【特別リポート】
「令和5年8月15日の靖国神社」
日比恆明氏(弁理士)
今年も夏となり、終戦の日が近づいて来ました。しかし、今年は靖国神社に出掛ける準備が例年とは少し違っていました。それは8日に発生した台風7号によるもので、今年初めての台風は徐々に本州に近づいていました。14日午後6時の時点の天気予報では、「台風は中部地方に上陸し、東京も大雨と暴風になる」というものでした。広い境内をあちこちと歩き回るためには雨合羽、長靴が必要となるのでは、と準備していました。しかし、台風7号は15日午前5時に和歌山に上陸し、本州を突き抜けて北上してしまいました。このため、関西地方は台風の被害を受けたのですが、東京には何の影響もなく、15日は曇り時々晴れという天気となりました。しかし、名古屋・岡山間の新幹線が一日運休したことから、武道館で開催された全国戦没者追悼式の参列者が約800名減少するという影響が出ました。
写真1
写真1は今年の終戦の日の午前11時53分頃に、大鳥居を背にして大村益次郎の銅像に向って撮影したものです。参拝者が三々五々と本殿方向に向かっていて、例年に比べると人数は少ないと感じられました。今年の参拝者数は3万6千人(神社発表)で、昨年の3万5千人に比べると増えていますが、コロナ発生前の令和元年(2019年)の4万9千人に比べたら少ないものです。本年5月に外出規制が緩和されたため、参拝者は増えると想定していたのですが意外にも人数は伸びませんでした。前日の大雨になるという天気予報で参拝を見合わせた方が多かったからと思われます。台風の影響が無ければ参拝者数は昨年よりももっと増えていたはずです。
さて、戦中派の人達からは、「昭和20年8月15日の終戦の日は大変暑かった」という体験談が多く残されています。しかし、私はこの証言に疑問を持っています。当日の東京の気温は32.3度で、さほど高いものではありませんでした。昭和17年8月には38.1度の最高気温を記録していることから、終戦の日は当時の平凡な夏期の気温であったはずです。なぜ、「終戦の日は暑かった」という体験談が多いのは、気分的なものと思われます。戦闘体制の生活を続けていた最中に突如敗戦の報を受けたため、緊張感がほぐれたのではないかと考えられます。精神的な余裕が出たので、それまでは気にもとめなかった夏の暑さを感た、というのかもしれません。また、夏の盛りである8月15日であったから、当日は暑かったはずだ、という先入観があり、暑さが情緒的に記憶されていたのかもしれません。
終戦の日における過去の東京の気温を調べてみると、最高気温は平成8年の38.7度であり、とてつもなく暑かったようでした。また、他の年度と比べて最低の最高気温であったのは令和3年の20.2度であり、同じ終戦の日でも気温差は18.5度もあったのです。
写真2
写真3
今年の参道は静かなものでした。写真2は今年の大村益次郎の銅像横の広場ですが、このように人影は少なく、石畳が広々としたものでした。例年、この場所では大テントが張られ、戦歿者追悼国民集会が開催されていたのですが、コロナ感染が始まった令和2年(2020年)より開催が中止されています。写真3は、平成30年(2018年)に同じ場所を撮影したものです。今年の追悼国民集会は会場を借りて少人数で開催され、オンラインで中継されていたようです。もしかすると、諸般の事情により今後はテントを張らず、オンライン形式で開催していく方針に変わるのかもしれません。
写真4
写真5
今年も午前11時15分の定刻になると、岸田首相が千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝し、戦没者に花束を捧げていました。終戦の日に首相が墓苑に参拝するのが年中行事となっています。ここで疑問になるのが、何時まで現役首相が参拝を続けるか、ということです。戦没者を慰霊するという意義があるのなら、日清戦争、日露戦争の戦没者も慰霊する必要があります。しかし、それらの戦争の戦没者は慰霊されていません。千鳥ケ淵戦没者墓苑は大東亜戦争(墓苑のホームページでは、墓苑が設置された趣旨を「大東亜戦争で犠牲になられた方を追悼するため」と明記しており、第二次世界大戦とか太平洋戦争という単語は用いられていない)の戦没者を弔うための施設であり、それよりも前の戦死者は弔われていないのです。
首相が戦没者墓苑に参拝するという行事が永遠に続くとは思われません。もしかすると、戦後百年となる2045年に戦没者追悼の行事も一区切りとなり、規模が縮小されるか無くなるかではないかと想定されます。その頃には、戦没者の係累は四代目或いは五代目となり、記憶は風化しているからです。この議論は何時かは行われることになるでしょう。悲しいことかもしれませんが、永遠に続けていくことには無理があるのです。
写真6
写真7
