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「慰安婦像の現場にて」(山岡洋一)

【特別寄稿】
「慰安婦像の現場にて」(2019.10月、ソウル)
山岡 洋一氏(フリーライター)

今夏になって、何故か韓国に出掛けたくなった。日韓関係が悪化したため、韓国経済には大きな影響が出て、輸出金額、国内総生産などが低下している、と新聞などは報じている。戦後最悪となった日韓関係により、韓国の国内はどのような状況にあるかを見聞したくなったからである。
 
日韓関係がおかしくなり始めたのは、昨年末に徴用工訴訟で韓国大法院が三菱重工に損害賠償を命じる判決を下してからである。次いで、慰安婦問題解消のために設立した財団が解散し、海上自衛隊機へのレーダー照射事件などの問題が続々と発生した。

そんな経過の中、7月1日になって日本政府(正確には、経済産業省)は韓国への半導体材料の輸出審査を厳格化すると発表し、輸出を許可制にした。さらに、輸出管理上のカテゴリーで韓国をホワイト国から外すことになった。韓国の主要産業である半導体の生産に必要不可欠な半導体材料が輸出制限されると、韓国経済に大きな影響を与えることは必須となる。この措置について日本政府は単なる手続きの問題であるとしているが、徴用工問題などへの韓国政府への意趣返しであろう。

これに対して、韓国政府でも日本をホワイト国から外し、GSOMIAの協定破棄を発表することになった。また、韓国の民間からは、日本製品の不買や訪日旅行の自粛などの運動を叫ぶようになった。こうして、日韓関係が冷えきった。今回の日韓貿易紛争の要点は、日本政府が韓国政府を見限ったということに尽きるかもしれない。この問題は1年や2年で解消するとは思われず、もしかしたら数年はかかるのではなかろうか。


        写真(1)

新聞、テレビでは、訪日、訪韓の観光客が減少したと報道していたが、羽田発の日航機はほぼ満席であり、帰国の便も同じようなものだった。乗客の半数は韓国人と思われ、訪日旅行の自粛という運動は本当なのか疑わしい。ただ、格安航空のLLCには影響があったかもしれないが、安切符で訪日するような観光客ではインバウンドに大きな影響を与えないであろう。

ソウルに到着してから一番の繁華街である明洞を散策したが、地元韓国人、日本人観光客で賑わっており、平穏な雰囲気であった。明洞の入口角にあるユニクロの店舗にも買い物客が出入りしていた。マスコミが騒ぐ程の影響はないようだ。これは、一観光客が市街を外側から見ただけの判断であり、実態は不明である。もし、日韓貿易摩擦の影響で韓国が不景気となり、それを明瞭に理解できるような雰囲気になるのは、もっと後のことであろう。


        写真(2)

明洞を抜けて北に歩き、鐘路を通過して在韓日本大使館に向かった。目的は、慰安婦像を見るためである。慰安婦像は新聞、雑誌、テレビなどで何度も取り上げられているが、像の周囲はどのようになっているか、は全く報道されていない。反日団体で騒がしく、日本人にはさぞかし物騒な場所ではないかと予測していた。しかし、現地に到着してみると、何の変哲もない平凡な通りであり、罵声やざわめきもない静かな場所であった。

写真(2)は通りを北から南に向いて、写真3は南から北を向いて撮影したものである。慰安婦像は矢印の場所に設置されていた。像が設置されているこの通りは、あっけらかんとしたものであった。

写真(2)の右側、写真3の左側の仮設の塀で囲われた場所が日本大使館があった場所である。大使館は老朽化のため建て替えが予定されていて、2015年頃に取り壊された。しかし、建築許可が下りず、再建築することができなった。

2018年になって建築許可が下りたが、工事に着工することはなかった。大使館前にある慰安婦像が撤去されていないためではないかと推測される。従って、慰安婦像が設置されているのは「日本大使館の前」ではなく、「日本大使館が撤去された更地の前」ということになる。


        写真(3)
 
大使館の跡地前には、国際法に則り警察の警備車両が3台駐車しており、慰安婦像の背後には警察官2名が立番していた。無人となっている大使館跡をどのような理由で警備するのか理由は不明であるが。


        写真(4)

慰安婦像の横の歩道上には、支援団体の会員と思われる学生風の男女3名が待機していた。反対者による像の破壊を防ぐための監視や、見学者の案内をするためではないかと思われた。支援者は交代で、一年中ここで待機しているようだ。

慰安婦像の後側には、多数の写真が並べられていた。ここを訪れた有名人や賛同者であろう。安倍首相と朴槿恵大統領が2015年に慰安婦問題を解消した、とするポスターも貼られていた。


