前稿で清酒のルーツである僧坊酒、奈良正暦寺の「菩提泉」のことを書いたが、同じ奈良の興福寺『多聞日記』にも酒の醸造技術を詳しく記録されているほど、「奈良酒」は清酒造りの基本とする技術革新が行われたのである。室町時代(1466年)の『蔭涼軒目録』にもそのことは記されており、その中には筑前博多の「練貫酒(ねりぬきざけ)」のことが書かれている。
練貫酒の特徴は、糯米を用いて醪を臼でひきつぶしてつくるので、ペースト状のねっとりとした酒である。中国大陸から伝わったとされているこの酒は、甘口で、当時は京都で土産物として大変人気があったそうだ。1468年の『碧山目録』には、豊後の練貫酒として記述があり、室町期の歌謡集「閑吟集」にも「練貫酒のしわざや あちょろりこちょろよろよろ 腰の立たぬは あの人のゆゑよなう」という小歌がある。練貫酒は、筑前、豊前、出雲でも造られていた。この練貫酒は、腐敗が早いためにその酸化防止のために焼酎を加えた。これが後の本みりんになったと言われている。この時の焼酎は、正に米焼酎か粕取焼酎が使われていたわけだ。
このことを、上方では「柳蔭(やなぎかげ)」江戸では「本直し」と呼び、冷用酒として夏場に飲まれ、高級酒として扱われていた。この味醂は、1593年豊臣秀次の家臣、駒井重勝が記した「駒井日記」の記述に「密淋酎御酒御進上成られる」とあり、この「密淋酎」が味醂のことである。
また、味醂は「屠蘇」の元でもあり、日本酒と本みりんに屠蘇散を漬け込んだもので、現在販売されている「養命酒」にも本みりんが使われている。このように、本みりんは水を使わず、糯米に米麹、そして焼酎を原料として半年から1年熟成させたアルコール度数14度前後の酒なので、現在販売されている「みりん」や「みりん風調味料」といった工業的製法とは違う。私は、室町時代の味醂が、糯米を使っていたことを考えると、餅麹を使った固体醪を蒸留したとされる粕取焼酎を、この味醂に使用したのではないかと思うのである。
前述の奈良の興福寺に正暦寺から酒造りの拠点が移され、興福寺は全盛を極めたが、1595年の太閤検地によって、興福寺は春日大社との合体禄高が定められた。興福寺を収めていた織田信長は鴻池の慈眼寺に仏像を移し、この時に酒造技術書が鴻池に移された、鴻池の山中鹿之助の子、山中新六が後に酒造業で財を成したと言われている。それが、摂津は「酒造発祥の地」と言われている所以である。山中鹿之助は、出雲出身であり、出雲は灰持酒の「地伝酒」で有名で、地伝酒は、やはり糯米を使って糀を清酒の二倍使用、仕込み水を清酒の半分にし、それを3か月熟成させ、醪を搾る際に灰を上澄みに加えるという酒で、江戸時代後期には野焼き蒲鉾や、地元の食の調味料に使われている。現在も、筑前、豊前、出雲の練貫酒の産地であるこの地域には、未だに粕取焼酎の蔵元と、それを利用した食文化が存在するのには、人々にこうした古くからの伝統的な味覚を好むDNA遺伝子が、流れているのではないだろうか。そして、出雲木綿街道を開拓した、近江商人の足跡と大陸伝来の蒸留技術、それを活かした粕取焼酎には、何らかの酒造技術の交流があったと思われるのが自然だ。
摂津名所図会(伊丹の酒造り)