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映画:「瀬戸内寂聴」から学んだもの(小島正憲)

【小島正憲の「読後雑感」】
映画:「瀬戸内寂聴」から学んだもの
 
小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

私は、瀬戸内寂聴氏の小説は、ほとんど読んだことがない。しかし、90歳を過ぎてからのエッセイには、ほとんど目を通してきた。高齢者になってからの瀬戸内氏の死生観から何か得るものがないかと探っていたからである。

瀬戸内氏は、不倫を乗り越え、その卓越した文才で女流作家として世に出て、51歳で出家という選択をして世俗から離れ、弱者に寄り添い反体制の姿勢を見せながら、最期まで筆を振るい続けた。

その瀬戸内氏が、昨年、11月9日、99歳で亡くなった。書店では、不謹慎にも、待っていましたとばかりに、瀬戸内氏の著作がずらりと並べられた。私はそれらには手を出さなかった。なぜなら、遅くない時期に、評論家たちの手で、「瀬戸内寂聴論」が書かれるだろうから、そのときそれを購入し、瀬戸内氏の全体像を通して、その生き様や思想を学びたいと思ったからである。もっとも、超多作であった瀬戸内氏の本を読み切る気力もなかったのだが。

そんなとき、ネットで、映画:『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』が、5月27日から公開されることを知った。私は、その手際の良さに驚きつつ、映画なら、短時間で、瀬戸内氏の軌跡を丸ごと理解できるのではないかと思い、すぐに観に行った。

私は映画館で本映画の宣伝用のチラシを読み、この映画が、中村裕監督によって、17年前から密着取材がされていたものだということを知った。それならば、瀬戸内氏の死後、すぐに公開上映という運びになっても不思議はない。

映画館には、平日の午前中で、コロナの余燼中にもかかわらず、数十人の観客が入っていた。自らの死を予期した瀬戸内氏が自ら演出したドラマに、その死後、多くの瀬戸内ファンを駆け付けさせたのである。まさに、「死せる瀬戸内、生けるファンを走らす」というところか。

映画の中の瀬戸内氏は、とにかく明るくて、かわいい。彼女を見ていると、多くの高齢者本に書いてある「高齢者はかわいくあるべし。かわいがられるべし」という指南がよく理解できる。若いころの瀬戸内氏は、とびきりの美人ではなかったように思うが、晩年の瀬戸内氏の頭を丸めた姿は、とにかくかわいい。いつも大きな口を開けて笑っている姿は、多くの人からかわいがられている。巷では、「人は見た目が9割」などというが、映画の中の瀬戸内氏の姿は、「高齢者になれば、見た目の美醜は問題ではなくなる」ことを実証しているように思う。

この映画では、やたらに食事の場面、ことに、ステーキ、すき焼き、すっぽんなどの肉食が登場する。これを見ていると、瀬戸内氏のその笑顔は、99歳になっても衰えなかった食欲(肉食)にあったのではないかと思わせるほどである。

瀬戸内氏は、26歳のとき、夫と子どもを捨てて、若い男と駆け落ちした。当時、世間は、そのような瀬戸内氏の「不倫」行為を非難した。瀬戸内氏は、その後、多くの小説を書き、それらの主人公に仮託して、そのときの自らの心情を描き出した。だが、残念ながら、それらは、「ポルノ文学」と指弾された。それに対して、瀬戸内氏は、46歳のとき、「愛の倫理」という本を出版し、自らの哲学を披露し、
「解剖学的には、男のセックスが画一的で、女のそれは、千差万別であるといわれる。それだけに、性への目ざめも、性への理解の道すじも、女の方が複雑で、千差万別かもしれない。いつの時代にも、女の新しいドラマが際限なく、うまれているゆえんだろうか」
と、世間に抗弁した。

瀬戸内氏のこの本での主張については、世間から賛否両論が寄せられたが、結果として、これで、彼女は衆人の注目を集めることに成功した。そしてこれは、女性の社会的地位の向上と相俟って、その後の瀬戸内氏の小説=「女の新しいドラマ」の売れ行きに絶大な効果をもたらした。

瀬戸内氏は、51歳のとき、出家し尼僧となった。「不倫」の女性から、一転して、「倫」の女性に衣替えしたのである。それは世俗の男性たちの興味本位の目を意識した、見事な転身であった。そのときの瀬戸内氏の出家の理由は、「男に飽き飽きした」というものであり、いささか不純なものだったし、尼僧になる修行も数か月のもので、本格的なものではなかった。

映画の中でも、瀬戸内氏自身が、「出家したが、酒は飲んでいるし、肉も食べている。ただしセックスだけはしていない」と、仏教の厳しい戒律を守っていなことを公言している。また、読経もたどたどしく、尼僧として身を立てて行くには不十分なように思われる。

ただし、不倫に走った女流作家が、出家して倫の道に身を委ねたというドラマは、話題性十分であり、世間の注目の的になった。しかも、時代が進むにつれ、瀬戸内氏のもとに、人生相談に訪れる女性が増え、次第にその輪が広がり、その法話を聴こうとする人たちは数百人にも及ぶようになった。瀬戸内氏は、小説家として筆を振るいながら、自らしつらえた舞台で、宗教家として、自らのドラマを演じることに成功した。

瀬戸内氏は晩年になっても、天台寺の住職を務めながら、京都に寂庵を構え、人生相談やら法話を積極的に続けた。

75歳のとき、瀬戸内氏は、
「私は婚家を飛び出し、幼い娘と、世間的には申し分ない夫を捨てたということで、長い間、悪女のレッテルを張られて、故郷へは、陽のあるうちには帰ってくれるなと、亡父に言い渡されたが、後悔はしていない。あの時、もし、それを決行しなければ、今の私はいないのだし、私の作品は生み出されてはいなかった。私は夫や子供を捨て、良妻賢母のレッテルを引きはがした時から、何ものにも替え難い自由を得た」
と、吐露している。

自由を得た瀬戸内氏は、晩年、自らの人生に新たなドラマを付け加えた。地震や洪水の被災地に赴き、救援活動に携わり、被災者の人生相談に乗り、法話を行ったのだ。さらに、反戦運動や反原発運動も行うようになった。

瀬戸内氏は、真の宗教家ではなく、生粋の反体制運動家でもなかった。だが、それらの行動は、常に、話題性を提供した。腰の圧迫骨折にもめげず、車いすで国会議事堂前のデモの支援に駆け付け、自ら、ドラマの主人公を演じたこともあった。

生前、瀬戸内氏は、自身の理想の逝き方について、「書きながら、そのまま、机に突っ伏して死ぬこと」と語っていた。その言葉通り、瀬戸内氏は死の直前まで、執筆活動を続け、万巻の書を残した。

瀬戸内氏は、「不倫」に走った女流作家から、尼僧となり、社会運動家としての姿も見せ、しかも死後も予測して、あらかじめ、17年前から映画としてその姿を撮り残し、ドラマの主人公を演じておいた。瀬戸内氏は、天性のエンターテイナーであった。

                                   

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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。