「勝海舟の“罠”」 —勝の“功績”を記した「氷川清話」を究明すると見えてくる真実 [ 特集カテゴリー ]

西郷―鉄舟、理と情の “江戸無血開城の真実” [ 著述家 水野 靖夫 ]

慶喜恭順めぐり対立
理と情
で「朝命」覆す

慶応3年10月14日の大政奉還で徳川幕府が政権を朝廷に返す辺りから、幕末の最後の段階に入ります。同年12月に王政復古、慶応4年、明治元年1月3、4日に鳥羽伏見の戦いが起こり、徳川慶喜は江戸に逃げ帰りますが、1月9日には慶喜追討令が出ます。11日に慶喜は東京に戻ってくるのですが、薩長と戦うか、恭順するかの主戦派と和平派で論争が起こります。結果的には15日に主戦派の最右翼、小栗上野介が罷免され、恭順になりました。2月9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命されます。西郷隆盛はこの参謀です。形の上では宮様がトップにいて実質的には薩長中心の武士が軍の中心となり決めていきます。

2月12日に慶喜は上野の寛永寺に蟄居し、恭順を示すのですが、討幕軍が攻めてきます。結果的に山岡鉄舟が3月9日に駿府で西郷に会って談判をし(「駿府談判」)、話を決めると、3月13、14日に西郷と勝海舟の会談が江戸で行われました。これを「江戸会談」と呼んでおきます。そして西郷が京都に戻って京都の朝廷からの決済を得て、正式に決定します。4月4日に降伏条件を朝廷側が示して4月11日に江戸城を明け渡すという流れです。

徳川側は恭順と決めて降伏することを、嘆願書を送ったり使者を送ったりして、いろいろな人がいろいろなルートから「恭順しているのだから攻めないでくれ」と伝えるのですが、全く相手にされません。この中で鉄舟だけが西郷のところに届くわけです。

3月9日の会談後の「江戸会談」は、様々な降伏条件について徳川方が緩和を求める内容です。ところが西郷は何も決めずに京都まで行って、最終的に朝廷の決済を得て、これで正式に決まるわけです。

実質的に決まったのは「駿府談判」、正式に決まったのは京都。「江戸会談」は何でもないのです。西郷にすれば確認であり、徳川方の勝からすると嘆願をした、という途中経過です。結果的に4月4日に京都で決定したものが言い渡され、徳川方は11日に江戸を明け渡して慶喜は水戸に行きます。

鉄舟が西郷のところに行くためには、先方は川崎辺りまで来ているので、官軍が来る中を突っ切って行きました。これは並大抵なことではありません。途中では鉄砲を撃たれたりしました。実は鉄舟の横には、鉄舟の友人、益満休之助という薩摩藩士がいて、鹿児島弁で擦り抜けたこともありました。

まず鉄舟が西郷に会ってこう言います。「先生、朝敵征討の御旨意は是非を論ぜず進撃する事ですか、それでは慶喜が恭順謹慎しても家来には脱走して反逆を計る者もあらわれます。慶喜は公正無二の赤心をもって君臣の大義を重んじていますが、それが中々朝廷に徹しません。そこで拙者が大総督宮に言上に参上したのです」。こう鉄舟が言うと西郷は、甲州の新選組について「甲州で兵端が開かれたと聞きます。先生の言うことと違います」と述べ、鉄舟が「それは脱走兵で徳川家とは何の関係もありません」と答え、西郷はそれ以上追求しませんでした。

