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「成功体験とはなにか」(小島正憲)

「成功体験とはなにか」

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

1.日本の成功体験

戦後、日本経済は高度成長期、安定成長期を経て、世界第2位と言われるまでの経済大国となった。しかし、バブル経済崩壊後の「失われた30年」の結果、とうとう、中国、ドイツに抜かれ、世界第4位に成り下がってしまった。このところ、この落日の日本経済を憂いて、識者の間ではその犯人探しが喧しい。それらの多くに共通しているのは、「日本人がかつての成功体験を捨てきれなかった」ことに求めていることである。

野口悠紀雄氏は、『プア・ジャパン』(朝日新書)で
「1980年代に、世界経済の基本条件が大きく変化した。中国が工業化し、情報技術の急速な進歩があったからだ。
それまでの世界では優れたパフォーマンスを発揮した日本の社会制度は、新しい条件下では優位性を発揮することができず、変革と進歩に対して桎梏となった。企業も教育も、変化に対応して変わることができなかった。企業が変わることができなかったのは、過去の成功事業を推進した人々が保守勢力となり、その影響力が経営方針に及んだからだ。彼らは、新しい事業に対しては抵抗勢力となり、ビジネスモデルの転換を阻んだ。
また、日本的な終身雇用体制の下では、企業は従業員の共同体であり、一つの企業で一生を過ごすことが求められる。そのため、人員整理や不採算事業の廃棄が難しく、ビジネスモデルの変革ができなかった。
環境の大変化に直面しても、対応することができなかった。その結果、イノベーションのための投資が行われず、企業の競争力が低下した。そして、教育制度の改革も進まなかった。
こうして、日本では、古いビジネスモデルが継続され、新しい経済活動が生まれることがなかった」
と書いている。

高度・安定経済成長期の成功体験を、どのように捉えるかは識者によって違うが、この経済成長の要因は、高い教育水準を背景にした良質で安い大量の労働力、軍需生産のために発達した技術力、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油間接金融護送船団方式所得倍増計画工業用地などの造成、朝鮮戦争特需などが挙げられている。

つまり、成功の要因は多様であり、それらが相乗効果を発揮したと考えるのが妥当であり、成功の勝因を特定してしまうことは、敗因を誤認することにつながる。

しかし、成功体験のうち、なにが主因であったかを見つけ出す努力は怠るべきではなく、多くの仮説が主張され、歴史の風雪にさらされることによって、それらの中から真因が確定されていけばよいと思う。

私は、高度経済成長期を支えた要因の一つは、ハングリー精神の旺盛な安価で大量の若年労働力(いわゆる人口ボーナス)だったと考えている。さらに、石油危機という経済の激変にもかかわらず、安定経済成長期を築くことができたのは、軽薄短小へ、多品種少量生産への挑戦という発想の転換であり、それを具体的に実践したのがトヨタ生産方式だったと思う。

「トヨタ生産方式」は、ジャストインタイムを合言葉に、在庫の徹底した削減、改善活動を通じて工程中のムリムダムラを排し、5S(整理・整頓・清掃・清掃・しつけ)の徹底で品質の飛躍的向上を目指すものであり、結果として、トヨタを世界一の座に押し上げた。

この生産哲学は、当時、日本や世界を席巻した。わが縫製業界でも、「トヨタ生産方式」が取り入れられ、カイゼンや5Sが合言葉となり、それまでの座りミシンが否定され、多工程持ちが可能となる立ちミシンが主流となった。それらの努力とバブル景気の中で、同業者の中でも大儲け組が続出した。

その後、日本はプラザ合意、円高、バブル経済崩壊に巻き込まれ、挙句の果てに「失われた30年」と相成った。

2.わが社の成功体験

残念ながら、わが社は、高度・安定経済成長期を通じて、大儲けすることはできなかった。1980年代から顕著になってきた人手不足の波をモロに被り、工場内に働き手がいなくなってしまったからである。仕方がないので高額な自動化ミシンや立ちミシンなどの投入を行い、「トヨタ生産方式」を学び、カイゼンや5S活動に取り組み、事態を打開しようとしたが、効果は芳しくなく、赤字が続き、ついに倒産寸前に追い込まれてしまった。つまり、わが社には、日本における成功体験はないのである。

①中国での成功体験

1991年、わが社は、先輩同業者に誘っていただき、夜逃げ同然で中国に進出した。ところが、これが大当たりして、5年後には、無借金で、総従業員数1万人の工場群に拡大することができた。もちろん、日本のわが社の借金も完済できた。わが社は、中国で、成功体験を積むことができたのである。

中国での成功体験の要因は、なによりも、安価でしかも無権利状態の労働者=ハングリー精神にあふれ、教育水準が高く、勤勉そのものの若者が無尽蔵にいたことが挙げられる。

それ以外にも、次のように、数多く挙げることができる。
当初は、中国側が土地建物を出資、日本側が設備を出資し、技術指導を担当、生産物はすべて責任もって日本へ輸出する合弁方式だったため、投下資本がきわめて少ない金額で済んだこと。
日本で廃棄される寸前の中古設備を大量に持ち込んでも、中国側は雇用の確保や外貨の獲得を重視し、外資企業優遇の姿勢であったこと。
日本のバブル経済崩壊後には、日本市場で価格破壊現象が起こり、安くなければ売れない状態となり、安価な中国製品が大量に輸入されることになったこと。
その上、1990年代半ばまで続いた円高・人民元安で、巨額の為替差益を、中国側が労せずして手に入れたこと。
さらに、日中双方で免税が適用(中国側では法人税免税=2免3減政策、日本側では中国からの配当に関してみなし外国税額控除)されたこと。

