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「令和4年 建国記念の日の靖国神社」(日比恆明)

【特別リポート】
「令和4年 建国記念の日の靖国神社」

日比恆明(弁理士)

一昨年の年末に発生した新型コロナウイルスによる感染騒動は早くも2周年目を通過し、3年目に突入しました。発生からの時間は経過したのですが、感染の勢力は衰えそうにもなく、感染者数は益々増加しています。

昨年10月から年末までの1日当たりの全国感染者数は100名前後でしたが、年が明けた1月12日には1万人を突破し、その後は5万人、7万人、8万人、9万人となり、2月5日には遂に10万人を越しました(この数値はNHKの報道から引用しましたが、ニュースソースによって数値は微妙に違っています。各マスコミによる集計方法の相違にあると思われます)。

政府は感染増加の第六波と認定し、主要地域に蔓延防止等重点措置を講じましたが全く成果が出なかったようです。感染者が急増した原因に、感染力の強いオミクロン株が発生したこともありますが、第五波が9月に落ちついたため気が緩み年末年始に外出する人が増えたからかもしれません。
 
気持ち悪いほど感染者数が増加していくため、世界のコロナ禍が何時収束するのか予想できません。オミクロン株による感染が収束したとしても、次に新たな変異種が現れたならコロナ禍は継続することになります。「その内にコロナはインフルエンザのように弱体化して、感染しても重症化することはなくなるでしょう」という意見もありますが、これは楽観的な期待です。コロナウイルスに感染すると、重症にはならずとも色々な後遺症が残ります。とにかく感染しないことが重要で、3回目のワクチンを接種して不用な外出を避けることが一番でしょう。


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そんなコロナ騒ぎの最中に北京では冬季オリンピックが開催されました。東京オリンピックではコロナ感染を避けるため1年間延期しました。冬季オリンピックでも延長すれば良い、と思うのですが、それをしなかったのは政治的な思惑が重要だったのでしょう。

建国記念の日の前日には雪が降り、都内では数センチの高さに積もりました。しかし、当日は雲の全く無い晴天であり、日向に出るとホコホコと暖かい小春日よりでした。外出するには気持ちの良い気候なのですが、境内には参拝者の姿はあまり見かけられませんでした。参拝者が少ないのは、コロナ感染を避けるためです。この週では、都内でも1日1万人以上の感染者数が報道されているのですから、参拝のために外出しないのは賢明な選択でしょう。境内は明るく、静かな一日でした。


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昨日境内に積もった雪の殆どは陽が昇ると溶けていきましたが、石畳に残っていた雪は休憩所横の広場にかき集められていました。近所に住んでいる幼児が久しぶりに見かけた雪山で遊んでいました。都心でありながら、意外にも靖国神社の周辺に住んでいる家族は多いのです。神社の北側には複数の公務員宿舎があり、南側には戦前から住んでいる商店街があります。このため、休日になると境内を遊び場とする家族連れも結構多く見かけられます。

なお、毎年建国記念の日には、隣接する白百合小学校で生徒の作品を発表する展示会が開催されています。この展示会のため、生徒の家族は神社の駐車場に自家用車を預け、境内を横切っていく姿を見かけました。しかし、コロナ禍のために昨年から展示会が中止され、この日は制服姿の小学生を見かけることはありませんでした。

今年になって初めて気が付いたのですが、大鳥居の脇に4体の銅像が建てられていました。建立されたのは令和2年10月であり、「出征を見送る家族の像」とされてます。像は、出征兵の妻、父母、子供から構成されており、妻子がいることから現役召集ではなく、一度除隊となったが防衛召集(充員召集、臨時召集とも言われ、一括りに赤紙とも呼ばれる)により召集された召集兵を見送る家族を表現したものです。服装からすると農家ではないかと思われ、これから向かう戦地での無事を祈ると同時に、顔つきからは何か先行きが不安な表情が窺えます。


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太平洋戦争で戦死した日本の軍人・軍属(民間人含まず)は約230万人と言われています。大正時代に生まれた男子の7人に1人が死亡しており、壮絶な戦死者数でした。戦死者の多くは独身でしたが、家族のあった召集兵の戦死者数は約50万人ではなかったかと推測されています。召集兵が戦死した家庭では、一家の大黒柱を失うことに直結することになりました。戦後、働き手を失った家庭の多くは妻が働いて家族を養わなければならず、大変な苦労をされた、と聞いています。そのような悲劇は小説や映画で取り上げられており、遺族がどのような生活を送られたかはそれらから知ることができます。
 
この銅像は徳島遺族会の寄贈により、最初は平成29年に徳島県護国神社に建立されたものでした。家族を残して戦死された方は徳島県内だけではなく、全国にも同じような悲劇を抱えた遺族が存在しています。徳島遺族会から「全国の遺族が参拝する靖国神社の境内に同一の像を建立すれば、同じ悲しみを共有できるのではないか。」という声が出たようです。このため、徳島遺族会からの寄進により、同じデザインの銅像を建立したのでした。狭い靖国神社の境内に新たな銅像を建立できたのは、関係者による熱心な奉納活動があったからでしょう。


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この日に見かけた街宣車ですが、車台は何とベンツでした。過去に色々な街宣車を見たことがありますが、殆どは国産車であり、たまにジープなどを見かける程度でした。新車ではなく高年式の車でしたが、それでもベンツはベンツです。車の持ち主は相当に軍資金がある人でしょうか。それとも、借金のカタに、借主からベンツを巻き上げてのかもしれません。
 
こちらは街で見かける典型的な街宣車で、ワゴン車を改造してあります。装備を観察すると赤錆が浮かび、長年使い込まれた跡が明瞭です。活動資金が足らず、修理もままならないようです。


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今年の建国記念の日に参拝したギョウカイ人はこの団体一つだけでした。隊員は50名弱であり、最盛期の6百人に比べると格段に減っています。コロナ汚染を避けるためにギョウカイ人の参拝が減っているのではなく、ギョウカイの凋落があるからです。公安からの締めつけにより、活動が出来にくくなっていることも一因ですが、一番の理由は活動費が薄くなったことです。

20数年前のギョウカイでは活動資金が相当に潤っていたようで、街宣車で街を走行するとどこからか活動費が集まったそうです。その頃の建国記念の日には、全国のあちこちからギョウカイ団体が集合し、それは賑やかなものでした。神社の駐車場には大型バスの街宣車が並び、戦闘服を着た人達が集まっていました。これからは、もう、そんな光景は見かけられないでしょう。

靖国神社の中門鳥居の脇には小さな掲示板があり、戦没者の遺書が掲示されています。掲示された遺書は毎月変わり、戦没者の氏名、戦没地、日時が説明されてます。出征する前に残したか、戦闘中に残したのかはその人の立場によって異なりますが、これから戦死するかもしれない、という悲壮感が文面に表れています。父母、妻子などに宛てて、短い文章の中に家族への思いが滲み出ています。この日、掲示板には愛知県半田市出身の千賀才一という戦没者の手紙が掲げられていました。


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