行って話した瞬間、「この人は感じがいいから話そうかな」「ニュースを聞こうかな」と思ってもらえるように、瞬時に印象を良く思ってもらうためのトレーニングをしています。これは持って生まれたものではなく、後から身に付けられるスキルです。
もう1つは、“分かりやすく話す”というスキルです。アナウンサーは、生放送、秒きざみの中で話をしています。その限られた時間の中でいかに分かりやすく話すか、というスキルです。この“印象を良く”“分かりやすく話す”というスキルが、ビジネスの中でも役に立ちます。
今まで、企業研修およそ700社の新入社員から企業のトップの方々まで約6万名の方に受講いただいています。他にも、キッズスクールでは、4歳児(年中)の皆さんが弊社のレッスンルームに集まって、声を相手に届けるためにボールを投げながらのレッスンや、論理的にスピーチをするという練習をしています。
最近では、集合研修を実施するのが難しいという企業が多くなり、2020年4月には新入社員研修がオンラインでの開催となったことを契機に、講師10人ほどが1人あたり約20名の方々に対してパソコンを通して、新入社員研修を行いました。他には、プロによる効果的なオンラインでの話し方を学んでいただける講座や、テレワークでも社員全員が同じようにスキルアップができるよう、見ながら実践できる動画を作成・提供し、役立てていただいています。
今回のセミナーでは、「つい棒読みになってしまう」「話が分かりづらい」「説明が分かりづらい」と言われてしまう、という皆様のお役に立てるよう、コミュニケーションのために必要なスキルの中でも、特にシチュエーション別の表情、相手を惹きつける声のトーン、はっきり相手に伝わる声や話し方のポイントをお伝えします。

~安い・高品質なアジア製品・サービスに負けない企業の生き方 [ 特集カテゴリー ] 【 清話会講演録 】, ◆先見経済◆
【講演録】「RCEP時代の経営戦略」(坂口 孝則)
坂口 孝則氏
未来調達研究所(株)所属。大学卒業後、メーカーの調達部門に配属される。調達・購買、原価企画を担当。サプライチェーンを中心とし、企業のコンサルティングを行う。コスト削減、原価、サプライチェーン等の専門家としてテレビ、ラジオ等でも活躍。著書に『未来の稼ぎ方』等、37冊。
■コストに負けない適正価格を
訴求していく意気込みを
コロナ禍というのは、日本の企業や事業に刷新を突きつけたのではないかと、私は思っています。DX化から始まって、事業構造の見直しやリスクの分散、どうやって海外の拠点と連携していくのかなど、様々な問題が繰り返し突きつけられていると思います。
RCEPはアジア各国との関税の障壁等が、一部、被関税障壁も大きく取り除かれる中で、いかに多国間貿易を広げていくかという好機でもありますし、そして日本の各製造、メーカーが、どのように生産し、どこから調達すべきか、といった最適地調達、最適地生産、最適地への販売行為を模索する必要があります。同時に、RCEPの恩恵を十分に得るためには、幾つかルールと言うか、仕組みを知っておかないといけません。
RCEPはあくまで手段であって、目的ではないと思います。皆様の本当の目的は、時代に追随する強い事業のあり方、企業のあり方ということが近いでしょうから、RCEPの話とその後、これからの事業環境、企業経営の考え方に触れていきたく思います。
私はサプライチェーンの分野を基本的に主戦場としているコンサルタントで、目下37冊、本を出しております。主には大企業と中堅企業のコンサルティングをやっており、大手アパレルメーカーの繊維を作っている所と、あとは半導体製造装置のメーカー、そして鉄鋼メーカー、原材料メーカーのサプライチェーンのコンサルティングをやっております。加えて、未来調達研究所に加え、心療内科、不動産会社の経営にも関わっています。
サプライチェーンは6個ぐらいの分野がありますが、私が担当しているのは購買物流というところです。会社があるとして、お客様につなぐ流通の所、協力会社、取引先からモノを買ってくる所、そして、二次、三次、四次の下請け、孫請け、ひ孫請けに至るまでの協力会社との連携、この辺に関して、繰り返しコンサルティングを行っています。
GDPに対する鉱物性燃料の輸入額率のグラフをみると、日本は非資源国家ですので、原材料、鉱物性燃料は、全て諸外国から買ってくる必要があります。それをなぜGDPと比べるかと言うと、GDPが倍、3倍に成長しているとすれば、鉱物性燃料もたくさん買ってもおかしくないわけです。しかしながら、GDPと比較することで、日本という国が1994年から2020年に至るまで、どれくらいの値段上昇、あるいは価格下落の中で鉱物性燃料を買ってきたのかを指し示しています。
このグラフに製造業全体の原価率を重ね合わせてみると、ほぼ製造業の原価は海外からやって来る鉱物性燃料に首根っこをつかまれてる、と言いますか、ほとんどそれだけで原価率が決まっているような状態になっています。鉱物性燃料が下がったら利益が出るし、上がったら利益が出なくなるという体質で、30年、40年ぐらいずっと苦しめられているのが日本の現状です。
従って、私がまず、ちょっと気にしないといけないと思うのは、原材料価格や原価に依らないような値付け、さらに言えば、中小企業の皆さんが、値上げをガンとするくらいの覚悟を持つというのが、全ての起点になると思います。
私がとても尊敬する一倉定さんというコンサルタントの先生がいらっしゃって、かつて「企業戦略とは、値上げのことである」と言われました。私が物流購買という所に身を置きながら「値上げしろ」言うのは少々乱暴ではありますが、RCEPで関税がなくなって1%、2%安くなると言っても、コストとか原価に負けないような適正な価格をきちんと請求していく意気込みは非常に重要になってくると思います。

