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「南大東島に行ってきました」(日比恆明)

【特別リポート】
「南大東島に行ってきました」

日比恆明氏(弁理士)

 沖縄本島の南東4百キロ先に浮かぶ孤島の南大東島に南大東島に行ってきました。

  一般には馴染みの無い島ですが、8月、9月の台風シーズンになるとテレビのニュースには必ずといっていいほど取り上げられています。南方で発生した台風は南大東島を通過するからです。島には気象庁の支庁があり、気象を常時観測しています。地理的には、宮古島よりも緯度は高く、小笠原諸島よりも緯度は低い位置にあります。
 しかし、沖縄諸島とは離れて
おり、まさに絶海の孤島という感じです。島は珊瑚礁が隆起して出来たものであり、海岸線は断崖絶壁でリゾート地のような白浜はありません。飛行機の便も悪く、観光地としては成り立たないため一般には馴染みの薄い島と言えます。

 Google Mapで見た南大東島の航空写真です。この島は比較的近年になってから日本の領土となり、1885年に領土宣言がなされた経過があります。この頃の世界は今と違って緩やかであったようで、未発見の島をいち早く発見して自分のものだと宣言すれば自国の領土となったようです。もともと無人島でしたが、1900年から八丈島の島民が移住してから開拓が始まりました。島は平坦で南国特有の風土があり、砂糖きびの栽培に適していることから、島全体を砂糖きびのプランテーションに開拓しました。航空写真でも判るように、島の畑は碁盤の目のように四角形に区分けされていて、計画的に開発されたことが判ります。明治政府による砂糖生産の奨励もあって、島は活気がありました。

 戦前はこの島全体が民間の砂糖生産会社の私有地であり、民間会社が行政、治安、経済を統治していました。戦後は米軍による軍政下にありましたが、沖縄返還により日本国の行政地域となり、島一つが南大東村という地方自治体となった経過があります。島の周囲は21キロメートルで、二周したらフルマラソンができる程度の大きさです。絶海の小さな島なのですが、決して貧しい島ではありません。南大東島での特産品は粗糖なのです。政府は国内食料の自給率を向上させるため、粗糖の原料となる砂糖きび生産農家を厚く保護しているのです。農家には価格調整金を支給して砂糖きびの育成を継続してもらっているのです。簡単に説明すると、輸入した安い粗糖には関税をかけ、その関税を財源にして農家が経営を続けることができる額の調整金を支給しているのです。また、不作になったり台風による被害が出た場合にも支援金が支給され、農家の経営は安定しているのです。島には大金持はいませんが、それぞれ余裕のある生活をされてみえます。島では金を使う所もなく、年中暖かいため衣類もそれほど必要としないことも理由でしょう。

 私が縁もゆかりも無い南大東島に関心を持ったのは20年ほど前のことでした。戦時中に南大東島を警備していた陸軍36聨隊(鯖江聨隊)の参謀であった原という人物から駐屯していた当時の思い出話を聞いたことから始まりました。日本陸軍は、米軍は沖縄本島に上陸する前に南大東島を攻撃しすると予想していたようです。このため、鯖江聨隊は玉砕することを覚悟で南大東島に進駐したそうです。牛島司令官は涙を流しながら、原参謀に南大東島に赴任する辞令を渡した、とお聞きました。しかし、米軍は南大東島を攻略する価値が無い、と判断して上陸せず、鯖江聨隊はほぼ無傷で帰還したのでした。牛島司令官は自決しましたが原参謀は生還し、運というものが全く逆転したのでした。

 このような思い出話を聞き、生きている内に一度は南大東島に出掛けてみたいと考えていました。2012年、ふと思い立って渡航することにしました。砂糖きびばかりの島でしたが、本土とは違った社会、風景が見かけられ、楽しい旅行となりました。この旅の思い出は、『南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2012年』とタイトルしたブログに掲載してあります。URLは下記のようになります。
https://blog.goo.ne.jp/necker

 さて、それから10年が経過した2022年になって、私は南大東島を再度訪れてみたくなりました。島がどのように変わったかを確かめるためです。しかし、2020年から国内各地で発生したコロナウイルス感染のため、渡航は困難となりました。島には医師一名、看護師一名の診療所があるだけの貧弱な医療体制で、コロナ感染者の対応が全くできません。万一、コロナウイルスが島中に拡散して患者が増えても、エクモなどの医療機器は無く、対処の方法がありません。
 そこで、村役場が立てたコロナ対策は、何と「鎖国政策」でした。村役場と業者が提携し、観光客がホテルを予約できないようにしたのです。島内には4つしかホテルがありません。全ホテルが協力して、重要な業務に係わる人やコロナワクチンを接種したことを証明できる人以外は宿泊予約を断ったのでした。この方法は原始的なのですが、島民には多少の不便を我慢してもらうことでバンデミックを防ぐことができます。その成果があったようで、南大東島ではコロナ禍とはならなかったようです。

