■反日正常化を目指す中国
民間組織の活躍で在留邦人の帰国が進む
1950年代初期、中国は対日正常化を目指す方針を決めていました。ただそれには二つの大きなネックがありました。1つは日本政府がそれに応じるかどうか。2つ目は、日本に恨みを持つ中国民衆の国民感情。これをどう変えていくかでした。
1950年10月に当時の日本の世論が大騒ぎすることが起こりました。モナコで行われた「世界赤十字総会」で、中国代表団の団長・李徳全(中華人民共和国衛生部初代部長、中国赤十字会会長)が日本代表団の島津忠承団長を訪ねました。この人は戦前の華族で公爵、日本赤十字社名誉総裁です。李徳全は島津に大変なことを告げ …
戦後、日本政府が真っ先にやるべきだったのが、戦争の結果、外地に取り残された、帰国できない日本人をすべて安全に帰国させること、そして戦犯として、あるいは捕虜として外国に拘留されている軍人の釈放の交渉です。ところが中国では終戦とともに内戦が起き、一方日本はアメリカに占領され、残留邦人の問題は放置されたま …
李徳全衛生部長がモナコに向けて出発する前、周恩来から「日本代表団の島津団長と接触せよ」という指令を受けていました。周恩来は中国残留邦人、B級、C級戦犯の帰国支援を、正常化を目指す政府間交渉の突破口にしたかった。これは中国が本気で日本との正常化を望んでいるという日本政府へのシグナルでした。しかし日本政 …
交渉は順調に進み、残留邦人1000名を乗せた第1船、興安丸が舞鶴に着いたのは53年3月です。その後、54年まで帰国者全員2万9000余名が無事に帰国しました。54年8月には日本のB級、C級戦犯の生きている417名が全て釈放され無事に帰国しました。
日本の世論は中国政府と中国赤十字会に対する感謝で沸騰しました。この空気の中で、衆議院は中国の赤十字訪日団を招請するという決議を満場一致で採択しました。参議院も同じ決議をしました。その結果、李徳全を団長、廖承志を副団長とする中国赤十字会訪日団が54年10月訪日しました。
中国の周恩来外交は非常に冴えていました。54年6月、周恩来はインドのネルーと共に「平和五原則」を発表しました。55年4月には、当時の非同盟の代表的な指導者、インドのネルー、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノなどと共に、第一回アジア・アフリカ会議をインドネシアのバンドンで開催し、成功させています …
56年、B、C級戦犯以外の、中国に拘留されていた戦犯・捕虜1062名を中国はすべて釈放、帰国させました。55~57年、文化、芸術、スポーツ、医学、科学等幅広い日中交流が実現しました。中でも、市川猿之助の歌舞伎訪中と、梅蘭芳の京劇の訪日は両国の国民感情に非常に良好な影響を与えました。
中国政府が行わなければならなかったもう一つのことは、中国の民衆の感情にどう対処するかということです。当時は戦争が終わったばかりで、民衆の中に渦巻いていたのは「我々はやっと独立した。これから強くなって、あれだけ酷い目にあった日本に仕返ししてやるぞ」という感情でした。周恩来は「我々は数限りない会議を開い …
この点に関して私見ですが、これは大変ありがたいことだと思いますが、我々日本人にとって、あの戦争は軍部がやったもので、日本の国民も犠牲者だと片付けて良いものか、当然主要な責任は当時の軍部、当時の政府にあります。しかし、当時の文化界、スポーツ界、メディアは戦争に協力しなかったのか。戦後の日中友好運動は中 …