~報道最前線からみた総選挙結果と課題! [ 特集カテゴリー ] 【 清話会講演録 】, ◆先見経済◆
【講演録】「令和4年の政治政局を読む」(神崎 博)
神崎 博氏(関西テレビ放送 報道局報道センター 専門部長)
1969年京都府生まれ。同志社大学卒業後、関西テレビ入社。「スーパーニュース アンカー」17時台編集長、「報道ランナー」解説デスクを担当。阪神淡路大震災、地球温暖化防止会議(COP13:インドネシア)、北京五輪、米朝首脳会談(トランプ対金正恩:ベトナム)、G20(大阪)等を取材。
■入社後はカメラを担当、
海外特派員を経てニュース担当に
私は、『報道ランナー』という夕方4時45分から関西テレビチャンネルでやっている番組で、ニュース解説を担当しています。
私は1969年、京都の亀岡で生まれ、大学でメディアの勉強をした上で93年に関西テレビに入社し、今29年目です。最初3年間は技術職の生産技術というところでバラエティやスポーツ番組の主にカメラマンをやっていました。『快傑えみちゃんねる』という上沼恵美子さん司会の番組や、やしきたかじんさんの『たかじん胸いっぱい』、あとは『三枝の愛ラブ! 爆笑クリニック』ではスタジオ技術もやっておりました。
スポーツでは、ちょうど私が入った頃はオリックスのイチローさんが活躍し、リーグ優勝してその後日本一になりましたが、その時の野球中継で日本シリーズのカメラをやりましたし、マラソンでランナーと一緒に走る移動中継車に後ろ向きに座って追いかけるカメラも3年間やりました。
その頃に阪神淡路大震災が起き、私はスポーツ制作系にいましたが、報道の中継技術が大変だったので、応援という形で被災地に入り、3日目に神戸の御影公会堂という避難所になっていたところへ中継でカメラで入り、報道の記者と一緒に仕事するのはほぼ初めてでしたが、とても過酷な現場でした。ほとんど寝ずにほぼ3日間寝ない状態でも記者の人がずっと取材をして、私はリポートする記者を撮り続けて、中継車に寝泊まりしながら一日に30回ぐらい生中継をして、5分、10分おきぐらいに中継が来るような形で、被災地や避難所の状況をお伝えしました。
元々記者になろうと思って会社に入ったので、その翌年に報道に異動しました。報道のニュースの中のスポーツ担当をやったり、奈良県に国立の奈良文化財研究所と県立の橿原考古学研究所という2つあるのですが、主にその担当で、発掘もの、遺跡のニュースなどを中心にやり、私がいた時には天理の黒塚古墳で銅の鏡が大量に出た、卑弥呼の鏡がたくさん出たということで学者に取材したりしました。
その後、京都支局に行きましたが、その前にはあの和歌山のカレー事件、林眞須美受刑者の自宅前で人権的にどうなんだという議論はあると思いますが、各社のカメラがずっと張って一挙手一投足を撮影する「張り番」をやったり、あとは神戸の連続児童殺傷事件で須磨の現場に行ったりしました。
あとは、阪神淡路大震災の現場に行って建物が倒れて沢山亡くなった、それを何とか皆さんにお伝えしたいという思いがあったので、防災担当で防災番組を担当しました。
そもそも海外支局で特派員になりたいという学生時代からの夢があり、報道に来て5、6年目にやっと叶いました。どこでもいいから行かせて欲しいと言っていたこともあり、一番人気のなかったマレーシアのクアラルンプール支局赴任になり、丸3年、駐在しました。
マレーシアにはあまり事件がないのですが、アジア友軍というような形で色々なところに行きました。パキスタンで地震があって飛んだり、当時、6ヶ国協議で北朝鮮のミサイル問題を話し合う会議があったので北京に行ってくれ、と言われたり、あと別の会議がソウルである、アメリカの安全保障のトップが来るということでソウルに行ったり、殺害された金正男がマカオにいるという情報があったので、マカオ中をジョンナム氏のインタビューを取るために探し回るということをやりました。
日本に帰ってからは、「FNNスーパーニュースアンカー」という、今の「報道ランナー」の前の前の番組の5時台のニュースの統括責任者をやり、当時は青山繁晴さんの「ニュースDEズバリ!」の担当をやりました。
「想いの実現は 力を付け、磨き、実を結ぶ」(澤田良雄)

