日本酒の量産化を可能にした伊丹鴻池の山中新六は、その酒造技術を『童蒙酒造記』(1687年頃)の中に記している。しかし、もともとは奈良の興福寺の醸造技術書が、摂津に持ち込まれ、その中に量産化の技術が載っていたとされている。粕取焼酎のルーツでもある「柱焼酎」のことが『童蒙酒造記』の記述にあることは前述したが、室町時代の農具の発達、牛馬の農民所得の普及、肥培技術による地力の強化、水稲品種の改良や雑穀、灌漑技術の進歩などの農業の生産性向上の進歩が時代背景としてあったと考えれば、日本酒の酒粕を蒸留し、農民がその粕取焼酎の下粕を肥料にしていたとしても、想像に難しくない。
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