増田辰弘が訪ねる【清話会会員企業インタビュー】第17回
地域に深く根を張る新エネルギー企業 堀川産業㈱・㈱エネクル
~絶えず新しい分野への仕込みを怠らない周到さが強み~
【会社紹介】
堀川産業株式会社
創 業: 昭和23 年(1948 年)3月
設 立: 昭和27 年(1952 年)3 月
代 表 者: 代表取締役社長 堀川 雅治
資 本 金: 6 億500万円
売 上 高: 246億9100 万円(2020 年9 月期)
従業員数: 690 名(2020 年3月期)
事業内容:LPガス(液化石油ガス)製造販売、簡易ガス事業、都市ガス事業、電力販売事業、発電・売電事業、ガソリンスタンド、オートガススタンド、各種燃料油の販売、
リフォーム事業、住宅設備機器・各種建材の販売、冷暖房空調機器の設計施工販売、不動産事業、健康食品の販売、損害保険代理業、携帯電話販売事業、インターネット回線事業
堀川雅治社長
事業の多角化が会社のDNA
しかし、不思議な堀川産業㈱(本社・埼玉県草加市、堀川雅治社長)の取材であった。同社の祖業はLPガスの販売である。全国に約1万6千社あるLPガスの供給事業者のひとつである
がそのほかに驚くほど多くの事業を行っている。
堀川産業㈱は、埼玉県草加市に本社を構える企業であり、LPガスの販売が主要な事業の一つだ。同社は全国に約1万6800社あるLPガス供給事業者の中の一社だが、その他にも多岐にわたる事業を展開している。
ざっと挙げてみても、LPガス直販のほかに卸売り事業、都市ガス事業、ガソリンスタンド事業、電力販売事業、太陽光発電事業、不動産事業、保険事業、インターネットサービス事業そ
してこのほかにもキッチン、バスを中心としたリフォーム事業、灯油の定期配送事業などの小回り事業も行っている。
どこのLPガス事業でも、いやほかの業種の企業でも新規分野に進出するのは大変なことなのである。それをこの会社はいとも簡単にやってのけている。しかも営業エリアも地元埼玉県
に限らず遠く奈良県、長野県まで1都9県に及ぶのだ。
「新規分野にうまく事業展開する秘訣は何ですか」。ほかの企業にも役立つではないかとこれが今回の取材の最大の目的であった。「わが社の新規の事業展開はこんな戦略です」というような言葉を期待していたが、堀川社長はこの質問にけげんな顔をする。事業を多角化することが会社のDNAとなっており、同社の事業の多角化戦略が取り立てて不思議なことではないのだ。
この意味は、堀川社長の「都市ガス事業は農耕産業、LPガス事業は狩猟産業なんですよ」と言う言葉で初めて理解できた。普通のLPガス事業者は狩猟産業を農耕的にやっているだけな
のだ。そう考えると同社の多角化の事業展開が少しは理解できる。
営業部が担当している開発事業者などから新しい住宅開発の案件が入る。規模は様々であるが大きなプロジェクトがあれば、拠点進出を検討する。そうするとまずこれはLPガスの販売先
となる。(都市ガス地域であれば都市ガス)この団地が神奈川県にあったりするともう他県に進出している。開発事業者への協力として物件を分けて貰い50戸分の賃貸住宅を作るともう不動産賃貸事業も行っている。
引き続きこの団地の入居者への自動車保険、地震保険などの保険事業、インターネットのサービス事業、ガソリンスタンド事業などどんどん関連事業が生まれて来る。同社はこれをうまく手配して取り込んでいるのだ。思考的にLPガス事業とその関連事業が繋がっているから違和感なく関連事業に展開できるのである。
LP ガスのタンクローリー
LPガス事業者としては驚異的な事業拡大
同社の創業は堀川社長の祖父にあたる堀川吉蔵氏による戦後間もない1948年の薪炭の登録販売制による燃料登録販売店「堀川商店」である。吉蔵氏は福島県の出身で戦前に苦学をして高文試験(現在の国家公務員採用試験(大卒程度))を合格し、地元で警察署長をやっていたが、戦後の復興が進む中、社会へのエネルギー供給という面で貢献したいという思いを持って始めたものである。
