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【講演録】「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争」(岩下哲典)

岩下 哲典(東洋大学文学部・大学院文学研究科教授〔博物館学芸員養成課程担当教員〕)

1962年年長野県塩尻市生まれ。青山学院大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得(2001年博士号〔歴史学〕取得)。明海大学経済学部助教授、同大学ホスピタリティ・ツーリズム学部教授を経て、2016年より現職。著書:『徳川慶喜 その人と時代』『幕末日本の情報活動 「開国」の情報史』『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』『江戸の海外情報ネットワーク』など多数。

 

■出島のオランダ商館長から

  ペリー来航を予告する知らせが届いた その時、幕府は?

ペリーが1853年に来航してから、54年に交渉が行われました。これは意外と迅速な条約交渉で、情報が事前に伝わっていたからということになります。

では、ペリーとは何者か。マシュー・カルブレイス・ペリー、日米和親条約締結時のアメリカ側の全権でアメリカ海軍の軍人です。生まれは、ロードアイランド州のニューポート、ボストンから車で約1時間ちょっとの、海軍軍人や捕鯨船の乗組員、海軍関係の人たちが多く住んでいる所です。

中浜万次郎(ジョン・マン)はフェアヘブンに住んでいましたが、船で行き来すればとても近い所です。ペリーが日本に来たとき万次郎については全く何もコメントをしていませんが、万次郎のことは十分知っていたと思います。

ところで、ペリーの父や兄はアメリカ海軍の軍人で、海軍一家と言っていいと思います。兄はエリー湖の戦いで軍功を上げており、兄の記念碑などもニューポートにあったと思います。ペリー自身は、地中海艦隊とかニューヨークの海軍工廠などにも勤務しており、蒸気船のフルトン号を建造し初代艦長に就任し、多くの士官を教育しており、合衆国海軍の「蒸気海軍の父」と称された人物です。また、「熊おやじ」というあだ名を部下から付けられてもいます。かなり厳格な上官だったといわれています。

米墨戦争ではメキシコ湾艦隊の司令長官として軍功を立て、アメリカの領土拡張に寄与しました。1852年3月に第13代のアメリカ合衆国大統領フィルモアから、東インド・中国・日本海域艦隊司令長官(通称:東インド艦隊司令長官)および遣日特使に任命されました。

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