        写真(5)

        写真(6)

韓国人観光客も日本大使館前を訪れるようで、この日には写真6にあるように知人らしいグループが記念写真を撮影していた。ソウルの名所ではなさそうであるが、時々、思い出したように韓国人グループが見学に来ていた。

また、写真(7)では老齢の韓国男性がプラカードを掲げ、何か叫んでいた。30分ほど叫んでいたが、叫んだその先は日本大使館の跡地である。だれも聞いておらず、どこか虚しいものを感じられた。立番する警察官は制止するわけでもなく、放置していた。多分、この男性は定期的に来て、不満を叫んでいるからであろう。


        写真(7)

        写真(8)

しばらくすると、十数人の外人グループ(会話が英語であったため、多分、米人ではないかと思われる)を引き連れたガイドが慰安婦像に到着した。ここで、ガイドは慰安婦像についての来歴などを英語で解説し始めた。説明の中に「セックス・スレーブ」とか「アベ・シンゾウ」という単語が繰り返されていたことから、韓国女性が日本軍にどのように扱われ、安倍首相がそれに対する措置をどのようにしたか、を説明したのではなかろうか。

リタイアしたと思われる米人観光客はそれなりに拝聴していたが、この問題をどのように理解したかは不明である。ガイドはボランティアなのか有料のツアーガイドであるか不明だが、ここまでして反日のキャンペーンをしなければならない理由が理解できない。もし、日本人観光客を引き連れて、同じようなガイドツアーをしたらどうなるであろうか。日本人の反発は必須であろう。


        写真(9)

        写真(10)

さて、慰安婦像は2011年に韓国挺身隊問題対策協議会が設置したもので、日本政府は韓国政府に「ウィーン条約に違反するため撤去して欲しい」と申し入れている。それに対して韓国政府は「民間支援団体が勝手に置いたので撤去できない」と回答しているらしい。

写真9は像が設置された場所であり、歩道に御影石のような台座を配置し、その上に像を設置してあった。こうなると、「像を置いた」のではなく「像を固定」したもので、簡単には撤去できない頑丈な固定構造物である。韓国政府は像の設置を黙認したというが、政府が支援団体の設置工事に協力したとしか考えられない。
 
また、写真(10)にあるように、歩道の縁石には真鍮製のブロックが打ち込まれていた。ブロックを拡大したのが写真11であり、各ブロックには亡くなった慰安婦の氏名と享年が刻印されていた。慰安婦問題は韓国の国家的事業となってきているのではなかろうか。


        写真(11)

さて、慰安婦の問題が発生したのは、1973年に千田夏光が「従軍慰安婦」を発刊してからであり、日韓基本条約が締結された1965年よりも後のことであった。日韓基本条約の内容には、慰安婦問題は何ら触れられていなかった。この条約の締結時に慰安婦問題を解消しておけばよかったのだが、当時はそこまで問題意識が無かったようだ。
 
慰安婦問題がこじれたのは、確固とした証拠や資料が無いのが原因である。「慰安婦であった」と自称する韓国女性の証言しか無いのである。従って、慰安婦という事実があったのか、無かったのか、を証明することができないのである。

さらに、問題をややこしくしたのは、1977年に吉田清治という男が朝鮮女性を慰安婦として強制連行した、と発表したことであった。この吉田証言に朝日新聞が賛同し、盛んにキャンペーンを掲載したことで問題が複雑化したのだった。

しかし、2014年になって、朝日新聞は吉田証言が虚偽であるとし、吉田による従軍慰安婦に関する記事の取消しと謝罪の記事を掲載することになった。韓国女性の強制連行が無かったことになり、これ以降は各マスコミでは慰安婦問題から「従軍」の文字を使わなくなったようだ。これらの経過については、多数の研究者が多くの書籍を発刊しているので、ご関心があればそれらをご参照されたい。
 
慰安婦問題が長期化し、解決の方向に向かない根本的な理由には下記のような要因があるのではなかろうか。
 
1. 事件の証明が曖昧である
 
慰安婦問題では、当時の確固とした資料が存在していない。陸軍などからの指令書、慰安所経営者と慰安婦との間の契約書などの紙資料が見当たらないのである。全ては、関係者の証言や記憶によるものであり、第三者が客観的に納得できるような証拠がない。証言や記憶では、どのようにでも解釈できることになる。
 
2. 被害者が女性である
 
慰安婦と称する被害者は、当時の若い女性達であり、非力な立場にあった。か弱い女性が性的な被害を受けた、となれば、日韓の女性からは同情を受けやすくなる。女性であれば性暴力ということに敏感に反応するからである。
 