「令和4年 建国記念の日の靖国神社」(日比恆明)

【体育会人材を、採用してみませんか?】
「原油価格とウクライナ情勢」(真田幸光)

「ミャンマーの内部情勢と今後」(4/7 永杉豊氏 ランチ+セミナー、東京)

「ロシア・ウクライナ侵攻から見る ”日本の外交と防衛”」(4/2、松川るい氏、大阪ライブセミナー)

「モノの価格はこのまま上がり続けるのか」(3/29、藻谷俊介氏、リモートセミナー)

「優秀な社員を辞めさせない解決志向型組織の作り方」(3/24,川西由美子氏、SJC)

「今進行中の賃金格差縮小の深い意味」(武者陵司)
「アジア中期経済予測について」(真田幸光)

【講演録】「〝渋沢栄一〞と〝久坂玄瑞〞」(坂市太郎)
一坂太郎氏
萩博物館特別学芸員
1966年兵庫県芦屋市出身。大正大学文学部史学科卒業。現在、萩博物館特別学芸員、防府天満宮歴史館顧問を兼任。日本文芸家協会員。幕末維新史を中心に研究・執筆。最近の著書に、『暗殺の幕末維新史』(中公新書)『坂本龍馬と高杉晋作』(朝日新書)『久坂玄瑞』(ミネルヴァ書房)など多数。
◼️盛り上がらなかった〝明治150年〟
明治は決して遠い昔ではない
渋沢栄一と久坂玄瑞は天保11年(1840)、同じ年に生まれています。久坂玄瑞は禁門の変で元治元年(1864)に数え歳25で京都で亡くなり、渋沢栄一は昭和6年(1931)、92歳まで生きしました。
渋沢栄一に会ったという人に私は会ったことがあります。作家の南條範夫さんという方。明治41年(1908)生まれで、NHKの大河ドラマで『元禄太平記』という作品の原作を書いた方です。
東大の学生だった頃、学生新聞の編集をやっており、渋沢栄一に取材に行ったそうです。渋沢栄一が慶応3年に徳川慶喜の弟、昭武の随行としてパリ万国博覧会に行った、その間に幕府が倒れ、帰ってきたら幕府がなくなって、新しい政府になっていたということについて聞いたとの話を後になって知りました。
平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から150年で、国を挙げてのイベントがありましたが、全く盛り上がりませんでした。明治100年のときは昭和43年(1968)でしたが、まだ明治生まれの人たちがたくさん生きていました。1968年の長者番付1位は松下幸之助さんで、明治生まれです。
その当時から20年ほど前、日本は戦争で負け、ひどい目に遭った。こんなことになったのはなぜか。明治維新からの何かボタンの掛け違いがあったのではないかということで、特に歴史学会は明治100年を祝うべきではないと徹底して抵抗しました。政府が歴史を書き換えようとしている、という運動も起こりました。各家庭にも戦争の傷跡が普通に残っていたでしょうから、明治維新はよかったのか悪かったのか、お茶の間の話題でできたのでしょうが、150年になってみるともうそれは分からない。
政府が出したものを見ると、明治150年のとき、明治は素晴らしい時代だった、という論調が、明治100年のときとあまり変わらないのです。明治維新で産業や経済が発展した、それは事実でしょう。民主主義の芽生えみたいなものもありましたが、結局は国家主義へと進みます。
ただ私が思うに、当時の日本は外国に戦争をすることが一番の目的で、だから産業が発達し色々な科学技術が導入された。それは国民の生活を豊かにしようとしてやったというより、富国強兵を目指していこうということです。
その中心に天皇制があった。天皇を日本の中心に持ってきて富国強兵を実現、対外戦争を繰り返し、とうとう昭和20年に敗戦を迎え、それから民主主義が出てくるという歴史だったはずが、随分イメージが違うという妙な違和感を覚えました。
対外戦争や天皇制の歴史だった、それがいいか悪いか、賛成するか反対するかは別としても、そうであることは史実です。そこに全く目を向けない明治維新像を広めようとしたから、何となくそっぽを向かれて盛り上がらなかったのかなと思っています。

