武者陵司のストラテジーブレティン vol.69
「日銀 YCC 政策変更の意義 」
~日銀の政策遂行能力に対する信認を高めた~
武者陵司氏((株)武者リサーチ代表、ドイツ証券(株)アドバイザー、ドイツ銀行東京支店アドバイザー)
(1) YCC の出口に向かう日銀
長期金利は市場実勢に委ねられ、上昇していく
7 月 28 日、日銀は YCC(イールドカーブコントロール)政策の変更を発表した。昨年 12 月に 続く 2 回目の YCC 変更である。金利には政策によって決定される短期金利と市場が決める 長期金利があるが、2016 年に導入された YCC は本来市場で決まる長期金利をも当局がコン トロールするというものである。それ以降、日銀が容認する 10 年国債利回りの上限は 0.25%であったが、昨年 12 月の変更で、0.5%に引き上げられた。
今回はそれがさらに 1.0%に引き上げられた。市場の裁量の余地を拡大させたのであるから、 日銀がどう説明しようとも YCC の出口へ向けての歩を進めたことは疑いない。昨年 12 月以 降 10 年国債利回りは 0.25%以下から 0.4~0.5%のレンジにシフトしたが、今回の決定によ って、更に水準を切り上げると想定される。政策変更後1週間で 0.65%まで上昇しており、 今後は日銀のオペレーション次第だが、0.5%~1.0%の間で推移していくものとみられる
株価やリスクテイクにとってマイナスではない
これは明白な利上げだから金融引き締めに転じたこととなり、株価やリスクテイクにマイナ スになるとの評価がなされているが、それは正しくないだろう。
第一に、今回の変更は日銀 が目標にしていた 2%インフレに近づいたことによってなされたもの、つまりより望ましい 経済状態に近づいたのであるから、これはプラスである。
第二に、CPI 急上昇により実質金 利は大きく下落しており、それは金融緩和効果を強めることになる。日銀による食料品、エ ネルギー価格を除く CPI 予想(中央値)は 2023 年度 3.2%と1年前時点での予想に比べて 1.8 ポイント上昇しており、今回の利上げをもっても実質金利は下落することになる。
政策変更後に日経平均株価は(米国国債格付けの引き下げによる米国株安もあり)3%、1000 ポイント ほど下落したが、早晩落ち着きを取り戻すものと思われる。
YCC の出口が見えてきた
いずにしても本来市場で決まる長期金利を日銀がコントロールする YCC はいつまでも続け てよい金融政策ではない。長期金利がマイナスに陥るという異常事態に対応した奇策であっ たのであり、事態が変われば止めるべき政策である。今や経済市場環境はデフレリスク、金 利低下リスクが消え、インフレ、金利上昇リスクへとシフトしているのであるから、YCCの枠組みの変更が必要になっている。
今のところ YCC そのものの副作用は小さく、持続することに問題はない。 しかし、ひとたびインフレ圧力や円安圧力に対して日銀が後手に回ったと市場が判断すれば、強烈な日本国債売り、 円売りの投機が起き市場が大混乱に陥る可能性がある。そうなる前に日銀は市場の期待に先行して金融政策を修正 していかなければならない。昨年 12 月、今年 7 月の YCC の修正は、準備周到な出口への誘導と考えられよう。
(2) 中央銀行の創造的金融政策展開の一つとしての YCC
近年の世界の中央銀行金融政策は、新しい現実に対応した創造的政策の展開に満ちている。YCC もその流れの中 で評価されねばならない。
量的金融緩和の創造性と見事な成果
かつての金融政策の中心は金利政策であったが、リーマンショック以降、短期金利がゼロに張り付いたこと、銀行 融資による信用創造の比重が低下したことにより、新たな政策手段が必要になり、量的金融緩和が導入された。バ ーナンキ議長の下で米国 FRB は 3 回にわたって量的金融緩和を実施し、総資産を 8000 億ドルから 4.5 兆ドルへと 5.5 倍に拡大した。
