【短期集中連載 全3回】
「親日『台湾』から見た日本」
第二回「台湾に残る日本」
簡 憲幸氏((株)IT eight 代表取締役社長、国際事業コンサルタント)
◆台湾と中国の日本への戦後賠償
さて戦後、日本と戦った中華民国・国民党は日本に対して戦後賠償は放棄し求めませんでした。日本で教育を受けた蒋介石の「以徳報恩」の思想とも言われています。もちろん台湾に残された日本国の莫大な財産は国民党が接収し引き継ぎました。これは朝鮮半島も同じです。ただし韓国は、日本の財産・遺産を接収した上で、戦後賠償を求めたのです。
また中国共産党は、日中国交正常化で日本に対して戦後賠償として経済支援を求めました。その後、現在まで日本は有償資金協力(円借款)、無償資金協力、技術協力など、莫大な政府開発援助(ODA)を提供し続けています。総額は3兆円を越えていますが、民間投資を含めれば、さらに膨大な資金が中華人民共和国に流れたことでしょう。
日本国政府の台湾(中華民国)に対する態度と、大陸(中華人民共和国)に対する態度の違いは何なのでしょうか? こうした国際政治については無知な私ですが、しかし私はどうしても理解に苦しみます。「なぜなのだろう?」と自問自答します。
たぶんその答えの一つは、日本にとって「将来、巨大市場の中国で儲けられる」と皮算用をしたからでしょう。しかし現実は莫大な資金と技術を中国に吸い取られただけのように感じられます。今の傲慢な中国を形作ったのは日本に大きな原因があると思うのは私だけでしょうか?
台湾人は、日本人のこの行為を忘れてはいないようです。日本人は、利益に走り、義理を無くしたかのようです。日本人は、共産主義の中国を選び、民主主義の台湾を捨てた、と言われて反論できるでしょうか? この問題について、私は反論どころか台湾人に対して顔を向けることすらできません。
日本は高度成長期から現在まで、台湾を“部品”として活用しました。つまりビジネスとしての日台関係は順調でした。
台湾だけではありません。アジア諸国の多くは、日本にとってビジネス相手なのです。日本にとって、アジアは同胞ではなく、ビジネスの下請けでした。また日本のビジネスマンは、台湾だけでなくアジア各都市で、金にモノ言わせ接待として浴びるように酒を飲み、現地の女を買い漁りました。
日本の道徳教育を受けていた台湾人は、そんな日本人を見ていて悲しく思いはしても、本心から日本人を嫌うことはありませんでした。
さらに日本教育を受けていた多くの台湾人は、自分たちの子供たちが学校で反日教育を受けていても、自宅に帰れば、日本の良さを伝えていました。「なぜ台湾が発展したのか?」「台湾が他のアジア諸国と異なるのはなぜか?」など、親から子へ、そしてまた次の世代へと、日本を伝えてきました。
反日教育を受けていた台湾の子供たちも、優れた日本の製品を通して、またはマンガやテレビなどの日本のサブカルチャーを通して、日本というものに触れて育ってゆきます。
また社会人にでもなればビジネス上での日本との接点は増えてきます。仕事熱心で真面目な日本人の後ろ姿を見て、若い台湾人たちは、その後ろについて歩き始めたのです。
このように台湾では約3世代にわたって、日本を理解し、日本との絆を切らさず、さらにその絆を強めています。台湾の親日の要因はここにあります。
◆台湾に残る日本とは
日韓併合で韓国もかつては日本でした。しかし現代の韓国には日本の遺構すら残っていません。残っているとすれば、日本への恨みでしかないようです。日韓併合時代の歴史的建造物も破壊し尽くし、記憶は黒く染められています。
李氏朝鮮など、朝鮮半島の統一国家とは名ばかりで中国の属国であり、内紛が絶えず、血生臭い王朝の変遷、そして戦いに明け暮れていた朝鮮半島の歴史は過酷でした。
また「世界一傲慢な貴族階級」と言われる両班(ヤンバン)の搾取に、国民はまさに奴隷であり、その命の価値など皆無でした。
しかし日韓併合により、王族も家族も奴隷も、皆すべて等しくしました。国民の大多数を占めている元奴隷の人たちに対しも日本は教育を施し、健康と人権を守ろうとしました。
朝鮮半島も台湾も、日本の横暴はあり、差別もありました。しかし両地域とも搾取だけを目的とした欧米の植民地支配でなかったことは、その時代の人たちの証言からも明らかです。
