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「ロヒンギャ問題解決への私案」(小島正憲)

小島正憲氏のアジア論考
「ロヒンギャ問題解決への私案」

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

1.ロヒンギャ問題の原因

ロヒンギャ問題には、ミャンマーおよびバングラデシュ両国に関わる遠因と近因があるが、現在、ロヒンギャが遭遇している苦境は近因によるところが大きい。しかもそれは、民主主義の根幹に関わるものだけに、両国も国際社会も、総力を挙げてこれを解決せねばならない。

(1)遠因
バングラデシュとの国境沿いに位置するミャンマーのラカイン州は、きわめて複雑な歴史的背景を持っている。

ミャンマーの先住民族であるアラカン族は、15世紀、ミャンマーとバングラデシュの国境地域にアラカン王国を築き支配していた。現在のバングラデシュ南東部のコックスバザールからチッタゴンまでが、そのアラカン王国の支配地域であった。

そのころ現在のバングラデシュ南東部に住んでいたイスラム教徒のロヒンギャ族は、アラカン王国に従者や傭兵として雇われたり、また商人として頻繁に往来し、国境周辺に定住するようになった。また逆にミャンマーの仏教徒も、チッタゴン周辺に進出した。

つまり当時から1966年にナフ川が正式に国境と決定されるまで、ミャンマーとバングラデシュの国境はあいまいであり、バングラデシュ人も、アラカン族も、ロヒンギャ族も、自由に往来し、両国にまたがって住んでいたのである。

19世紀後半、英国がミャンマーとバングラデシュの両国に侵入し、その植民地政策の一環として、ラカイン州の農地がチッタゴンからのベンガル系イスラム教徒の労働移民にあてがわれた。この頃から、国境周辺地帯に、仏教徒対イスラム教徒という対立構造ができあがり、英国はそれを統治のためにうまく利用した。

さらに1879年にはバングラシュに深刻な飢餓が発生し、ベンガル人の多くがビルマへ移住した。1942年、日本軍の進駐によって英国がこの地から撤退した。

日本軍は仏教徒を武装させ、英国軍が武装させたイスラム教徒と戦わせた。失地回復を合い言葉に仏教徒のアラカン族は、イスラム教徒のロヒンギャ族の迫害と追放を開始した。この経過から見れば、ラカイン州の民族対立の遠因は、英国と日本が作ったと言っても過言ではない。

日本が敗退すると、ラカイン州に英国軍が再侵攻し、ベンガル系移民の勢いが復活した。そのときロヒンギャ族を含むイスラム系の人たちは、東パキスタンへの帰属を求めた。しかしそれが拒絶されたためミャンマーに残り、民族独立の機会を探った。

それはミャンマーのウー・ヌー政権によって一時的に容認されたが、1982年、少数民族弾圧を強行したネ・ウィン政権下の「市民権法」で、ロヒンギャ族は正式に非国民であると規定され、国籍が剥奪された。このとき、約30万人のロヒンギャ族がバングラデシュに逃れた。

さらに1988年、アウン・サン・スー・チー女史らの民主化運動をロヒンギャ族が支持したため、軍事政権はラカイン州に7~8万の軍隊を投入し、ロヒンギャ族を弾圧した。ロヒンギャ族は家財や食料、家畜を掠奪され、反抗すれば暴行を受け、場合によっては殺害されることもあった。それに耐えきれず、多くのロヒンギャ族が1991~92、96年~97年の2度にわたって、国境を越えてバングラデシュに逃げ込んだ。

当時、世界最貧国の一つであるバングラデシュにその難民を受け入れる余裕はなかったが、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)や国際NGOなどが、難民キャンプなどを設営し、ひとまずその救済に当たった。

しかしながらバングラデシュにとって、ロヒンギャ族難民の存在は、長期化するにつれて次第に迷惑な存在となっていった。その上、難民流入の結果、物価高、食糧不足、エネルギー不足なども起こり、また難民にだけ各種の組織から援助があり、逆に地元住民にはなんの恩恵もないため、地元住民との摩擦が大きくなり、困ったバングラデシュ政府は、2004年、ロヒンギャ族を不法移民としてミャンマーへの送還を実施するようになった。

行き場を失ったロヒンギャ族の一部は、小船でタイやマレーシアを目指した。現在では、サウジアラビア・インド・パキスタン・マレーシアなどに、約100万人が散らばっているという。最近、タイがロヒンギャ族を難民として認めずミャンマーに強制送還し、大きな問題となった。

