丹波杜氏の里、丹波篠山と言えば「デカンショ節」で知られる地である。
デカンショ、デカンショで半年ゃ暮らす ヨイ ヨイ
あとの半年ゃ 寝て暮らす
ヨーイ ヨーイ デッカンショ
丹波篠山 山家の猿が ヨイ ヨイ
花のお江戸で 芝居する
ヨーイ ヨーイ デッカンショ
酒は呑め吞め 茶釜で沸かせ ヨイ ヨイ
お酒あがらぬ 神はない
ヨーイ ヨーイ デッカンショ
灘のお酒はどなたが造る ヨイ ヨイ
おらが自慢の丹波杜氏
ヨーイ ヨーイ デッカンショ
この歌詞のデカンショ、デカンショは、一説では「出稼ぎしよう、出稼ぎしよう」という意味があり、灘の酒造りに半年出稼ぎに行く杜氏のことを指しているとされている。
旧篠山藩主の青山家は、明治維新後学問を奨励し、東京に寄宿舎を造り遊学させていた。たまたま、篠山出身の若者たちが千葉県の八幡の浜で宿泊していた時、旧制一高(現在の東京大学)の水泳部員がその唄を聞きとめ、尊敬するデカルト、カント、ショーペンハウエルを文字って「デカンショ節」と名付けて、全国に広まっていったとされている。
現在では、旧盆が過ぎた8月17日、18日に丹波篠山で「デカンショ祭」が開かれている。今年の夏には、マレーシアのクアラルンプール郊外で盆踊りが行われ、そこでもデカンショ節が披露され、5万人の人出で賑わったというから凄い。
さて、日本三大杜氏の一つ、丹波杜氏は300年の歴史を誇り、最盛期は5,000名の杜氏数を誇っていた。宝暦四年(1754年)に徳川幕府が酒造り勝手令を発令した後の、宝暦五年(1755年)に、篠山曽我部(現在の多紀郡日置)の庄武右衛門が、池田大和屋本店に杜氏として従事したとの記述が最古と言われているが、『池田酒家用秘録』の中に、宝永七年(1710年)の篠山藩が、百日稼禁止のお達しのことを記載していることからすれば、相当の数の杜氏が、宝永年間に出稼ぎに従事していたということが、伺われるのである。
江戸時代初期に、伊丹の鴻池家が大型の樽による酒造りを始めて、江戸へ菱垣廻船、元和五年(1619年)が始まり、寛文年間(1661 ~ 1673年)に酒樽専用の樽廻船が始まった。そして、寒造り三段仕込みの「伊丹諸白」が酒造りの主流となり、大量の造酒が可能となった。『童蒙酒造記』(1687年)の「伊丹流の事」の中に、「醤酎を薄く取、揚前五、三日前二一割程醪の中へ入れる也。風味しやんとして足強く候」とあり、まさしくこの醤酎とは、粕取焼酎であり「柱焼酎」のことである。
そして、日本酒に仕込む酒米は、人力で玄米から白米に精米しなければならず、徐々に伊丹、池田から、水の豊富な灘なだ五ご 郷ごう(西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷)で水車による精米へと移動、江戸への下り酒の出荷が便利な灘に、丹波杜氏も移っていくようになった。この灘の酒を銘酒として知らしめたのは「宮水」の発見だ。灘の西宮から取水する六甲山系の伏流水は、鉄分が少なくカリウムの多い、いわゆる“延びのある水” で、糖化と発酵を促進する、日本酒づくりに最適の水として知られている。
また、丹波杜氏の酒造技術の特徴が、「生酛」である。宮水の特徴を活かし、雑菌を極力排除する乳酸菌の力を使い、米をすりつぶす「山卸し」でできる酒母をつくる醸造法が生酛づくりだ。こうして、丹波杜氏の名声は、灘酒から全国に広まっていったのである。
酛おろし(『日本山海名産図絵』より)