小島正憲氏のアジア論考
「コロナとミャンマーと民主主義」(後編)
小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)
2.ミャンマーと民主主義
2月1日、突如、ミャンマーでクーデターが起き、国軍がスー・チー国家顧問や国民民主連盟(NLD)幹部を拘束し、国家の全権を掌握した。ミャンマー国民だけでなく、世界中のすべての人がミャンマーの民主化過程を信頼しきっていただけに、この事態を誰も想定しておらず全世界が驚愕した。これまでミャンマーの民主化は、順調に推移していたように見えていたが、なぜ、かくも容易くスー・チー政権は打倒されてしまったのだろうか? この機会に、民主主義そのものを深く検討してみる必要があるのではないか?
その後、ミャンマーでは人民の不服従運動(CDM)や街頭デモによる反撃が展開されているが、国軍の徹底的な弾圧を受け、民衆側の死者数は750名超になるという悲惨な状態となっている。これに対して、NLDも国民防衛隊を発足させ、少数民族武装勢力と連携し「連邦軍」の構築し、対決姿勢を鮮明にしている。ここに至って、ミャンマーが泥沼の内戦に陥ることも否定できなくなった。だが、内戦という事態は、ミャンマーの人民にとって最悪のものであり、避けなければならない。
ミャンマーの民主化は、キン・ニュン氏の「民主化へのロードマップ」から始まった。国軍の真意は、自らの失政で最貧国に陥ったミャンマー経済を外資の導入などで立て直すため、緩慢な民主化を進めるというところにあったと言える。それは人民の民主化要求に応えるというポーズで、利権の構造を残したまま数十年間にわたって権力を維持していくという構想であったのではないか。だからミャンマーの民主化は与えられた民主主義と言っても良い。
そのような背景の中で、小選挙区制の総選挙でNLDは圧勝した。スー・チー氏が率いるNLDはその結果を過信し、自らが泳がされているだけだという認識が欠けていた。言い過ぎかもしれないが、スー・チー政権を客観的に見た場合、それは国軍の傀儡政権だったとも言えるのではないか。そのスー・チー氏が、総選挙での圧勝を背景に、国軍の実権剥奪に手をつけようとしたので、国軍が先手を打ってクーデターを起こしたというのが、今回の真相だろう。
本来ならば、スー・チー氏は政権の座にあった数年間で、少数民族武装勢力との共闘を進め、国軍を凌駕する武力を確立しておくべきであった。またシビリアンコントロールの下に、巧妙な形で国民防衛隊を組織しておくべきだった。それらは国軍暴発=クーデターの強力な抑止力になったはずである。しかし少数民族武装勢力との合従は遅々として進まなかったし、国民防衛隊などは話題にものぼらなかった。
またスー・チー氏は国軍内部のかく乱・分裂工作もできなかった。逆に、スー・チー氏の無策に愛想をつかし、味方の戦線から離脱する者も少なくなかった。しかもスー・チー氏はロヒンギャ問題を看過した結果、欧米からも見放された。
私は大学時代に、「民主主義は武力の前には無力」という体験をしたことがある。私が学んでいた同志社大学の経済学部の学生自治会は、当時、トロツキストと呼ばれる極左派の学生たちに牛耳られていた。その学生自治会は、毎年、経済学部全学生の民主的な選挙によって選出されていた。入学時には弱小勢力であった私たちは、地道なクラス・サークル活動を続けて、3年時には一定の勢力に漕ぎつけた。そしてその年の自治会選挙で、過半数を制することができた。
私たちは、第1回目の自治会に喜び勇んで参加した。ところが、開会直後、その場は修羅場となった。トロツキストたちがいっせいに殴りかかってきたのだ。それは私たちにとって、まったくの想定外だったので、命からがら、その場から逃げ出すのが精一杯だった。私は顔面をなんども殴られたが、何とか逃げ出すことができた。その後、眼が見えなくなり、仲間に助けられ眼科に直行した。
トロツキストたちは、民主的な選挙結果を暴力で踏みにじり、その後も、経済学部学生自治会を占拠し、多額の自治会費を自由勝手に使った。私たちは一般の学生たちに、トロツキストたちの悪行を必死に訴えたが、大きな支援は得られず、事態を打開することはできなかった。それで私の学生運動は終わった。
3.民主主義の再考・再興
戦前、日本は軍国主義国家であり、個人の自由が束縛されていた。しかしほとんどの日本国民は、当時の政府を熱狂的に支持し、戦争に突き進んでいった。一部の共産主義者などが軍国主義に反対したが、虐殺されたり獄中に繋がれた。そして日本は300万を超す死者を出し、悲惨な敗戦を迎えた。
焦土と化した日本に、米軍を中心とする連合軍が進駐してきた。占領当初の連合軍最高司令部(GHQ)の統治政策は、日本のキバを抜くことだった。そのため日本に戦争を放棄させ、民主主義を定着させようとし、幾多の施策を実施した。日本国民の多くは、軍国主義に加担した自らの姿勢を反省することなく、戦争責任を戦犯に押し付け、頬かむりしたまま時の権力者に迎合すべくにわか民主主義者に豹変した。当然のことながら、だれも民主主義の真髄を理解せぬままだった。
しかも事態はもっと複雑だった。軍国主義に反対し獄中にあった共産主義者たちは、民主主義のリーダーになることを期待されたが、その後、時代の波に翻弄され、その役を果たせなかったのだ。彼らはGHQの手によって解放されたため、GHQを解放軍と呼び大歓迎し、民主主義政策施行を丸のみにし、過激な労働闘争にのめり込んでいった。だが、彼らが画策した2・1ゼネストは、日本の共産化を恐れるGHQの手によって一瞬のうちに押しつぶされた。
やがて朝鮮戦争がはじまり、GHQの統治政策が日本の再軍備、民主主義への制約に変わっていった。そして共産主義者たちは、自らが解放軍と呼んだGHQの手によって、社会の表舞台から追放(レッドパージされた)。共産主義者たちは混乱し、一部は山村工作隊を組織し武装闘争を目指した。この間、わずか5年、本来、民主主義を骨肉化し、日本をリードすべきだった共産主義者たちは地獄から天国、そして地獄へと翻弄され、真実を見失った。
皮肉なことに、私たち団塊の世代は、かくのごとく混乱した状況下において、民主主義の真髄を理解していない教師や親から、民主主義教育を受けて育ったのである。しかし朝鮮特需などの幸運に恵まれ、その後、日本は高度経済成長へと突き進み、それに酔いしれた日本国民は、「与えられた民主主義」を深く検討することもなく、今日を迎えているのである。これは日本人の怠慢であると言えよう。それでも、日本国民は民主主義を謳歌し、自由を享受してきた。今、そのツケが回ってきたのだとすれば、コロナ禍での死を甘受すべきなのかもしれない。
(この項、了)
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小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。