(2)近因
私は、ミャンマーでは2015年11月の総選挙が、バングラデシュでは2014年1月の総選挙が、共にロヒンギャ問題の近因となっていると考える。

2000年代始めには、ミャンマー国民の間で、ロヒンギャ問題は大きな社会問題として認識されることはなかった。しかし2000年代後半、テイン・セイン大統領が2015年11月に総選挙を行うことを明言し、そこで勝利するための布石を着々と打ち始めたことにより、それは顕在化させられたと言っても過言ではない。

テイン・セイン大統領は、国会の中に軍人議席枠を設けるという規定を憲法に盛り込むなどしたが、それでも総選挙でスー・チー氏に勝つためには不十分だと判断し、2012年6月、25年の刑で服役中であった仏教徒過激派のウィラトゥ氏を釈放した。ウィラトゥ氏はただちに行動を開始し、その後、各地でイスラム教徒の迫害、襲撃が目立ち始めた。

国軍側は仏教徒とイスラム教徒との対立を煽り、「スー・チー氏が少数民族やイスラム教徒擁護の姿勢を示せば仏教徒の反感を買う、示さなければ国際世論から糾弾される」という窮地に追い込むことを画策したのである。

私の工場は、ヤンゴンから車で3時間半ほど北へ走ったところにあるが、その周辺にもイスラム教徒は住んでいる。2010年ごろまでは、仏教徒とイスラム教徒が隣り合わせで仲良く住んでいた。ところが2013年になって、突如として、ささいなことから、仏教徒とイスラム教徒の間で騒動が起こった。

もともと私の工場の土地は、韓国人企業家が買う予定になっていたのだが、彼はこの騒動に恐れをなしてキャンセルしてしまった。困った村の役人が、私の知人に頼み込んで来たので、私がそれを購入することになったのである。

したがって私は最初から、その地では宗教融和が必要なことがよくわかっていたので、工場敷地内の四隅に、パゴダ、モスク、キリスト教会、お稲荷さんを建てようと考え、村政府にそれを提言した。しかしそのときは、彼らからは変わり者扱いされ、同時に「モスクの建設は厳禁」と命じられた。

それでも私の工場は、外資企業の中では、ラカイン州にはもっとも近い場所にあり、ロヒンギャ問題への解決に一役買うために馳せ参じる絶好の位置にある。私の視野には、当初からそれも入っていた。

国軍側の策動にもかかわらず、2015年11月の総選挙は、スー・チー氏率いるNLDの圧勝に終わった。しかしながら国軍側は、2020年の次期総選挙をにらみ、ラカイン州におけるロヒンギャの騒動につけ込み、軍事力を行使することによって、大量のロヒンギャをバングラデシュへ脱出させ、再びスー・チー国家顧問を窮地に立たせようとした。

その結果、国際世論はスー・チー氏の無作為を非難し、ノーベル平和賞の返上や経済制裁さえもちらつかせるようになった。またミャンマー人の大多数を占める仏教徒とロヒンギャを始めとする少数民族との板挟みとなり、身動きの取れないスー・チー国家顧問の人気は、だんだん下降してきた。まさに国軍側の企図は功を奏してきたと言えるだろう。

スー・チー国家顧問がラカイン州のロヒンギャ迫害現場を、国際機関や海外ジャーナリスに開放しないことも、このロヒンギャ問題を複雑怪奇なものにしてしまっている。

ロヒンギャの中には、「金をもらって脱出を装っている輩もいる」という情報もある。さらにこの地では、ロヒンギャ難民を狙うタイやマレーシアの人身売買組織が暗躍しているという。また直近では、渦中のマウンドーで大量の覚醒剤が押収されたという情報もある。

いずれにせよ、それらは藪の中であり、スー・チー国家顧問はこの地域をジャーナリストに開放し、真実を明らかにさせるべきである。先日、私もシットウェイまでは入れたが、マウンドーにはその行動を制せられて行けなかった。

バングラデシュにおいては、2012年10月、ラム市においてイスラム教徒過激派の仏教寺院焼き打ち、仏教徒襲撃が行われた。また当時、バングラデシュでは2014年1月の総選挙を前にして、名物のハルタルの嵐が吹き荒れていた。これらの詳細については、私が現場検証後、それを短信として発信してきたところでもある。