更に鉄舟は「先生は戦いをどこまでも望まれますか、人を殺すのを専らとされますか、それでは王師(天皇の軍隊=官軍)とは言えません」と言い、西郷は「慶喜が本当に恭順の実効があるならば寛大な処置もあるでしょう」と言うと、鉄舟は「その実効とはいかなる事ですか」と聞き、西郷は「先日、静寛院宮(和宮)の使者が嘆願に来ましたが、ただ恐縮するばかりでさっぱり事情が分かりません。先生が来てようやく江戸の事情が分かりました。大総督に言上しますのでしばらくお待ちください」と鉄舟を信用して、どのようにしたら恭順の実効となるかと大総督の有栖川宮熾仁親王に相談に行き、五か条の書付を渡したのです。
その五か条とは
一、城を明け渡す事
二、場内の家臣は向島に移す事
三、兵器を全部渡す事
四、軍艦を渡す事
五、慶喜を備前お預けにする事
で、西郷はこれらが実行されれば徳川家へ寛典(寛大な処置や恩典)がある。つまり徳川家の家名は断絶させず残すと言うわけです。鉄舟は「謹んで承りました。しかし一か条だけはお受けいたしかねます」とし、慶喜の備前お預けについて「徳川の家来は決して承服せず兵端が開かれ数万の生命が失われます。これは王師のなすことではありません。先生はただの人殺しです」と反論しました。西郷は「朝命ですぞ」と言う、鉄舟は「たとえ朝命でも拙者承服できません」。もう一度西郷は朝命であると言うと、鉄舟はこう言います。「先生の主人島津公が朝敵の汚名により、主君が恭順し先生が慶喜のごとき処置の朝命を受けたなら先生は直ちに主人を差し出し安閑として傍観できますか。君臣の情、先生の義においていかがですか。鉄太郎(鉄舟の名前)は決して忍ぶことが出来ません」。こう言ったところ西郷はぐっとなって、言葉を発せなくなってしまい、黙り込んでしまったのです。そして西郷は「先生のご説ごもっともです」とし「慶喜のことは吉之助がきっと引き受け取り計らいますから先生ご心配しますな」と誓約しました。

これが鉄舟の『談判筆記』に書いてあります。こういうやり取りがありました。慶喜の件以外の条件を呑むということで実質決定しました。鉄舟が西郷を説得したのです。恭順、降伏している者を撃つと言うのは王師ではない。これは「理」です。慶喜の備前お預けに対し、あなたは島津公を差し出しますかと言ったのは「情」です。これでもう実質すべて決まったのですが、その後があるのです。

「江戸会談」具体的記述なし
同席
の口述が唯一の史料

条件に対して徳川方は少し緩めてくれと嘆願をするわけですが、このことが勝の談話『氷川清話』では、西郷が「俺の言うことをいちいち信用してくれ、その間一点の疑問も挟まなかった」ということで、何を言ったのか書いていません。「いろいろ難しい議論もありましょうが私が一心にかけてお引き受けします」。西郷のこの一言で江戸百万の生霊もその生命と財産を保つことが出来たと書いてある。つまりどういう談判をしたかは一切書いていない。ともかく西郷は俺の言うことを信用してOKしたとしか言っていません。そして自分の一存では決められないと言って駿府へ、そして京都へ帰ります。

それでは江戸会談を書いたものはないのか。西郷はもちろん書いていません。鉄舟も実質的には江戸での会談は書いていません。勝も書いていません。官軍の渡辺清が30年後に話しました。それが唯一の会談内容です。彼は西郷のところに来た時に「一緒に聞いとれ」と言われ同席したのです。それが唯一の『江城(江戸城)攻撃中止始末』という筆記録です。西郷は慶喜が謹慎するならどこに謹慎しても構わないと言いました。西郷の「城、兵隊、兵器を渡せ」に勝は「渡します」と言ったが、「軍艦も渡せ」には、「榎本武揚の管轄だから私の思うようにはいかない」と言います。結局「城、兵隊、兵器もしばらく待ってほしい。あとで何とかするから」に、西郷は「恭順がどの程度できるか実態を見ましょう」と言って、翌日の攻撃は仮に中止になるわけです。つまり全てが保留のまま攻撃も保留し、西郷は駿府に戻ったのです。

もう一つの『談判筆記』は鉄舟が書きました。西郷と勝の会談は鉄舟も同席しています。高輪薩摩藩邸で西郷、勝と鉄舟が面会、慶喜の処分以外の四か条を徳川方が「やります」と言ったので、西郷は承諾し進軍を留めたと書かれている。この二つだけが江戸会談に出ていた者が書いたものです。

