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「令和2年 建国記念の日の靖国神社」(日比 恆明)

【特別リポート】
「令和2年 建国記念の日の靖国神社」

日比 恆明氏(弁理士)

今年も建国記念の日に靖国神社にでかけました。境内で見てきたままを報告します。
 
昨年の2月11日は、最高気温が3度で曇りという悪条件でした。今年の同じ日は雲一つ無い快晴で、最高気温は11.7度となり、散歩には最高の気候でした。冬の休日の全てがこのような気候であれば、幸せなのですが。


        写真1

さて、1月下旬から新聞、テレビで真先に報道されているのは中国武漢で発生した新型コロナウイルスによる感染のニュースです。日を追う毎に感染者数が増加していき、収束する見通しがつきません。厚生労働省の2月17日付けの発表による各国の感染者数は次のようになります。

国名     感染者数  死亡者数
中国     70,548名   1,770名
シンガポール 75名     0名
香港      57名      1名
日本                   41名              1名(クルーズ船感染者を除く)
タイ                  34名               0名
韓国     29名               0名
台湾                  20名               2名
ベトナム           16名               0名
マカオ               10名              0名
 
この発表が摩訶不思議なのは、中国本土での感染者数、死亡者数に比べて近隣国の人数が極端に低いのです。香港、マカオ、ベトナムは陸続きなので、感染者の往来は多いと推測され、交通も極めて容易です。各国が発表している患者数は奇怪しい、と誰もが疑っているはずです。どうも、シンガポールと日本は馬鹿正直に感染者数を報告しているのですが、他国は手を抜いている感じがします。

さらに突っ込むと、近隣の国では医療機関が少なく、かつ、ウイルス検査の技術が極めて低いのでは、と勘繰ります。
 
ということは、中国本土では国家を挙げて新型コロナウイルスの撲滅をしているのですが、近隣国では潜在的な感染者が極めて多いと推測されます。すると、中国本土でウイルスが撲滅されても、近隣国では時間差をおいて感染が暴発すると想定できます。これが今後の問題となるでしょう。

1918年に世界的に流行し、5千万人が死亡したといわれるスペイン風邪はその年に沈静化したと思われるのですが、生き残ったウイルスが米国からヨーロッパに伝搬し、翌1919年にも大流行したのです。

今回、中国が発生源の新型コロナウイルスも同じように、来年も衛生状態が悪い後進国で再度流行するかもしれません。全世界が底無しの恐怖に陥っていくような気がします。
 
次いで、新型コロナウイルスが、今年に開催される東京オリンピックにどのような影響を与えるか、が疑問となります。結論からすると、東京オリンピックは開催され、延期はないでしょう。過去にオリンピックが中止されたのは3回あり、いずれも戦争が原因でした。4年に1回開催するという主旨からすると、延期して来年開催することはあり得ないでしょう。
 
しかし、新型コロナウイルスが発生している国からは、選手の受入れを断ることもあるでしょう。また、外国選手によってはコロナウイルスが完全に根絶されていないと来日を断念するかもしれません。すると、参加国、参加選手が減少することになり、競技によっては日本の独壇場となって、日本が金メダルを獲得する確率が高くなるという現象も発生するかもしれません。

こうなると、新型コロナウイルスによりオリンピックの成績が左右されるという結論になります(風が吹けば桶屋が儲かる、という理論ですが)。


                           写真2

10年以上前より全国の有名神社に参拝し、参拝した証として御朱印を受領することが流行ってきました。このため、靖国神社でも4年ほど前から御朱印を配布するようになりました。

元々は神社仏閣を参拝したという証明のようなのですが、昨今は集めることが趣味のコレクターによる御朱印の受領が増えてきたようです。特に、「神宮」は「神社」とは別格なため、神宮の御朱印だけを受領するマニアもいるとのことです。

しかし、散歩する目標の無い人にとって、都内の神社を巡ることが一つの目的となるでしょう。日頃は馴染みのないあちこちの神社に出掛ることで散歩を続けるのなら、健康のために良いことかもしれません。
 
御朱印ということなので、朱色の印鑑が押してあるだけかと思ったら、御朱印帳には神社名と参拝した日付を墨書しなければなりません。このため、朱印所の受付の近くでは墨書をする専門の女性が3、4名待機していて、一生懸命墨書されてました。次から次ぎと訪れる参拝者のために墨書するため、担当の女性には腱鞘炎が発生したようで右腕にサポーターを巻かれていました。


                            写真3

この日は祝日でしたが、一般の参拝者はまばらでした。しかし、ギョウカイの方達にとっては特別な日のため、それらしい人達の参拝が目立ちました。しかし、この日にグループで参拝されたのはこの写真の一行だけでした。約30名の行列であり、参拝者の平均年齢は50歳以上ではないかと推定され、高齢化が目立っていました。小子化による影響ではなく、若手の新規加入が減少したのでしょう。平成のバルブの時は茶髪の若者なども並んでいたのですが。
 
