【講演録】「戦後日中関係史」(後編)(西園寺一晃)

~日中国交正常化への道のり、冷戦下の各国の複雑な思惑を紐解く [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「戦後日中関係史」(後編)(西園寺一晃)

■反日正常化を目指す中国

 民間組織の活躍で在留邦人の帰国が進む

1950年代初期、中国は対日正常化を目指す方針を決めていました。ただそれには二つの大きなネックがありました。1つは日本政府がそれに応じるかどうか。2つ目は、日本に恨みを持つ中国民衆の国民感情。これをどう変えていくかでした。

1950年10月に当時の日本の世論が大騒ぎすることが起こりました。モナコで行われた「世界赤十字総会」で、中国代表団の団長・李徳全(中華人民共和国衛生部初代部長、中国赤十字会会長)が日本代表団の島津忠承団長を訪ねました。この人は戦前の華族で公爵、日本赤十字社名誉総裁です。李徳全は島津に大変なことを告げたのです。戦争の結果、中国に取り残された残留邦人3万人、及びB級、C級戦犯をすべて釈放して日本に安全に帰国させる、これを全力で支援するということです。

戦後、日本政府が真っ先にやるべきだったのが、戦争の結果、外地に取り残された、帰国できない日本人をすべて安全に帰国させること、そして戦犯として、あるいは捕虜として外国に拘留されている軍人の釈放の交渉です。ところが中国では終戦とともに内戦が起き、一方日本はアメリカに占領され、残留邦人の問題は放置されたままでした。そして中国には中華人民共和国が成立しました。しかし冷戦化、アメリカの影響下にある日本は対中国、対ソ連、対東側陣営の防波堤にされました。中華人民共和国を承認せず、内戦で敗れ、台湾に逃れアメリカの第七艦隊に保護された国民党政権を中国の唯一正統政権として認め、平和条約を結んだのです。つまり日本にとって、中華人民共和国は存在しないのでした。

李徳全衛生部長がモナコに向けて出発する前、周恩来から「日本代表団の島津団長と接触せよ」という指令を受けていました。周恩来は中国残留邦人、B級、C級戦犯の帰国支援を、正常化を目指す政府間交渉の突破口にしたかった。これは中国が本気で日本との正常化を望んでいるという日本政府へのシグナルでした。しかし日本政府は動けませんでした。中国と交渉すれば、中国を認めたことになります。動いたのは日本赤十字会、日中友好協会、日本平和連絡会、3つの民間の組織です。この3団体が相談し、残留邦人の帰国の交渉のため、北京に交渉団を送りました。中国政府は受入れを表明しました。困ったのは日本政府です。この交渉団が北京に行くためにはパスポートが必要ですが、承認してない国に行くパスポートを日本政府が発行するかどうかです。しかしさすがに世論の圧力と人道主義に鑑みて、日本政府は初めて中華人民共和国へ渡航するための正式な旅券を発行しました。日本政府が出した、戦後初の「中華人民共和国」と明記した公文書です。

交渉は順調に進み、残留邦人1000名を乗せた第1船、興安丸が舞鶴に着いたのは53年3月です。その後、54年まで帰国者全員2万9000余名が無事に帰国しました。54年8月には日本のB級、C級戦犯の生きている417名が全て釈放され無事に帰国しました。

日本の世論は中国政府と中国赤十字会に対する感謝で沸騰しました。この空気の中で、衆議院は中国の赤十字訪日団を招請するという決議を満場一致で採択しました。参議院も同じ決議をしました。その結果、李徳全を団長、廖承志を副団長とする中国赤十字会訪日団が54年10月訪日しました。

中国の周恩来外交は非常に冴えていました。54年6月、周恩来はインドのネルーと共に「平和五原則」を発表しました。55年4月には、当時の非同盟の代表的な指導者、インドのネルー、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノなどと共に、第一回アジア・アフリカ会議をインドネシアのバンドンで開催し、成功させています。この会議の旗印は反帝国主義、反植民地主義、民族独立でした。日本もこの会議に代表団を送っています。各国は元首、あるいは首相が参加しましたが、日本は経済審議庁(後の経済企画庁)長官・高碕達之助が団長でした。高碕は日本出発前に「バンドン会議で決して中国代表団と接触しないこと」という指示を受けていました。ところが高碕はバンドンに行くと、公然と中国の周恩来と会談しました。

56年、B、C級戦犯以外の、中国に拘留されていた戦犯・捕虜1062名を中国はすべて釈放、帰国させました。55~57年、文化、芸術、スポーツ、医学、科学等幅広い日中交流が実現しました。中でも、市川猿之助の歌舞伎訪中と、梅蘭芳の京劇の訪日は両国の国民感情に非常に良好な影響を与えました。

中国政府が行わなければならなかったもう一つのことは、中国の民衆の感情にどう対処するかということです。当時は戦争が終わったばかりで、民衆の中に渦巻いていたのは「我々はやっと独立した。これから強くなって、あれだけ酷い目にあった日本に仕返ししてやるぞ」という感情でした。周恩来は「我々は数限りない会議を開いて、いろいろな検討をしてきた。その結果、日本の一部の軍国主義者と善良な国民を分けること、そして日本の善良な国民も戦争の犠牲者であり、両国の国民が仲良くすることは両国にとって有利である。アジアの平和にとって不可欠である」と国民を説得しました。

この点に関して私見ですが、これは大変ありがたいことだと思いますが、我々日本人にとって、あの戦争は軍部がやったもので、日本の国民も犠牲者だと片付けて良いものか、当然主要な責任は当時の軍部、当時の政府にあります。しかし、当時の文化界、スポーツ界、メディアは戦争に協力しなかったのか。戦後の日中友好運動は中国のこの論法に甘えて来たのではないか。そして国民自身のあの戦争に対しての反省が足りないのではないかということです

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Online講演会「戦後日中関係史」(前編)(西園寺一晃)

米ソ核戦争は一触即発だった~冷戦下の日中関係史 [ 特集カテゴリー ] ,

Online講演会「戦後日中関係史」(前編)(西園寺一晃)

戦後の日中関係についてこれからお話したいと思います。この間の日中関係について研究する学者は少なく、歴史的に不確定な部分が多くあります。日本側と中国側両方を合わせた研究が不可欠ですが、共同研究はいまだにありません。

特に中国の幾つかの歴史問題は、まだ残ったままです。例えば中ソ論争、文化大革命、林彪事件、毛沢東の評価などです。いずれ、中国自身がきちんと総括しなければならないと思いますが、まだその時期ではありません。

■第2次世界大戦の終結と当時の状況

日本の教科書では、太平洋戦争は真珠湾を皮切りに日本とアメリカが戦争した、と教わります。しかしこれは「アジア太平洋戦争」というべきだと思います。日本軍国主義の朝鮮、中国、アジアへの侵略と日米戦争には質的な違いがあります。

1945年、ホットな戦争の終結は、クールな戦争=冷戦のスタートでした。世界は主に3つに分かれます。1つはアメリカを中心とする資本主義陣営(西側陣営)、もう1つはソ連を中心とする社会主義陣営(東側陣営)、そしてもう1つは、この両方とも同盟を結ばない、非同盟の第三世界です。

世界には、2つの政治制度の国が存在し、対立していました。資本主義と社会主義です。資本主義はかなり長い歴史がありますが、社会主義は新たに生まれた政治制度です。

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