そして西郷が京都に帰り、朝議で正式に決定しました。まず慶喜は嘆願どおり水戸謹慎でよい。城は身内の田安徳川家に預ける希望でしたが、最終的には官軍側についた尾張徳川家に預けることになりました。また軍艦と兵器は大名として残れば兵器が要るので、必要な分だけ残し余った分を渡すと希望しましたが、一度全て接収し、必要分は後で下げ渡すとの逆の結論になりました。慶喜の処分以外重用条件の嘆願は却下されました。

なぜ、これだけの史料があるのに勝海舟がやったという俗説がまかり通っているのでしょう。

それは明治14年に賞勲局が明治維新の功労を記録し、爵位を与えようと「自分のやったこと書いて出せ。若しくは説明しなさい」との命令が出ました。勝は出しましたが、鉄舟は初め出しませんでした。しかし、命令されて持っていきました。その時に勝が出したものを係員が鉄舟に見せたのです。そこには鉄舟がやったことが書いてある。鉄舟が見て、これはおかしいと思ったのですが、自分の話を出すとバッティングしてしまいます。鉄舟は欲が全くないので、俺が出すと勝さんが面目丸つぶれになる、と出しませんでした。ところが局員の「あなたの手柄はどうなのですか」に、鉄舟は「俺は別に何もしてないよ」と答えます。

ところが当時は知る人はみんな知っていたのです。時の賞勲局長の三条実美が岩倉具視に聞いてほしい旨を伝え、岩倉は鉄舟を他の要件にかこつけて呼び出して聞きました。鉄舟は、相手が岩倉だから本当の話をしました。岩倉は感心して、手柄は勝に譲るにしても歴史の真実は残しておくべきだとして、賞勲局ではなく、俺個人に出せ、と言いました。それが『談判筆記』です。それが鉄舟が創建した上野の全生庵に残っています。

壁画描かれなかった鉄舟
泥舟の推薦で
慶喜が命令

もう一つは『氷川清話』です。ここで勝は俺がやったみたいなことを言っている。これと似たようなもので『海舟座談』があり、維新は俺と西郷とでやったのさ、という。詳しいことは何も書いておらず、西郷が諾と言ってくれたおかげと書いていますが、これは駿府談判で諾と言った話で、江戸で火花の散るような談判をしたわけではないのです。

さらに西郷と勝の壁画です。歴史教科書には必ず出ています。これが曲者。鉄舟が描かれていない。鉄舟とすれば駿府談判で決めたことと違うことを西郷が言い出したら困るため同席したのです。

事実と真実は意外と混同します。重光葵とマッカーサーの日本の降伏調印式は、アメリカ軍艦ミズーリ号で行われましたが、ここの話し合いで決まったわけではありません。元寇の嵐でも、元軍は暴風雨で大きな被害を受けたのは事実。日本全国で朝廷から御家人まで神社仏閣で夷狄(いてき)調伏の加持祈祷が行われたのも事実ですが、加持祈祷のおかげで神風が吹き元軍を撃退することができたのは真実とは違います。

つまり江戸無血開城は駿府で決まっていたのに、賞勲局に俺がやったと勝が出した、つまり勝が鉄舟の手柄を盗んだ、柔らかく言えば鉄舟が譲った。もう一つは『氷川清話』で俺がやったと言いふらしたので、みんな思い込んでしまった。そしてあの有名な壁画です。勝がやったと解説されれば信用してしまうのです。

鉄舟は勝の命令で駿府の西郷の下へ行ったと思われていますが、違います。慶喜の直接の命令で派遣されたのです。鉄舟が慶喜に呼ばれた実態は、鉄舟の義兄、高橋泥舟がいたからです。幕末の三舟、海舟、鉄舟、泥舟の一人です。泥舟は慶喜の護衛、精鋭隊隊長です。いろいろな使いや文を出すけれども万策尽きたところで、慶喜が泥舟に行ってくれと頼みます。泥舟は槍の神がかり的な名手で、人格も高潔で強く人望もありました。二、三百人が慶喜を護衛していますが、脱走もしくは慶喜を担いで薩長と戦おうという者がいた中で、泥舟が抑えていたのです。頼みはしたものの、慶喜を守る人がいなくなる。そこで代わる人物を慶喜が泥舟に聞いた時に、泥舟は自分の義理の弟、鉄舟を推薦しました。鉄舟しかいません、と。そして上様自ら言わなければ命令の重みがないとして、鉄舟を呼んで直接頼みました。