それにより急落していた資産価格が押し上げられ、絶大な経済効果をもたらした。米国株価はその後 10 年間に 4 倍に急騰、不動産価格も上昇し、米国家計の純資産は 50 兆ドルから 100 兆ドルへと倍増した。この家計資産増加 額は米国 GDP の 2.5 倍に相当する膨大なもので、それが米国消費を増加させ、持続的経済拡大のけん引力になっ た。
端的に言えば、中央銀行が資産市場に実弾を投入し資産価格を押し上げることで、総需要を増やすという新政策が 定着したのである。金融政策の波及経路(トランスミッションメカニズム)は、従来の銀行貸し出しのコントロール から資産価格のコントロールへと明確にシフトした。
黒田異次元金融緩和の成功と 2016 年の困難
日本でも第二次安倍政権成立後、黒田日銀総裁は 2013 年 4 月に異次元の金融緩和と銘打って、米国並みの超積極 的な量的金融緩和に踏み切った。長期国債と株式 ETF の購入によりマネタリーベースを 2 年で倍増するという当 初の計画は、2015 年 1 月にさらに強化され、マネタリーベースの拡大ペースは 60~70 兆円/年から 80 兆円/年へ と増額された。
米国同様この威力は絶大で2年間で株価は 2 倍、ドル円は 80 円から 120 円へと急落し、物価もプラスへと浮上し た。
しかし 2014 年の 5%から 8%への消費税増税、2015 年のチャイナショックによる世界的景気減速とデフレ圧力の 高まりにより世界的に長期金利が大きく下落、一時は世界全体の長期国債利回りの 3 割強がマイナスに陥るという 事態となった。日本の長期金利も 2016 年には 0%以下に下落した。
銀行経営は短期金利で資金を調達し長期金利 で資金を運用し、両者の利ザヤを得ることで成り立っているため、長期金利がマイナスになると経営が成り立たな くなる。この銀行救済のための苦肉の策が 2016 年 9 月に導入された YCC(イールドカーブコントロール)である。 短期金利をマイナス(▲0.1%)に 10 年国債利回をプラスに(0 から 0.25%)に固定化することで、銀行の利ザヤが確保 された。
ここで問題が生じた。マイナスの長期金利を押し上げるためには、量的金融緩和にブレーキをかけ、国債 購入を減らさなければならない。それを市場が金融緩和の後退ととらえれば、円が急騰しデフレを深刻化してしま う恐れがある。
量的金融緩和の修正としての YCC
日銀は苦肉の策として、金融緩和の手段を再び金利政策に移し、量的金融緩和の縮小が円高に結びつかないような 手立てを講じたのである。2016 年まで日銀の理事として政策に関わったみずほリサーチのエグゼクティブエコノ ミストの門間一夫氏は、その新たな金融緩和政策の枠組みが YCC であったと解説している。
2016 年当時、日銀の 資産増加ペースにブレーキがかかっていることを訝しく感じたエコノミストは武者リサーチをはじめ多数いたが、 それが量的金融緩和の後退とは誰も主張しなかった。日銀が新次元の金融緩和として YCC を大々的に宣伝したこ とで、目くらましを食らったのである。よって日銀の資産購入の手控えが円高圧力として認識されることもなかっ た。
証明される日銀の当事者能力
このような経緯で生まれた YCC は、長期金利が恒常的にプラスになり、むしろ上昇圧力が強まっている現在、歴 史的役割はほぼ終えていると言える。周到な準備の下、秩序だった出口への誘導としての 2 回の YCC の変更は、 日銀が十分な対応能力を持っていることを示した。1992 年英国イングランド銀行はジョージ・ソロスの投機に負 けて ERM(欧州為替相場メカニズム)からの離脱を余儀なくされた。当時のイングランド銀行は利下げによる景気 対策と、ERM が求める通貨高の維持の 2 律背反状況に追い込まれていたが、今の日銀にそのようなディレンマは 存在していない。
なお異次元の金融緩和や YCC に対する批判として、①ゾンビを温存させる、②財政規律を弱める、③資産バブル を作る、④円暴落を引き起こす、等が挙げられているが、それらは言いがかりに近いものが多く、また切実なもの では全くなく、当面の日銀の政策遂行の妨げにはならない、と付言しておく。