ことにラム市でのイスラム過激派の襲撃は、死人こそ出なかったが、数カ所の仏教寺院が徹底的に破壊・掠奪されている。当時、これは、ミャンマーにおける仏教徒過激派のイスラム教徒襲撃に対する報復だと言われた。ここでも現地では、その当日まで、イスラム教徒と仏教徒が仲の良い隣人として暮らしていた。

つまりこの事件は、2014年1月の総選挙を前にして、バングラデシュ民族主義党(BNP)やイスラム過激派政党が、ハシナ首相率いるアワミ連盟のロヒンギャ問題やミャンマーにおけるイスラム教徒迫害への弱腰を糾弾し、自らに有利な状況を作り出そうとしたものと考えられる。しかしその画策も空しく、2014年の総選挙では、BNPのボイコットもあって、アワミ連盟の圧勝となった。

その後、ハシナ首相はロヒンギャのためにハチヤ島を開放するなどの対策を提案したが、それは不調に終わっている。

私はハシナ首相のこのロヒンギャ対策に呼応して、ハチヤ島に縫製工場を造ろうと思っていた。私のダッカの工場は、順調に操業しており、ハチヤ島の新工場を支援する余力が備わっていたからである。しかし現地へ立地調査の計画段階で対策そのものが中止になり、私の計画もはかなく費え去った。

その後、2017年8月からのロヒンギャの大量流入に対して、バングラデシュにはそれを受け入れるだけの経済力もなく、また国際機関からの支援も、それが地元住民との軋轢を生む結果ともなり、ハシナ首相は決定的な解決策を示せないでいる。しかも2019年1月の総選挙を前にして、BNPやイスラム過激派は、ハシナ首相のロヒンギャ問題への無策やミャンマーへの弱腰を非難し、それを自陣に有利に展開しようとしている。

2017年6月には、チッタゴン丘陵のランガマティのチャクマ族(仏教徒)部落が何者かに襲われ、300軒ほどが焼かれ、老女が一人焼け死んだ。当初、それはロヒンギャによるものだという情報が流れた。

私はすぐに、「これはフェイクニュースだ」と思った。なぜなら、チッタゴン丘陵周辺にはロヒンギャは住んでおらず、コックスバザールから長駆してチャクマ族を襲う可能性も動機もないからである。

私は、さっそくこの情報の真偽を確かめるために、チッタゴン丘陵、とくにチャクマ族が住んでおり、村が焼き打ちにあったというランガマティに行ってみようと考えたが、この地への外国人の立ち入りが禁止されていたので、それを断念した。

しかし幸い、わが工場にチャクマ族出身の日本語通訳が在籍しており、彼から詳しいことを聞くことができたので、それを短信として各位に発信しておいた。チャクマ族が襲われたのは事実だったが、犯人はベンガル人移住者だった。

問題は、「ロヒンギャが襲撃」という見出しで、これがネットなどで流されたことである。私は、これはハシナ首相がこの地域の不安定さを解決できないことにつけ込んで、ロヒンギャに罪をなすりつけ、ハシナ首相の無力さを喧伝しようとする輩の発した「フェイクニュース」だったと考える。

今後、バングラデシュでは、2019年1月の総選挙を前にして、BNPやイスラム過激派が、大がかりなハルタルを仕掛け、ロヒンギャ問題へのハシナ首相の無策や弱腰をあげつらい、政権の転覆を画策するだろう。

つまり、ミャンマー・バングラデシュ両国にとって、ロヒンギャ問題が共に民主主義の根幹とも言える選挙における政争の具として利用されており、それが大きな近因となっているのである。

2.国際機関やNGOの関与の功罪

以前から、バングラデシュのコックスバザールやラムの周辺には、ロヒンギャ救援のためのキャンプがあり、そこに国際支援の手が差しのべられている。最近では、日本を始めとして各国政府からの資金援助も表明されている。

またこの数年、ミャンマーのラカイン州シットウェイには、ロヒンギャ支援のためのNGO団体が世界各国から押し寄せ、大量の資金も流入している。これらの国際機関や各国政府、各種NGOの支援活動は、ロヒンギャやこの地域の両国住民に大きな助けとなっていることは否定できない。