ギョウカイの人達の参拝が減少した一番の理由は恰好良くない、ということではないかと思われます。日本全体が右傾化していて、その昔はギョウカイの人達のみが主張していた内容が一般化してたからです。与党の安倍政権が長期化し、野党が弱体化したのがその現れでしょう。このため、特定の団体に所属する必要が無くなったのです。


                             写真4

さて、ギョウカイの一行が街宣車で神社を離れる時は、出発するまで待機する時間がかかっていました。出発が中々始まらないのです。どうも、予め団体が警察に提出した行動予定表の時刻にならないと出発できないようでした。隊列が整ってから約10分以上経過してから、やっと出発が始まりました。先導車は警察車両で、お見送りする方達は公安関係者のみでした。


                            写真5

以前から建国記念の日には、境内には制服警官による警邏が行われていました。ギョウカイの人達同士のトラブルを防止するためでもあり、境内の混乱を整理するためでしょう。実際、20年前の同じ日の参拝者の人数は今と比べると遙に多く、ギョウカイのグループも多かったのです。このため、制服、私服の警官の出動人数も多かったような記憶があります。

昨今の建国記念の日では昔ほどはギョウカイの人が多くないため、制服警官の人数も少なくなっているようです。しかし、平時なら腰に下げている特殊警棒を手にしており、イザという時に対応できる厳戒体制にあることは間違いないでしょう。


                            写真6

この日に出会った和服を召した人です。昔なら商家の若旦那、といった風情です。この人は和服を着るのが趣味で、休日になると和服を召して都内を散策されるのだそうです。女性がハレの日に和服を召すのは珍しいことではないのですが、最近は男性による和服愛好家も増えてきたようです。

銀座などの繁華街では、和服を着た男性をしばしばお見かけします。考えてみたら、いくら高級な輸入生地で仕立てた背広を着ても、その価値を見分けるのは難しいのです。和服なら価値を判断するのは比較的容易です。これからは、和服を着てイキを表現する男性が増えるでしょう。

                            写真7


                            写真8

九段通りにある陸橋から千鳥ケ淵を撮影したのが写真7で、九段通りと千鳥ケ淵の間にある細長い地区で、左にある銅像は子爵品川弥二郎です。この地区には、以前は消防署や小屋が建てられていて歩道の幅が狭く、往来の妨げとなっていました。

今回は建造物を取り除き、歩道の幅を広げる整備工事が行われていました。千鳥ケ淵の桜を観覧するのに便利なようにするためでしょう。竣工日時は3月27日となっていて、花見の時期に合わせて突貫工事といったところです。
 
千鳥ケ淵周辺の歩道の整備は期日通りに完了するでしょうが、今年の花見はどうなるか問題です。新型コロナウイルスが花見の時期までに沈静化するかどうか見通せないからです。

感染者数は毎日のように増加しており、減る様子がありません。感染者の全員が陰性と判定されるのが3月下旬になればいいのですが、そうではなかった場合は花見どころではありません。

例年、千鳥ケ淵の沿道にはラッシュの電車内のような人込みとなります。当然、二次感染が発生し、春の陽気に浮かれて千鳥ケ淵に出掛けることはできなくなります。もし、国内に感染者が残っているようであれば、千代田区は花見禁止令を発動し、千鳥ケ淵への入場を禁止するかもしれません。もしくは、二次感染を防止するため、地下鉄出口で整理券を渡し、感染を防止できる1メートルの間隔を空けて歩行するように指導することになるかもしれません。

何れにせよ、今年の花見は今まで体験したことのないような状況になるでしょう。


                             写真9


                         写真10

田安門から東の方向を見ると、シートが掛けられた建物があり、解体工事が始まっていました。この建物は昭和9年に竣工した軍人会館であり、戦後は九段会館となったものです。2011年の東日本大震災では九段会館は大きく揺れ、天井からの落下物により死亡者が発生しました。都内で唯一の震災による犠牲者で、これ以降九段会館は耐震性の欠陥から閉鎖されていました。9年目になってやっと取り壊しが始まったようです。
 
土地は国有地であり、ノーヴェグランデという会社が70年間の借地権を取得し、17階建てのホールなどを備えたオフィスビルを建設する計画です。ノーヴェグランデ社は東急不動産と鹿島建設の共同出資により設立されており、九段坂下の再開発を進めているようです。

九段会館は「帝冠様式」と呼ばれた昭和初期の名建築であり、これで昭和の時代も終わったことになります。しかし、建築設計ではレトロフィットと呼ばれる建て替えのため、外観はそのまま保存するため歴史のある風景は残るようです。