などなど、成功の要因は、まだまだ挙げることができるが、上記の要因が相乗効果を果たした結果だといってよいだろう。とにかく、この時期には、やればやるほど儲かった。

今から思えば、わが社は、運よく遭遇した多くの要因を利用しつつ、中国人のハングリー精神に乗っかって、人海戦術で工場経営に成功したわけであり、いわば「トヨタ生産方式」の真逆を行っていたのである。
つまり、結果的に、日本の成功体験の否定の上に成り立っていたのである。

②バングラデシュでの成功体験

2000年代に入って、さしもの中国にも人手不足現象が現れてきた。また、2007年末の新労働法施行に伴い、労働者のストライキが多発するようになり、賃金もうなぎのぼりとなり、中国外への転出を検討せざるを得なくなった。東南・南西アジア各国で、人口密度が高い国は、インド・バングラデシュである。

幸い、わが社にはバングラデシュに強い人脈があったので、2010年、ダッカに工場進出した。だが、そこには、中国にあった成功の要因は少なく、中国での成功体験はあまり参考にならず、結果的に多額の資本投下が必要だった。それでも、ハングリー精神にあふれた安価な労働力が無尽蔵だったので、13年間で1700人規模の工場に成長させることができた。

今では、この工場がわが社の基幹工場となり、主たる稼ぎ手となっている。

③ミャンマーでの成功体験

だが、バングラデシュには「ハルタル」と呼ばれるゼネラルストライキがあり、工場がそれに巻き込まれ、大損害を被る可能性があった。それを恐れて、わが社はリスクヘッジのため、2014年にミャンマーに進出することを決めた。

わが社には、すでに資金的余裕がなかったので、投下資本を最少にしようと考えた。いわば、バングラデシュ工場の成功体験の否定である。

まず、6万ドルで10万㎡の土地を購入、150人程度が収容できる工場を5万ドルで建て、設備を超安価で工面して、総投資額30万ドルで開始した。その後、儲け出した資金で工場建て増しを続け、10年で1200人の工場に拡大した。無尽蔵とはいえないまでも、ハングリーな若者が多かったことが、その裏付けとなった。

なにしろ最少の資金で行ったので、余分なところに金はかけておらず、この工場は見てくれはよくない。だから、どう見ても、「トヨタ生産方式」が徹底している工場には見えない。5Sもなかなか徹底できなかった。しかし製品の品質は徐々に向上していき、お客さんからも及第点をいただくようになり、わが社の利益に貢献する工場に育った。

だが、2021年2月、クーデター勃発。ミャンマーでの成功体験は、一夜にして、崩れたかに思われた。

④「トヨタ生産方式」は成功体験か?

ミャンマー工場では、投下資本を最少に抑え、品質上も合格点を取れる工場として、成功体験を積むことができた。でも、わが社のミャンマー工場は、他社の綺麗な工場とは違う。5Sも徹底できていない。

ここで、ふと、私の頭の中に、「果たして、5Sと品質向上の因果関係は科学的に証明されているのだろうか」、「5Sは必要なことだが、それに大金をつぎ込む必要があるのだろうか」などという素朴な疑問が湧き上がった。

次に、「“トヨタ生産方式”のジャストインタイムについても、コストカットが主たるものであり、しかも改良やカイゼンというのは、イノベーションとは言えないのではないのか」と、思うに至った。

いまだに、日本の各企業は、「トヨタ生産方式」を金科玉条のように奉り、その成功体験を引きずっているから、「失われた30年」から脱しきれないのではないだろうか。EVに遅れをとったのも、イノベーションを忌避したからではないのか。

3.私の成功体験

私には成功体験はない。私はこれまで、大学受験に失敗し、学生運動でも挫折し、その後、幾多の挑戦をしてきたが、ビジネス界以外では、いずれも成功しなかった。

私は学生時代に、共産主義に共鳴し、自らの一生を労働者階級の先兵として捧げることを決意した。しかし、その志はいまだに遂げられずにいる。それどころか、当年まで、その敵対階級に身を置き続けることになっている。だから、ビジネス界での成功は、私の人生目的から外れたものであり、私の心中では、恥ずべき成功体験なのである。

だから、私には、いまだに、自らに誇るべき、真の成功体験はない。

もはや喜寿を迎える歳になり、友人の中には、すでに鬼籍に入ってしまった者もいる。高校時代の超優秀で有名大学に進学していった同級生たちも、すでに現役をリタイアーして久しく、中には意図に反する余生を過ごしている者もいる。

私は、それらの多くの同年配の友人たちを見るにつけ、今日まで私を強く縛り付けてきた学歴コンプレックスから、ようやく解放されるに至っている。現在、私の孫たちが受験戦争に巻き込まれ、塾通いに明け暮れている姿を見ていて、「受験戦争の結果の学歴は、人生には大きな意味をなさない」とアドバイスをするのだが、親たちはまったく聞く耳を持たない。

思い返せば30代のころ、尊敬していた経営者の先輩が、60歳で、会社や団体の役職をきれいさっぱりやめ、田舎に引っ込まれ、絵の世界に没入された。あのとき、あの先輩の気持ちが、私には理解できなかった。

だが、今なら、わかる。今なら、私もビジネス界と完全に縁を切ることができる。これは、初志貫徹するには絶好のチャンス到来ともいえる。今なら、まったく違う舞台で、イノベーションを起こすことができる。

私は、私をこれまで育ててくれた先輩や社会に恩返しし、初志貫徹、真なる成功体験を積みたいと思っている。

だが、死の訪れは、私に成功体験を積ませてくれないかもしれない。

 

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  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。