しかし各国政府やNGOなどの支援活動は、当該地域の住民の自立のために、真に役立つ方向でなされなければならない。救援資金や物資の提供は一時的なものであり、抜本的な解決にはならず、むしろ自立を阻害することもある。支援の長期化や常態化は、ロヒンギャやこの地域の住民たちが、援助慣れし自堕落な生活を送ることを助長してしまう面がある。

またNGO団体は玉石混交であり、ロヒンギャ問題を利用して、そこから利益を求めようとして現地に群がる組織も少なくない。これらの国際機関や各国政府、NGOなどの支援活動の否定的側面は、ロヒンギャ問題特有のものではなく、世界各国の紛争地でも見られる共通現象である。

数年前、私はチベットのダライ・ラマが亡命しているインドのダラムサラにおいて、その典型を見て、その意を強くした。ダラムサラでは、ダライ・ラマと取り巻きの高僧たちが、世界各地から寄せられる多額の寄付金で、多くのインド人を使用人として使い、きわめて優雅な生活を送っていたのである。

また数か月前、私はミャンマーのシットウェイにおいて、ロヒンギャの人々の一部が、取材に訪れたジャーナリストに、自らが被写体になることによって、金品をせびる様子を見た。また生活支援活動に関わるNGO組織の人たちが、その地で優雅に暮らしており、地元民から嫉妬の目を向けられている現状も確認してきた。

また当然のことながら、紛争地域は貧困地域であることが多く、その地域の特定の人々にのみ援助が与えられると、他の住民との間に軋轢を生み、問題をさらに複雑にしてしまうことが多い。

ロヒンギャを救済するためには、国際的な支援活動が必要不可欠である。しかし、それが長期化・常態化すれば、そこには必ず、支援する側と支援を受ける側の双方に腐敗や堕落が発生する。

3.経済制裁は逆効果 

欧米政府は、スー・チー国家顧問がロヒンギャ対策に消極的であることに業を煮やして、経済制裁などの対策を講じようとしている。しかし最近の開発途上国の経済発展には、外資の進出が不可欠であり、経済制裁を課せばミャマーへの各国の民間企業の進出が鈍くなる。

経済制裁は、ミャンマー経済を停滞させる。それはスー・チー国家顧問の人気を低下させることにつながり、その結果は次回の総選挙において国軍側を利することになる。それこそ国軍側の思う壺であり、せっかくの民主化が、ミャンマーでも後退させられることになる。ジャスミン革命に続き、サフラン革命も失敗となる。したがって欧米政府を始めとする各国は、経済制裁などの発動を手控えるべきである。

4.ロヒンギャ問題解決の前提

(1)寛容と利他の精神の発揚

人類は、多くの犠牲を伴いながら、現時点で最善と思われる民主主義という統治システムに到達した。しかし、民主主義というシステムは、寛容と利他の精神の裏付けがなければ、退廃し衆愚政となり独裁者を産んでしまう。

民主主義体制下で、民衆が自由を謳歌し、勝手に利己的な主張を叫び、指導者がその劣情に迎合すれば、容易に多数を獲得することができ、そこに独裁者が出現する。そして必ず少数者を排除することになる。かつて民主的なワイマール憲法下のドイツからヒットラーが産まれたのがその実例である。

ミャンマー国民とスー・チー国家顧問が率いるNLDは、2015年の選挙において、長年の雌伏を経て軍を凌ぎ、限定付きではあるが念願の民主化に成功した。巷では、それをサフラン革命と名付け、褒め讃えている。

しかし、民主化後のミャンマー国民の生活は、期待されていたほどには向上せず、昨今ではスー・チー国家顧問への失望の声も上がりつつある。それはミャンンマー国民が、いっせいに利己的な主張を叫びはじめたため、国民間の利害の対立が巻き起こり、それにスー・チー国家顧問が有効に対処しきれていない結果でもある。

ロヒンギャ問題は、国軍側がそこにつけ込み、ミャンマー国民の大多数を占める仏教徒の劣情を背景に、仏教徒過激派をたきつけ、ロヒンギャの襲撃、迫害、排除を行ったと考えるのが、順当である。

この事態を前に、スー・チー国家顧問は、仏教徒への配慮から,国軍を制止し、ロヒンギャを救済する政策を打ち出しかねている。国軍側は、国内・国際両面において、これを利用して、スー・チー政権を転覆させようとしている。この策動に乗せられて、国際的にも、スー・チー国家顧問への批判が殺到し、経済制裁なども検討されている。

