武者陵司の「ストラテジーブレティン」vol.31
「コロナパンデミックの経済史的考察」(前編)
武者陵司氏((株)武者リサーチ代表、ドイツ証券(株)アドバイザー、ドイツ銀行東京支店アドバイザー)
(1) 歴史の画期で起きたコロナパンデミック
■歴史的転換点を示唆する4つの事柄
100年に一度の金融危機(グリーンスパン元FRB議長)と評されたリーマンショックは、その後の順調な回復を振り返れば、大げさすぎた表現であった。しかし今進行しているコロナパンデミック下の経済において、われわれは100年どころか、もっと画期的な歴史的と言うべき事例に遭遇している。ざっと上げただけでも、4つの歴史的変化が観測される。
◎変化I. 金利の歴史的低下
⇒ コロナ前から進行していた金利低下はコロナでさらに下落、米国長期金利は歴史上最低を記録した(図表1)
◎変化II. 空前の財政赤字
⇒ 主要国の財政赤字は対GDP比で見れば戦後最高となった(図表2)
◎変化III. 人類の基礎単位が組織でなく個になった
⇒大半の人的接触がネット・クラウド経由となったことで、組織が最小の経済単位ではなくなった(図表3)
◎変化IV. 労働・教育などの編成が激変、Work Life Balance が必至に
⇒ 物理的な集合労働、集合教育の時代が終わりつつある、リモートワーク、フレックスワーク、が常態化し、労働時間が劇的に減少、労働と消費の境界があいまいになっている。ドラッカーが言ったプロシューマーが見えてきた。1919年創設のILO一号条約、週48時間労働が100年経っても達成されていない。100年で10倍の労働生産性上昇にもかかわらず、人類の労働時間は殆ど変わっておらず、生産と消費のバランスが著しく崩れてしまった。コロナパンデミックによる労働編成の劇的変化は、100年分のWork Life Balance(労働時間vs. 消費時間) を是正するものになるだろう。
図表1: 米国長期金利史上最低に
図表2: 政府債務対GDP比戦後最高に(IMF)
図表3: コンピュータネットワークの進化と組織
■工業社会時代からサイバー社会時代へ
以上の諸現象は、バラバラに起きていることではない。原始採集経済 ⇒農業経済 ⇒工業経済に次ぐ新たな社会ステージが、AI・ネット・デジタル革命によって引き起こされ始めたとみるべきであろう。人間社会が工場制機械工業をコアとする編成から根本的に離脱し始めたと考えられよう。
価値創造は、農業時代の土地の上でも、工業時代の工場(事務所)の中でもなく、今やネット・サイバー上で行われる時代となった。その全貌はまるで見えないが、ここ数百年を支配した経済学と経済政策の有効性に限界が見えた時代であることははっきりしている。菅首相が唱える「悪しき前例主義の打破」はそうした歴史的環境の下で、説得力を増しているのである、と理解されよう。
今我々は人類の新時代の入り口に立っており、それは新たな夢と機会にあふれた時代である可能性が高い。本稿は以上の基礎的問題意識をベースに、コロナパンデミック下の経済と金融の歴史的分析を試みる。
(2) パンデミック、経済正常化の緒につく
■コロナパンデミックの全体像がほぼ見えた
歴史的コロナパンデミックがようやく峠を越えたようである。感染スピードの速さ、世界全体を覆いつくした感染規模は史上最大である。だが疫病の毒性そのものは、致死率が4~5割と高かったペスト、コレラなどと比較し弱いこと、重症化、死亡者は高齢者、基礎疾病者に偏っていること、重症化の主因がウィルスそのものというよりはサイトカインストーム(免疫の暴走)であこと、など様々な特徴が明らかになった。それらの知見による対症療法も進展し重症化、死亡率は大分低下し、Withコロナの下での経済活動正常化進行が視野に入ってきた。
東京オリンピックも実施される方向にある。今や、ポストコロナ時代をどう予見するか、が焦点になっている。最も重要なことは、コロナパンデミックがイノベーションの3条件、技術、市場(ニーズ)、資本を完璧なまでに揃えたということである。コロナ後の世界経済は明るく、成長率は高まるだろう。