~日本の伝統文化存続のために [ 特集カテゴリー ] 【 清話会講演録 】, ◆先見経済◆
【講演録】「西洋人初の芸者、新たな挑戦」(紗幸)
紗 幸(さゆき:フィオナ・グラハム)
(芸者、早稲田大学講師)
オーストラリア出身。交換留学生として日本の高校を卒業。慶應義塾大学で学位取得後、オックスフォード大学でMBA取得。世界数ヶ所の大学で講義をし、ドキュメンタリー制作の監督も務める。2007年12月浅草で正式に芸者としてお披露目を行い、花柳界400年の歴史上初の西洋人芸者としてデビュー。
■芸者に扮してテレビ番組をつくる中で
本当の芸者になる運命に
私が日本に最初に来たのは交換留学生としてでした。15歳のとき1年間、日本の高校に入って、日本の家庭にお世話になりました。直接の交換でしたので、私のオーストラリアの実家には19歳の真面目な女の子が来ました。その後一回、帰国して、16歳でまた日本に来て高校に入り直して、高校を終えました。そのとき1年間、休学をして日本の四季を味わえるところでアルバイトをしました。夏は東京の離島、冬はスキー場。芸者になった今、思い返しても素晴らしい体験でした。
その後、慶應義塾大学に受かって、人間科学という分野を選び、それが後に社会人類学という分野を専攻するきっかけになりました。大学を卒業してから、大手の生命保険会社に就職して、日本の会社がどんなところで、会社員はどんな生活を送っているかを知ることができましたので、それも芸者になってからいい経験だった、と感じています。2年間勤めましたが、その後、英国のオックスフォード大学に渡ってMBAを取得しました。それでまた日本に戻ってきて、経済関係の記者になり、共同通信、ロイター通信に1年ずつ所属しました。
その後、もう一回オックスフォード大学に渡って、社会人類学で博士課程に通いました。社会人類学はフィールドワークが必要で、社会の中に入って勉強します。同じ時期に通っていた学生は伊豆の海女さんの修行をしましたし、またカラオケについて博士論文を書いた人もいました。
私は、22歳のときに入った生命保険会社に戻って、日本の会社について論文を書くことにしました。当時、すでに終身雇用という考え方が変わり始めていて、その時代の変わり目を、私自身の動きを追いながらNHKで番組をつくる、ということをしました。そうしたらその保険会社が潰れてしまって、論文とはほかに大手企業が潰れたことについての本も書きました。芸者の世界は100年間、成績が落ち続けている世界です。大手企業がどのように潰れていくかを目の当たりにしたのは、今から思うと得難い経験でした。
オックスフォードで博士課程を取得した後に、シンガポール国立大学で先生になって、日本文化と社会人類学的な観点で、ナショナルジオグラフィックやNHKなどでドキュメンタリー番組をつくり始めました。カルロス・ゴーンが最も注目を浴びていた時期、BBCの密着取材で番組をつくったこともあります。ゴーン氏が工場に入っていくと社員がピンと立ち上がって、神様が工場に来たかのような感じでした。
大学の先生をやりながら番組づくりをしていましたが、フリーランスのディレクターでしたので、自分でテーマを考えて調べてテレビ局でプレゼンをするのですが、2、3分で「この番組は絶対につくるべきです」とアピールしなければなりません。
ある日『SAYURI(さゆり)』という芸者を主人公にした本を原作にした映画ができるので、それをテーマにドキュメンタリーをつくってはどうか、と提案を出したのです。そのときはあまり興味を持ってもらえなくて、「私が芸者になっていく過程を番組にしてはどうですか」とポロっと言ったのが、今日の芸者になったきっかけになりました。