ミャンマーにおいては、国軍や仏教徒過激派はイスラム教徒およびロヒンギャへの襲撃をただちにやめるべきである。ミャンマー国民は寛容と利他の精神を発揮し、スー・チー国家顧問が率いるNLDを支持し、サフラン革命の成果として勝ち取った民主主義を擁護し発展させなければならない。

スー・チー国家顧問は、ロヒンギャをはじめとする少数民族問題の解決のため、国民の劣情に迎合するのではなく、断固として国軍の行動を制し、仏教徒過激派の行動を諫め、イスラム教徒やロヒンギャとの共存を志向すべきである。そうしなければ、民主化の果実は成熟しないうちに、再び国軍によってもぎとられてしまうに違いない。

国際世論も、苦闘するスー・チー国家顧問に対し、いたずらに非難をくり返すだけでなく、ミャンマー経済を向上させ、たとえ少しでもミャンマー国民が民主化の成果を感得できるような具体的な支援を行うべきである。次期総選挙は、2020年である。それまでスー・チー国家顧問が率いるNLDが、政権を維持できるかどうかは、このロヒンギャ問題の対処の如何にかかっていると言っても過言ではない。

バングラデシュにおいては、イスラム教徒過激派は仏教徒のへ襲撃をやめ、ロヒンギャへの寛容と利他の精神を発揮し、ロヒンギャに一時的な居住地を提供すべきである。ましてやそれを政争の具とすべきではない。

たしかに8月以降で、60万人を越すロヒンギャがバングラデシュ側になだれ込んできているのだから、バングラデシュ国民としてはそれを容認し難いだろう。それでもミャンマー側での懸命の努力が続けば、ロヒンギャの帰還は解決不可能ではない。

それまで各国からの援助も受けながら、逃げ込んできたロヒンギャを受け入れるべきである。かつてバングラデシュ人も、パキスタンから独立するとき、インドの安全な避難所に逃げ込み、そこで9か月間雌伏し、再起したではないか。

ハシナ首相は、今までロヒンギャ問題解決へのいろいろな提案をしてきたが、不調に終わっている。しかも今回は、想定外の人数のロヒンギャがなだれ込んで来ており、彼らを早期に帰還させるには、ハシナ首相の小手先の解決策では無理だろう。国際機関やバングラデシュ国民が一体となって、抜本的な解決への道に踏み出すべきである。

バングラデシュ民族主義党(BNP)やイスラム教徒過激派は、この機を利用して、苦境に立たされているハシナ首相とアワミ連盟を追い詰めようとしてはならない。国難とも言えるこの事態を、寛容と利他の精神を発揮して、共に協力して乗り切るべきである。

2019年の総選挙を前にして、民主主義の国を標榜しているバングラデシュ国民は、この事態を政争の具にさせるべきではない。この事態を政争の具にすることは、民主主義の自殺行為である。

(2)自力更生の精神の発揚

一般に虐げられ貧しい人々は、勤勉であり実直であると思われている。しかし非難を恐れずに言うならば、勤勉でなく実直でないから、結果として貧しく虐げられている人々も少なくない。私は今までの人生で、そのような例を数多く見てきた。

日本では、かつて、わが社の従業員さんの中に、サラ金に引っ掛かった人があり、私は返済資金を融通したり、日常生活の指導をしてやったが、結局、彼は更正せず、サラ金地獄から這い出ることはできなかった。彼はそのうち、私が融通したお金を踏み倒し、姿を隠してしまった。当時、このような例は、巷でも数多く見られた。

中国では、あるとき、私はわが工場の門前に、田舎から出てきて、わが工場へ入ることを懇願する姉妹が座り込んでいる場面に出会った。すでに定員一杯だったため、入社を断られたからだ。彼女たちは夕暮れになっても、行き場所がなく、その場を動かなかった。私は工場長に頼み込んで、彼女たちを採用し、女子寮に入らせた。ところが1週間後、その姉妹は同室の仲間たちの財布を盗んで、姿を消してしまった。私は工場長から、こっぴどく叱られた。

バングラデシュでは、貧困女性の救済を目的とするNGOから、田舎に縫製工場を造って欲しいという依頼を受けた。まず私はその組織から、わが工場に幹部候補生として3人の女性を受け入れた。彼女たちは夫に虐待されそのNGOに駆け込んだり、幼少期に捨てられNGOで育てられた女性だという。