その後1952年からLPガスの販売を開始する。そして、その5年後の1958年に長野県に進出している。上山田温泉にLPガスのまとまったお客を見つけたからだ。この上山田営業所を皮切りに以後県外にもまとまった顧客を見つけては展開する。この後同社は驚くべきペースでの事業の拡大、新規分野の進出、県外への展開を行っている。
これを順に述べると、LPガス事業では、1956年にはLPガスの卸売の開始、1962年に草加市にLPガス充填工場を皮切りに各地に工場を整備している。1967年には埼玉県宅地建物取引業免許を取得し不動産賃貸事業の開始している。
そして、1966年には自動車用燃料の販売を開始し、幸手工場でガソリンスタンドを併設している。1970年には草加市、越谷市において簡易ガス事業の開始、1972年には草加など4ヶ所の工場に灯油タンクを設置し灯油販売を開始している。1981年からは損害保険代理事業の開始している。
また、2013年から埼玉県久喜市において太陽光発電事業の開始、2015年には埼玉県蓮田市において都市ガス事業の開始、2017年からガスユーザーを対象としたインターネットサービス事業、2020年から群馬県富岡市において電力販売事業の開始している。
そして、地域別においても先程のべた様に1958年に長野県にLPガス事業で進出し、同様に1966年に千葉県に、1969年に茨城県にLPガス事業で進出している。また1973年に栃木県へ簡易ガス事業拡大に伴い進出している。1978年に奈良県へLPガス事業で進出、1981年に神奈川県にはLPガス販売事業で進出、1982年には東京都にガソリンスタンド事業で進出、1985年には群馬県にLPガス事業で進出、2000年に福島県へLPガス事業で進出している。
エネクル効果で会社が大変化
堀川産業は、2022年に分社のかたちで新しい会社㈱エネクルを立ち上げた。そもそも「エネクル」というブランド名が誕生するきっかけとなったのは、2017年に群馬県富岡市の都
市ガス事業を引き継ぎ、事業運営を開始したことだ。現在も7000件を超える需要家に都市ガスを供給している。この事業への参入の準備を進める同社は体制を整えていたが、懸念点があった。
それは、堀川産業の社名では市より事業を引き継いだ企業がエネルギー会社として認知していただけるかという点である。堀川産業という社名に馴染みの無いエリアで事業を展開するにあたり、一目でエネルギーを取り扱っていることが分かる名称が良いのではないのではないかということになった。
それが、今ではテレビコマーシャルですっかり有名になった㈱エネクルである。エネクルは「エネルギーで快適な未来をつくる」、「エネルギーサークル(エネルギーの輪を広げていこう)」という2つの意味を込めて、両方の言葉の最初と最後の2文字を使ったブランド名だ。現在ではエネクルは会社名となり、エンドユーザー向けの事業、すなわちLPガス、都市ガス、インターネットサービス、キッチン、バスのリフォームなど直販、小売り部門などを担っている。
富岡市との連携も一層強まっている。2022年6月に富岡市、堀川産業株式会社、東京ガス株式会社は、「カーボンニュートラルシティ実現に向けた包括連携協定」を締結した。これ
は、地球温暖化対策推進法改正に伴い、脱炭素社会の実現に向けた取組が求められる中、富岡市が目指す「持続可能な環境都市」を築くために、堀川産業と東京ガスが協力するものだ。三
者は相互に知見や技術を活用し、定期的な協議を通じて実施内容を決定していくことになっている。この協定により、脱炭素社会に向けた包括的な取り組みが進むことが期待される。
作業員による点検風景
エネクルのマスコットキャラクター「クルン」
新規事業等のチャレンジは堀川産業㈱で行う
ここでもう少し、堀川産業㈱と㈱エネクルの役割分担を詳しく述べると、社員約700人のうち約150人が堀川産業㈱で残りの約550人が㈱エネクルである。身分上は一応全社員堀