その時鉄舟は、慶喜はころころ考えが変わったりするので、間違いなく恭順するのか確認をしました。初対面の将軍に下っ端が会って確認するわけですが、慶喜が「恭順は変わらない」と言ったので、「私が命に代えて話をまとめてきます」と駿府に行ったわけです。

静岡の鉄舟と西郷の談判場所に碑が立っていて、説明板には「勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎」と書いてありましたが、これは間違いだとして去年、「徳川慶喜の命を受けた旧幕臣山岡鉄舟」に書き換えられています。東京・田町にある西郷隆盛と勝海舟が江戸会談の場所にも碑があって、江戸無血開城が決まったと書いてありますが、これは間違いです。

次にイギリス公使パークスの圧力があります。商売をするのに内戦は困るということもあって、パークスも江戸での戦争に賛成ではありませんでした。パークスが西郷に圧力をかけて説得し、江戸攻撃を阻止したという話があります。これは言ったのは事実ですが、二つのルートがあり、勝が通訳官アーネスト・サトウに会ってパークスに頼み、西郷に言ったサトウルート。しかしこれは真実ではありません。サトウの書いた回想録を学者が誤読したのです。もう一つが同席した渡辺清、参謀の木梨精一郎が横浜でパークスに、江戸城攻撃の際の負傷兵のための病院の世話を依頼した際に、パークスは降伏している人間を攻めたり殺そうなどとは国際世論が許さない、と言いました。慌てて木梨は静岡の大総督に、渡辺は江戸の西郷に伝えた木梨・渡辺ルート。しかしこれにより西郷が江戸の攻撃を止めた訳ではありません。

大事なのは嫁ぎ先
名刀を下賜、岩倉が残す

天璋院篤姫と静寛院和宮が西郷に嘆願書を出して、奥女中に持っていかせました。和宮は「慶喜は身から出た錆だから、どうにでもしてくれ。命取ろうがご勝手に」ということですが、徳川の家名だけは残してほしい、と。同じことを篤姫も言っています。元々慶喜は大奥に嫌われていたのです。嫁に行ったら嫁ぎ先の家が自分の実家より大事。和宮は、徳川家が潰れたらあの世に行って夫に合わせる顔がない、と言うわけです。篤姫の3メートルもの長い嘆願書を見て、西郷が涙を流して攻撃するのを止めたなんて話もありますけど、とんでもない話です。こんなことで止めはしません。

世の中が静まったころ、徳川16代の時に徳川家の家名が残っているのは鉄舟のおかげだと言って名刀、武蔵正宗を下賜されました。徳川宗家の家宝になっていたものを鉄舟にくれたわけです。鉄舟は私が持っていたらもったいないと明治の元勲、岩倉に贈呈したのでした。岩倉は当時の漢学者に漢文でその経緯を書かせ、清書したのが明治の三筆、巖谷修(巖谷一六)です。岩倉もそれが分かって残しているわけです。

結論として言いたいのは、勝はそんなに活躍していないということです。咸臨丸でアメリカに行って2年間は海軍から干されていたのです。生意気でダメだということで。その後2年4カ月間だけ表舞台に出てきますが、最後は軍艦奉行です。しかしその後3年4カ月、鳥羽伏見の戦いで負けて再度呼び戻されるまでずっと干されていました。一時復帰しましたが4カ月ほどですぐ首になりました。勝はいろいろやったと思われていますが、一番大事な時にいませんでした。幕末に幕府の中央にいて采配を振るったというのは、みんなが勝手にそう思い込んでいるだけなのです。

 

 

 

 

 

【講演者プロフィール】

水野 靖夫〈みずの・やすお〉

著述家

1943年東京生まれ。東京大学経済学部卒業。三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行し海外駐在を含め国際関係部門に勤務。退社後は歴史研究に専念し、現在は幕末維新史を中心に講演や執筆活動を行なう。主な著書に『勝海舟の罠』『「広辞苑」の罠』『〔Q&A〕近現代史の必須知識』等。