私は彼女たちに、「縫製工場を経営するためには、まず技術を習得しなければならない。それはアイロン作業や針仕事などの下場から初めて、ミシンが上手く踏めるようになるまで、最低でも5年間かかる」ということをしっかり言い聞かせた。彼女たちは、それを納得顔で聞いていた。ところが驚いたことに、その中の一人が、翌日、「寮の部屋が狭い」と言って辞めた。さらに1週間後、もう一人が、「アイロン仕事は疲れる」と言って辞めた。1年後、残る一人も、「この仕事は、私には向いていない」と言って、辞めてしまった。こうして私の貧困女性救済プログラムは、あえなく失敗した。

私はこのような経験をしてきたので、人間を性善としてのみ捉えることには反対である。ロヒンギャの支援に際しても、彼らを性善なる被害者として捉え、支援金のみでこの問題の解決を図ろうとすることには反対である。すでにロヒンギャの中には、各国からの支援に慣れ切って、それに依存し、働かず楽をして生活をしていこうと望んでいる人々も結構いるという。このような自堕落なロヒンギャは支援するに値しない。

ロヒンギャの救済には、ロヒンギャの自力更生の精神を発揚するようなプログラムが必要なのである。

5.国連主導でラカイン州の経済開発を

ミャンマー・バングラデシュ両国民が利他と寛容の精神を発揮し、ロヒンギャおよびラカイン族が自力更生を誓うならば、この地域の経済水準の向上は可能であり、結果としてそれはロヒンギャ問題を抜本的に解決することになる。

この地域をミャンマーの主権を侵さない範囲で、なおかつ一定期間の後、経済水準が高くなった段階で、その管轄権をミャマー政府に戻すことを前提にして、国連の共同管理とし、ここに世界中の善意の起業家を呼び込めば良いのである。

すでに中国がチャオピューに進出し、石油や天然ガスの基地を建設し、そこから昆明までパイプラインを敷設し、工業団地の建設に着手している。インドもシットウェイに深海港を築き、そこを東北インド7州との貿易拠点にしようとしている。その結果、ラカイン州が中国とインドの覇権争奪地域のようになっている。したがって、その弊害を避けるためにも、この地域を国連主導で開発することが望ましいと考える。

国連主導の経済開発構想には先例がある。1990年代初頭には、国連開発計画(UNDP)が主導して、北東アジアの図們江地域の経済開発が行われた。それは、新しいポスト冷戦時代の北東アジアでの多国間協力のモデルとして構想され、ロシア・中国・北朝鮮の協力による図們江地域の経済開発が目的とされた。その対象地域は中国吉林省の琿春市を中心とする延辺朝鮮族自治州、ロシアの沿海州、北朝鮮の羅津・先鋒地域であった。

残念ながら、これは構想倒れに終わったが、もし成功していれば、現在生起している北朝鮮の暴走を食い止めることができていただろう。私は遅ればせながら2005年に中国の琿春市に進出し、UNDPの夢の跡である経済開発区に工場を構え、日本海横断航路の開設などにも尽力し、この構想の再興を試みた。しかし残念ながら、これも徒労に終わった。

国連は、ロヒンギャ問題の抜本的解決のために、ミャンマーのラカイン州を少数民族紛争のモデル解決地域として、その経済開発に取り組むべきである。この地域の経済開発に成功しなければ、ここはイスラム教徒過激派の温床となり、将来に大きな禍根を残すことになるだろう。

ラカイン州に国連主導の経済開発特区を造成し、ここに世界中から善意の企業家を呼び込めば、必ずこの地域の経済は発展する。そうなれば、世界中に散らばり、そこで企業家として成功しているロヒンギャも駆けつけてくることだろう。

日本にも立派に企業を経営しているロヒンギャがいる。また、ロヒンギャを世界各地に、労働者として合法的に派遣し、技術習得後、ラカイン州に戻し、起業させるという方法もある。この地に住むラカイン族にも同等の権利や機会を与えれば、その軋轢を避けることができるだろう。バングラデシュに逃避しているロヒンギャも嬉々として帰還してくるだろう。

私はバングラデシュ、ミャンマー両国に工場を持っているので、ここに国連主導の経済開発特区が造成され、そこから要請が来れば、ただちにその地に進出する覚悟と用意ができている。

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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。