川産業㈱に籍を置き、㈱エネクルへの出向の形を取っている。㈱エネクルは堀川産業㈱が100%株を持つ子会社であるが社員は全員堀川産業㈱に籍がある。もちろん給料などの待遇も人事
異動も同じ条件で行われている。
「なぜ、社名を変えるか、あるいは堀川産業㈱を持ち株会社にしてすべての事業をエネクルに移さなかったのですか」の問いに対し、堀川社長は、「現在、エネルギーを取り巻く事業環境は大きく、しかも早く変化しております。2050年のカーボンニュートラル、デジタル化への対応を実現しなければならない状況下で、今後益々経営のスピードアップを図り、お客様へのサービスの向上を目指して、小売部門を分離独立する事にいたしました。
すべてエネクルに統一しなかった理由は、過去の成功体験を生かせる事業に大きくかかわって行くとどうしても従来の考え方になりがちである。持株会社として保有資産の有効運用や今後カーボンニュートラル時代を見据え、リスクが大きく判断が難しい事業は堀川産業が担当することによりグループの強化を図ることが狙いです。簡単に言えば新規事業等へのチャレンジを堀川産業㈱として取り組むということですね」と的確なお答えをいただいた。
確かに、自動車会社も電力会社も既存の事業を持ちながらの方向転換には大変苦労をしている。目の前に設備や人員がいるとどうしても既存の事業の継続にこだわってしまう。これが時には会社の命取りになることもある。この視点に気がついたのはさすがである。
群馬県富岡市のガスタンク
*奇跡を呼び込んだJR九州
夢なき者に理想なし
理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし
実行なき者に成功なし
故に、夢なき者に成功なし
これは、日経新聞の3月における「私の履歴書の著者」であるJR九州唐池恒二相談役(元社長)の最終回は彼の座右の銘のひとつで吉田松陰のこの言葉で締めている。彼は経営者やリーダーは夢を描けとしつこく説いている。
JR九州が株式上場を果たしたことはもう誰でも知っているが、設立当初はとてもそんな経営状況ではなかった。国鉄の分割民営化でJR東日本、JR東海、JR西日本の本州3社は株式上場したがこれは本業の鉄道事業が背景になっている。
しかし、JR九州はかなり遅れて2016年に上場を果たすが、これは不動産事業、外食事業、観光事業などの関連事業の成果が背景になっている。そして、この唐池相談役は同社で鉄道事業にはわずか4年間しか勤務しておらず、この関連事業を引っ張って来た人なのだ。これは本業はそこそこでも関連事業で稼ぐ堀川産業と実に良く似ている。
大変失礼な言い方だが、よくこんな逸材が当時の国鉄に入ったなと思えるほどのビジネスセンスの良さなのだ。そして唐池相談役の大ヒット作が豪華寝台列車「ななつ星in九州」である。
九州1周の豪華列車今でこそ切符が取れないぐらい好評で本州3社も真似をして同様なものを走らせているが、発案当初は社内外で反対論が多かった。
某大手旅行会社の幹部からは「九州での旅行に何十万も払って東京から来る人はいない。失敗するよ。」と忠告された。しかし、これらは世界一の豪華列車を見たこともないし、知らな
い人の意見である。世界一のこだわりの車両、設備、スタッフ、料理、もてなし、そして何よりもお客さんに感動を提供することにこだわった。時代のニーズを読むセンスが抜群に優れてい
る。
彼が、外食事業部を担当した時年間8億円の赤字を出していた事業を3年間で黒字にする。しかし、後任がまた赤字にしてしまう。仕方がない出戻りでもう一度外食事業部のトップを務めている。
後任は決して手を抜いた訳ではなく前任者が上げた黒字基調をもっと良くしようと合理化を行ったのだ。しかし、肉の厚みが薄くなり、刺身の数が減ると客は減って行く。唐池恒二相談役は「サービス事業は工場の様な合理化をしては駄目なのだ」と説いている。彼が着任するとすぐに黒字基調に戻した。お客は良く見ているのである。