3. 日本人の証言が得られていない
 
中国で営業していた慰安所の経営者は殆どが日本人であり、内地で売春宿を経営していた前歴者が多かったらしい。売春婦を連れて大陸に渡り、日本軍人を相手に商売すれば大儲けできる、と睨んで大陸に進出したのであった。

この日本人業者の大陸進出については、大林清著『玉の井挽歌』に比較的詳しく解説されている。大林は1983年頃に、関係者から誰がどのようにして大陸に渡ったか、を聞き取りしていた。すると、慰安婦問題が顕著化し始めた頃でも、慰安所経営者は多数健在であった。彼らから大陸での慰安所をどのように経営していたか、などを詳しく証言として記録しておけばよかったはずである。しかし、売春業という賤業をしていた後ろめたさがあり、関係者は自ら名乗り出ることはなかった。
 
4. 野党から政府への攻撃材料となっていた
 
慰安婦問題の証明や証言が曖昧であることから、野党が政府を攻撃するには恰好の材料となった。朝日新聞に吉田証言が掲載されて以降、福島瑞穂などが訴訟などを提起していた。事件がぼんやりしているため、政府への責任追求がやり易かったのではなかろうか。さらに、進歩的知識人と自称する人達もこの流れに乗って政府を攻撃することになった。しかし、吉田証言が虚偽であると判明してからは、野党などからの攻撃は下火になったようだ。
 
5. 日本政府の見解の発表はあるか
 
韓国政府、民間支援団体は、慰安婦問題は戦争犯罪であると盛んにキャンペーンしている。これに対して、日本政府は正式な反論はしていない。それは、韓国側の主張に日本政府が反論したならば、その反論にさらに大きな反発をすることが予想されるからである。静観しておくしか対策が無いのではなかろうか。
 
もしかすると、100年後には、「過去に、日韓では慰安婦問題という摩擦があったが、虚構を言い争っただけの無益なことであった」と世界から笑われるかもしれない。


        写真(12)

次いで、日本大使館前から光化門に向かった。写真(12)はその光化門であり、朝鮮王朝の宮殿の入口である。この写真の背後には、片側4車線で中央に芝生がある光化門広場となっていて、大規模なデモはここで開催されている。韓国観光情報によれば、デモは土曜日の午後3時から始まり、深夜に及ぶとのこと。いわゆるローソクデモであり、深夜に多数のデモ隊がローソクを灯した映像はテレビでお馴染みとなっている。


        写真(13)

        写真(14)
 
この日は土曜日で、偶然にもデモに遭遇することになった。この日のデモは保守野党の「自由韓国党」が主催しており、文在寅大統領の不信任を問うものであった。写真(13)、(14)にあるように、数百人程度のグループが続々と行進していた。

各グループが切目なく続いていて、その統制力には驚かされた。どうも、各グループは光化門通りに接続する複数の道路に待機していて、本部からの指令により光化門通りに順次流入するよう行動しているらしい。それぞれのグループは公務員組合、退役軍人会などのようで、プラカード、Tシャツはグループ毎に統一されていた。デモの参加者達は慣れているようであり、整然と行進していた。
 
この日のデモの参加者数は数万人ではないかと思われた。本年9月28日には200万人が集まった、と主催者が発表したが、これは大げさである。光化門広場にはそれ程の人数が収容できず、実際には10万人規模だったらしい。それにしても、日本では考えられないような人数の動員であり、韓国では政治が国民の生活に直接影響しているからであろう。韓国人のエネルギーに驚嘆させられた。


        写真(15)
 
デモ隊を注意深く観察すると、写真(15)のように星条旗を掲げた参加者も多かった。太極旗を掲げるのは当然のことであるが、米国の国旗を掲げる理由は不明である。もしかしたら、米韓相互防衛条約による米国からの支援を要求しているのかもしれない。文大統領は北朝鮮との融和を画策し、在韓米軍の撤退を考えている。このため、この日のデモ隊では、米軍の韓国駐留を継続して欲しい、という文大統領への当て擦りをしているのではなかろうか。

また、この日のデモでは朴槿恵元大統領の釈放も要求していた。写真16のように、数台の大型バスに朴元大統領の写真を掲げ、アッピールしていた。大型バスには釜山などの遠距離から到着したものもあり、支持者が広範囲から参加していることが伺われた。写真(17)は、朴元大統領の釈放に署名を求める支持者のテントである。
 
この日のデモでは、所々で大統領派と反大統領派による小競り合いがみられたが、言い争いのようなものであった。韓国国民はこのような政治集会には慣れていて、暴力沙汰になるようなことはないらしい。

        写真(16)

        写真(17)