見当たり捜査の武器は眼力である。写真を頼りに雑踏から手配者をあぶり出す。何度も見ているうちに頭の中で顔が立体映像になり、旧知の知り合いのように人波の中でも判別できるようになる。異能の刑事たちは400人の特徴を頭に叩き込み、ターミナル駅や繁華街に立ち続けた。トラップにかかった獲物は数知れない。だが、彼らは今、主役の座から引きずり降ろされようとしている。現場百回。刑事の執念に支えられたドラマは昔話になり、デジタル化の波は捜査現場の光景を一変させた。
平成事件簿 三沢 明彦 [ 特集カテゴリー ] 平成事件簿
見当たり捜査の武器は眼力である。写真を頼りに雑踏から手配者をあぶり出す。何度も見ているうちに頭の中で顔が立体映像になり、旧知の知り合いのように人波の中でも判別できるようになる。異能の刑事たちは400人の特徴を頭に叩き込み、ターミナル駅や繁華街に立ち続けた。トラップにかかった獲物は数知れない。だが、彼らは今、主役の座から引きずり降ろされようとしている。現場百回。刑事の執念に支えられたドラマは昔話になり、デジタル化の波は捜査現場の光景を一変させた。
平成事件簿 三沢 明彦 [ 特集カテゴリー ] 平成事件簿
貧困にあえぎ、希望を失った者たちのルサンチマン(強者への憤怒)が哀れな男をダークヒーローに祭り上げる。絶望と孤独に打ちのめされ、男は殺人者となり、ピエロ姿のサイコパスに変身した。自分の存在に意味があるのか。根源的な問いに絡めとられ、自尊感情の喪失を闇の世界で埋めるしかなかったのだろう。
大ヒットの米映画「ジョーカー」はコミックヒーロー・バットマンの宿敵誕生を描いている。だが、単なる娯楽作品ではない。憎しみの物語の重さに押しつぶされそうになりながら、スクリーンにエンドロールが流れた時には疲労感さえ覚えていた。
平成事件簿 三沢 明彦 [ 特集カテゴリー ] 平成事件簿
産婆に聞け――。
警視庁捜査一課に伝わる格言だ。
「落としの〇〇」と称えられる名刑事に取り調べの極意を尋ねた時、彼は即答した。そんなものはない、と。自分の足で過去をたどり、相手の人生を頭に叩き込む。そのうえで、ホシ(被疑者)に向き合い、勝負時を見定めて、本人も覚えていない出来事をぶつける。「そこまで……」とホシは観念し、完落ちするという。
実家の柱に幼い頃の背比べの傷跡を見つけた時は、「落ちる」と確信したそうだ。この世に生を受けた日まで遡り、相手を知る。それが先輩から教えられたすべてなのだという。
平成事件簿 三沢 明彦 [ 特集カテゴリー ] 平成事件簿
地下鉄サリン事件の衝撃はすさまじかった。平成7年(1995年)3月20日朝、都心の地下鉄に猛毒サリンが撒かれ、13人が死亡し、負傷者は6,300人にのぼった。警視庁はXデーを22日に定め、オウム真理教の一斉捜索に向けて水面下で準備していた。だが、教団に先手を打たれた。延期やむなしの声が上がったものの、警視総監の井上幸彦は首を縦に振らなかった。脅しに屈したことになる、と。トップの決断は揺るがず、警視庁は22日朝、「カナリア先頭」の号令とともに、山梨県上九一色村の教団施設に突入した。
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その年の暮れ、私は迷っていた。打つべきか、打たざるべきか。なかなか決断できなかった。
平成6年(1994年)6月の松本サリン事件では8人の命が奪われ、半年経っても第一通報者が重要参考人とみられていた。当時私は警察庁キャップ。水面下では極秘捜査が進行していることを掴んでいた。長野県警の刑事がサリン原材料物質を追跡するうちに想定外の敵と遭遇したのだ。オウム真理教である。県警が太刀打ちできる相手ではない。警察庁主導の捜査となり、山梨県上九一色村の焦げた土を鑑定することになった。11月半ば、異臭騒動の場所からはサリン残留物質が検出された。教団ダミー会社が原材料物質を大量購入していた事実も浮かんだ。
平成事件簿 三沢 明彦 [ 特集カテゴリー ] 平成事件簿
事件記者時代、警察担当のサツ回りの頃、殺しが起きれば、流しか敷カンのどちらか、だった。敷カンは面識犯。被疑者と被害者の関係が濃密な濃カンならスピード解決だが、希薄な薄カンや流しなら難航する。濃カンの動機は恨みか、金銭トラブル、痴情のもつれとシンプルだった。
しかし、時代とともに、様々な要因が絡み合うようになった。年間約1,000件の殺しの9割は敷カン。その6割は家族犯罪だ。今や殺人の半数以上は家庭の中で起きている。DV、親や子殺し、介護殺人……。児童虐待死は毎年50件前後。先の国会で、体罰を禁止する改正児童虐待防止法が成立したが、悲劇の連鎖を断ち切ることは容易ではない。
平成事件簿 三沢 明彦 [ 特集カテゴリー ] 平成事件簿
既視感があった。惨劇を目の当たりにし、私たちは忌まわしい記憶を封印し、目を背け続けてきたのではないか。そして今、20年近い歳月を経て、暴風が吹き荒れた時代の悪夢がよみがえったのである。
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「令和」の新時代が幕を開けた。
30年前の1989年1月7日の朝は皇居で目覚めた。昭和天皇の闘病は111日に及び、時代の終焉が迫っていた。宮内庁2階の記者クラブに泊まり込み、簡易チェアでウトウトした頃、卓上電話が鳴った。壁の時計を見上げると、午前5時を回っていた。
「侍医長が家を飛び出しました」
昼夜張りついていた記者からの一報だ。昭和最後の長い1日が始まった。
藤森昭一宮内庁長官が「午前6時33分、崩御あらせられた」と発表し、官邸では小渕恵三官房長官が新元号を「平成」と読み上げた。半旗の向こうに、青空が広がっていた。
昭和天皇の開腹手術を機に宮内庁担当となった新参記者にとって、皇室は威厳に満ち、神秘に包まれていた。まず驚いたのは、宮中言葉がごく普通に使われていたことだ。