■悲観論、株バブルキャンペーンは誤りだった
感染拡大の初期には先進国で軒並みロックダウンとなり、世界的に経済活動がほぼ停止状態になり、あらゆる経済指標は戦後最悪、失業率は大恐慌以来最高になった。世界株価はコロナ感染勃発後に4週間で4割という史上最速ペースの暴落となった。
しかしその後2週間で下落の半値戻しを達成、8月には主要国株式はコロナショック前の水準に戻っている。この間大多数のメディアや専門家は、経済実態と乖離した株高はバブルで持続性がないと主張した。
フィナンシャルタイムズ等経済ジャーナリズムは、この株価の急回復はユーフォリア(楽観的)で持続性がないとキャンペーンを張ったし、エコノミスト誌は「ウォールストリート(株価)とメインストリート(現実の経済社会)の危険な断絶」という特集(5月9-15日号)で、楽観論を批判した。しかし6月、9月と10%以上の下落という調整を経つつも、主要国株価は堅調である。
図表4: 新型コロナ死亡者の平均年齢
図表5: 2020年1月1日以降の主要国株価
■戦後3度目の世界経済ブームは終わってはいない
悲観論の根底には、リーマンショック後の経済成長は禁じ手政策の連発による砂上の楼閣であり持続性はない、という大局観がある。コロナパンデミックは、いずれ下されるべき審判を速めたに過ぎない、というわけである。米国はじめ各国政府・中央銀行は前例のない財政・金融緩和策(いわゆる禁じ手)を連発して、経済金融の崩壊を防いでいる。これが市場に安心感をもたらしているのであるが、それこそ問題である、という議論である。
コロナが起きる直前までは世界経済はブーム状態、ネット情報通信革命が進展し、米国の失業率は3.5%と史上最低まで低下、株価はリーマンショック後10年間で4倍になった。武者リサーチは、この長期経済ブームの波は終わってはいない、コロナの後は再度上昇の波に戻ると主張してきた。理由はコロナが歴史の流れを押し進めると考えられるからである。
米国株式を100年単位で振り返ると、20年間で10倍になるという長期ブームとその後の10年間の調整が繰り返されてきた。1950~60代年NYダウは100ドルから1000ドルへと10倍になったが、1970年代の10年間は1000ドルと全くの横ばいであった。
1980~90年代の20年間には1000ドルから10,000ドルへと10倍になったが、2000年代の10年間はITバブル崩壊、リーマンショックという二つの暴落があり、ならしてみれば10,000ドルで横ばいであった。2010年代に入り再度20年10倍勢いで上昇相場が始まっていた。この戦後3回目の大波が終わったのかどうかが問われる。
ちなみに各20年間の株価上昇の背景には、対をなす二つのレジーム、
1.技術・ライフスタイルとビジネスモデル、
2.金融レジーム、
があった。
1950~60年代のブームを支えたものは、モータリゼーション、電化による高度大衆消費社会とケインズ体制の下の不換紙幣発行、である。
1980~90年代のブームの背景には、グローバルIT社会とドルの不換紙幣化(ドルの垂れ流し)が、そして現在進行中の2010~2030年のブームはAI・NET・デジタル社会とQE・株式本位制が対応している、と想定される。
図表6: NYダウ120年の推移と二つのレジーム
■コロナが押し流す歴史進歩の3つの障害物
コロナ以前から3つの歴史的趨勢が起きていた。
1. ビジネス、生活、金融、政治のすべてを覆いつくすIT・ネット・デジタル化
2. 財政と金融の肥大化による大きな政府の時代
3. 中国の孤立化と国際秩序・国際分業の再構築、
である。
しかしこうした歴史的趨勢は、牢固な障害物により展開を阻まれ、それがここ10年近く世界経済の桎梏となっていた。障害物とは、ネット化に対しては既存の慣習・制度・変わりたくない抵抗勢力、大きな政府に対しては、健全財政信仰、緊縮金融信仰、中国抑制に関しては中国経済力の脅威、中国の横車・恫喝、等である。