今年の戦没者墓苑の入場は厳しいものでした。昨年は安倍元首相が暗殺され、本年には岸田首相の暗殺未遂事件があり、会場の警備は例年になく厳重なものでした。写真6は墓苑の入口で、左側には参拝者の手荷物を検査するテントが張られていました。昨年は墓苑内での簡易な検査でしたが、今年は金属探知機によるボデーチェックも行われていました。検査が終わると荷物には丸いステッカーが貼られました。ここまで厳重に検査するのであれば、一般参拝者が墓苑に立ち入るのを禁止した方が早いのでは、と思われました。
写真8
戦没者墓苑内では托鉢する尼僧の姿が見かけられました。毎年、午前10時には日蓮宗による慰霊祭が行われているのですが、そちらとは無関係のようです。今年始めて見かけられたのですがどうもニセ坊主のようです。このような姿をして墓苑に立っていれば何がしかの喜捨を受け取れると考えたのでしょう。ニセ坊主なら危害を加える訳ではないので、公安関係者は見て見ぬふりをしていたようです。
写真9
今年は久し振りに台湾民政府の一行が参拝していました。この団体の主張は、台湾は大日本帝国の領地で、戦後は中華民国に一時的に貸したものであるため天皇陛下にお返しをしなければならない、と言うもので色々と問題があるようです。靖国神社で最初に見かけたのは平成25年(2013年)で、以降毎年参拝していました。コロナ汚染により台湾の出入国が制限されたことから、一時は来日していませんでした。今年2月から出国が緩和されたため、4年ぶりの参拝となったようです。
この団体は毎回派手な参拝をするので有名です。今までは全員がスーツ姿で参拝していましたが、今年は先住民族の衣装をした女性の姿が見られました。どうも、清国、日本が台湾を専有するよりも前は先住民族の領地であった、とアッピールしたいのではないかと推測されました。
写真10
写真11
毎年正午になると、境内、参道には参拝者が直立し、戦没者に黙祷を捧げるのが慣習となっています。コロナ発生前は戦歿者追悼国民集会が巨大なスピーカーを設置し、NHKの時報と黙祷のアナウンスを流すのが通例となっていました。しかし、昨年は国民集会によるスピーカーの設置が無かったので、各団体がそれぞれ独自に号令を発して、テンデンバラバラに黙祷していました。これでは余りにもみっともないと感じたのか、今年は神社側が各所にスピーカーを設置し、黙祷のアナウンスをしていました。このため、今年は正午の時刻に合わせて、全員が統一して黙祷されていました。
靖国神社に参拝される人達は地下鉄の九段下駅で下車し、坂道を登り、歩道を渡って神社に入るのが通常のコースとなっています。写真では多くの人達が神社方向に向かっているように見えますが、これでもコロナ騒ぎの前に比べたら少ない人混みです。参拝者が少なくなったためか、変わった人を見かけることが無くなりました。以前は面白い格好をした人や有名人などを見かけることがあったのですが。猛暑により外出するのが億劫になったのか、それとも、北朝鮮のミサイル攻撃を恐れたのか、理由は分かりません。
写真12
写真13
例年、終戦の日の九段坂の歩道では各種団体によるビラ配りがあります。この場所でなければ訴えることができない内容のため、皆様必死になってビラ配りしています。写真13は富士山マークでお馴染みの宗教団体によるビラ配りです。ただ、この団体が配付しているビラは安倍元首相、岸田首相に批判的な内容となっていて、何だか靖国神社に向かう人達の思想と外れているのではないかと感じられました。ここでビラ配りしてどの程度の信者を獲得できたか疑問です。暑い日中にビラ配りしたが、成果は無かったでしょう。例年、この歩道ではキリスト教、仏教、神道などの各宗派の宗教団体がビラ配りしているのですが、今年は富士山マークだけが目立って多く、キリスト教系の人達を数名見かけただけでした。
写真14
写真14は、中国政府によるウイグル族の虐待を訴える団体です。この団体はかなり以前からここでウイグル族虐待の事実を訴えていたのですが、その頃は日本の新聞、テレビなどのマスコミは殆ど実態を報道していませんでした。最近になって米国がウイグルでの強制労働や住民監視を表面化させたことで、日本のマスコミはウイグル問題を報道するようになってきました。世界の情報が、正しく早く報道されることが如何に難しいのかを如実に示しています。
写真15
写真15のおじさんは奇妙な看板を掲げていました。どうもロシアによるウクライナ進撃を批判した内容なのですが、キリスト教やロシア正教などの宗教についても解説しており、何を主張したいのかハッキリしていないのです。この人は数年前にも見かけたことがあるのですが、その時も主張が支離滅裂でした。日頃は何をしているのか知りたいところです。
写真16
写真17
さて、外苑には以前は無料休憩所とお土産店の2つの木造の建物がありました。無料休憩所はコンクリート造りの外苑休憩所となり、近代的な食堂と売店に変わりました。外苑休憩所の反対側にはまだお土産店の建物が残っていて、昭和の時代を彷彿させるような外観です。お土産店の店頭ではかき氷を販売していました。そのお値段は、何と400円でした。これも昭和の価格ではないでしょうか。7月のみたま祭りの時、外苑休憩所でかき氷を販売していましたが、こちらは1500円でした。お土産店のかき氷は物価高騰へ反抗しているように見かけられました。