しかし戦後になって、朝鮮半島ではまたも戦争が起きます。アメリカ合衆国と中華人民共和国との代理戦争とはいえ、哀れな民族です。その後、韓国では国内の言論統制のために歴史を書き換え、恨みのすべてを日本に向け、徹底的に日本的なモノを破壊しました。哀れを通り越しておバカさんな政府と国民です。
ですが台湾では異なります。日本と戦った中華民国・国民党は蒋介石総統の方針もあり、日本人の建造物などを保護し再活用しました。ただ神社については撤去しました。また日本人そのものを賛美する銅像なども撤去しました。撤去の理由は、さすがに反日教育の邪魔になるからです。
さて現在も台湾に残る日本統治時代の代表的な建築物を列挙しましょう。
【台湾における日本時代の建築物】
台湾には、日本統治時代(1895年~1945年)に建てられた近代建築物が数多く残されています。戦後の近代化の中で、開発の波は、日本統治時代の一部の古い建築物は壊され、新たに現代的な建物に建て替えられました。それでも歴史的建造物については修復され、リノベーションされ、現代に蘇えらせました。
ただ、日本式の民家などはさすがに保存状態が悪く多くが取り壊されてしまっています。とくに戦後、中国大陸から来た兵士たちの住居として与えられ手を加えずに使用し続けたため老朽化が激しくなり取り壊されたものもあります。
台湾全土に日本の建築物がありますが、やはり台北に大型の建築物が現存し現役として利用されています。以下、台北に残された建築物です。
日本統治時代の台湾における近代建築は、3つの時代に分類されます。これは基本的に同時期における日本の近代建築と同じといえます。
●第一期(1895年から1930年代前半)
「様式建築」と呼ばれる建物で、ルネッサンス様式で建てられた「総統府」が最も有名です。他には、「監察院」「台北賓館」「国立台湾博物館」「公賣局」「台湾銀行」などがこの時期の建物です。
●第二期(1930年代)
「過渡期建築」で様式建築の雰囲気を残しながら現代的な外観を取り入れています。「二二八紀念館」「司法院」「中山堂」などがこの時期の建築物です。
●第三期(1930年代から1945年)
「現代建築」です。直線を多用した外観が特徴です。「行政院」「電信局」がこの時代です。
これらの近代建築の多くは、「文化資産保存法」によって文化財(古蹟と歴史的建築)に登録されています。日本と同様にその重要度に応じてランク分けされ「国定古蹟(内政部によって指定)」「直轄市古蹟」「県(市)古蹟」と分類されているようです。また、「一級古蹟」「二級古蹟」「三級古蹟」という分類もあります。台湾では日本統治時代の建築物をこれほど大切に保存し活用しているのです。
【台北以外の日本時代の建造物等】
「台北」以外にも商業都市として新しい街が台湾全土に作られました。「台中」「新竹」「嘉義」「台東」などです。そしてこれらの都市を結ぶ鉄道が敷設され、当時としては豪華な駅舎が建設されました。駅舎はその町のランドマークとして愛されました。また鉄道は、林業の木材輸送、製糖の輸送などを支えました。
日本は教育にも力を入れ、全土に「国民小学校」など多数の教育施設を建設しました。校舎は地域の憧れであり誇りの象徴でした。
港湾設備は、「基隆」「高雄」「淡水」「花蓮」など、日本との交易だけではなく世界貿易の玄関として日本人が近代的な整備しました。
林業関係では「阿里山」「羅東」「大平山」など日本人がゼロから開拓した地域です。また水源関係で「日月潭」や「烏山頭ダム」が日本でも知られています。
日本人にも馴染みの「北投温泉」をはじめとして台湾の温泉のほとんどは日本人が発見し施設を作っています。「草山」「四重渓」「関子嶺」が有名です。また避暑地、観光地の開発も積極的に行われました。
このように日本人は台湾全土の大改革を成し遂げたのです。
(続く)
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■簡 憲幸(かん のりゆき)((株)IT eight 代表取締役社長、国際事業コンサルタント)
台湾系華僑二世。1954年東京生まれ。日本大学芸術学部卒業後、アート・ディレクター、コピーライター、プランナー、マーケッター、文筆家として活動し、その後、新規事業コンサルタントとして、またアジアを中心とした海外進出コンサルタントとしても活動、また国際人、文化人として幅広く講演活動、交流事業を行っている。著書『リーダーの教科書』。(一・社)TOURI ASSOCIATION理事長、「東京台湾の会」事務局長等の役職を多数兼任している。