これらの阻害要因が歴史の流れを押しとどめ、澱みができ、政治・制度・経済・社会・生活等で大きなひずみが起こっていた。ここ数年顕在化していた世界経済の病、デフレ(=供給力余剰)、ゼロ金利(=資本余剰)、は変化を押しとどめる障害物が引き起こしたものと理解することができる。
あと一つの病、格差拡大も上述の阻害要因が是正の邪魔をしていた。コロナパンデミックはこれらの阻害要因をことごとく壊し、歴史的趨勢を加速させるだろう。コロナ感染が沈静化した時、世界経済はより活力を高めているはずである。本来なら何年もかかり多くの失敗の後にようやくたどり着いたであろうこれらの結論に、コロナパンデミックにより瞬時に到達できた、このことの意義は大きい。
(3) ネット・デジタル市場の一気拡大
■コロナで思い知った技術の大進歩
コロナ発生後の世界で人々が最も驚いたことは、いかに技術が進化していたか、ということであろう。在宅勤務も在宅授業、在宅診察等、等により大半のビジネスと生活は、直接の人的接触なしに遂行できている。ネットワークの技術基盤がすでに整っていたのである。しかし古い仕組み、慣習、規則・規制、無知などによって、その実用化が阻まれ、これまでそうした市場・ニーズは全く生まれていなかった。
■コロナが加速するネット・デジタルの新市場
コロナでインターネット活用の障害物、古い制度・習慣・変わりたくない抵抗勢力が吹き飛んだ。人と人との直接接触を避ける切り札としてのネット化が、有無を言わせない至上命令となった。なかでもテレワークの普及は、働き方を劇的に変え新しいライフスタイルとビジネスモデルの激変を巻き起こしている。
買い物はテレショッピングになり、外食を減らしてデリバリーが増え、子供たちは塾の教室まで出かけていって学ぶのではなく、自宅でパソコンやタブレットなどの端末を使って学ぶ遠隔授業が日常になるなど、あらゆるものがインターネットに置き換えられていく。医師会などの抵抗で遅々として進まなかった遠隔医療、も待ったなしとなった。
■ビジネス、行政、社会のデジタル化一気に進む
企業の外部閉鎖性の改革、労働時間の短縮・フレックス化、兼業・副業の常態化、テレワークの障害物であったハンコ文化の一掃、ドキュメントの紙からデータへの転換も一気に進んでいる。多様な方向で労働編成改革が断行される。業務の外部委託がさらに進みコスト削減と新たな商品開発の両方が進展する。
テレワークは上司の目を気にする必要がなく、働き方の自由度が高まるように見えるが、実は労働が可視化され、情報が共有され厳しくモニターされるようになる。つまり個人労働の価値分析が徹底される。アリバイ作りで出社し、会議に出席しているだけの社員はあぶりだされつつある。
年功序列雇用が色濃い日本は、ネット導入に大きく立ち遅れていたが、ここで一気に遅れが取り戻されるだろう。いわゆる日本固有のメンバーシップ労働からジョブ型労働への転換が大きく進展するだろう。
コロナは日本の行政など社会システムのデジタル化の著しい遅れを露呈させた。菅新政権はデジタル庁の創設をはじめ、マイナンバーの浸透・行政の効率化、スマホ情報の社会的活用などの改革を政策課題の一丁目一番地に据えた。
政府のイニシャティブにより、教育のIT化、医療のIT化、金融のIT化、エンタメのIT 化(音楽、映画、ゲーム)など、社会各層でのネット化が一気に進むだろう。メディアの主役交代、都市集住の見直し、スマートシティ、セカンドハウス取得などの社会変化も予想される。
■ネット・デジタルが市場の効率性を極限まで進める
ネット化によりあらゆる経済資源はネット上で顧客を見出し、適切な価格で評価されることになる。ネットにより市場原理が一層貫徹し、神の見えざる手がより細部にいきわたる。
つまり市場が効率化し生産性が高まる。またネットで生活コストは大きく低下し所得の余剰が生まれる。その余剰所得が向かう新規支出はどこになるだろうか、ライブ、実体験、人的接触が価値を持つ時代に入っていくように思われる。
(後編に続く)
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