 これまで、島では毎年豊年祭が盛大に開催されてきたのですが、コロナ感染拡大中は自粛していました。村役場のホームページには2022年(令和5年)の豊年祭中止の告知を掲示してありました。全ての行事を中止し、神社で関係者だけの式典を行ったようです。
 こうして、コロナ騒動の最中では、南大東島に渡航しても宿泊できるホテルが予約できず、年一回の豊年祭も開催できない状態が続いていました。しかし、今年(2023年)5月になってコロナウイルスが第5類に分類され、旅行などの行動が緩やかになりました。このため、村役場でも豊年祭を開催するかどうか協議し、4年振りに開催することに決定しました。これで、私は11年振りに南大東島を訪れることができました。

 島で唯一の四階建てのホテル屋上から島の中心集落を撮影しましたが、町並みは11年前とほとんど変わっていません。人口は増加せず、微減なのですから当然でしょう。写真中央にある交差点が島で一番の繁華街です。交差点の奥の方に進むとスナック、居酒屋が並ぶ歓楽街(歌舞伎町とは比較にならないが)に続き、交差点の手前の方には雑貨店、スーパー、床屋などが並んでいます。ただ、11年もの時間が経過すると経営者の高齢化、店舗の身売りなどにより、建物はあっても閉店していたり、経営者が変わっていることもありました。前回の旅行で知り合った人達も何名かは亡くなられていました。

 交差点の反対方向にある住宅街を撮影したもので、住宅が密集しているように見えますが、島の居住世帯の半分はこの集落に集中しています。この集落から少し外れたら延々と砂糖きび畑が続いているのです。各家屋は内地と違って特徴のある形をしています。屋根が広くて傾斜が緩やかなのです。屋根が広いのは雨水を集めて生活用水にするためであり、傾斜が緩いのは台風による風圧を防ぐためです。また、二階建ての住宅が少ないのも特徴です。土地が余っているので二階にする必要がないからでしょう。写真の右上にある工場は砂糖きびから粗糖を生産する大東糖業の建物です。

 毎年9月22日と23日は村を上げての豊年祭が開催されます。初日は各集落からの神輿と山車が大東神社から村役場まで練り歩き、翌日は村役場から大東神社まで神輿と山車を戻すことになります。その間に、大東神社で相撲大会が開催され、夜は懇親会や演芸会が開催されるのが毎年の行事となっています。
 問題は神輿の担ぎ手なのです。島には6つの集落があり、それぞれが神輿を持っています。しかし、集落によって人口が違い、大きな集落と小さな集落では9倍近い格差があります。すると、小さな集落では神輿を担ぐ若手の人数が少なく、中高年の住民も参加しなくてはならなくなります。若手だけが担ぐ集落の神輿は元気があるのに対して、小さな集落が担ぐ神輿は中高年の体力に合わせるため動きが遅くなっていました。

 各集落では手作りの山車を運行していましたが、牽引するのは日頃畑仕事で使っているトラクターで、山車は砂糖きびを集荷するための台車でした。毎年のことなので、山車の飾りつけなどは慣れているようです。山車には太鼓、鉦などが置いてあり、小中学生が乗り込んでお囃子をしていました。前回と違っていたのは、今年は高齢者のための山車が参加していました。島には社会福祉協議会が運営する高齢者生活福祉センターがあり、ここに通う高齢者を乗せていました。足腰の弱った高齢者を集落から離れた大東神社まで連れ出してお祭に参加させよう、という趣旨のようでした。
 山車の先頭には引き綱が結ばれ、引き綱は幼児、小学生が引いていました。狭い島の中からこれほど多くの子供が出てくるのには驚かされました。この島の人口は1202人ですが、14歳以下の児童は186人もいて、人口比では15%以上になります。離島といっても過疎化とは縁遠く、中年、若者が多い島なのです。65歳以上の高齢者も311人住んでいるのですが、高齢化率は何と25%であり、全国平均の28.4%(2020年)よりも低いのです。全国的に過疎化とか限界集落とか言われ、高齢者だけが居住する集落が増えています。しかし、南大東島は高齢化や過疎化とはほど遠い、若い人達が住む社会なのです(2023年8月31日の統計)。

 大東神社では広場があり、ここで大東踊りが始まりました。要するに盆踊りの類型なのですが、秋祭りに盆踊りをするのは何だか不思議な感じがしますが、南大東島では何でもありなのです。元々は無人島であったので何の風習も習慣も有りませんでした。そこに八丈島からの移民が上陸し、その後になって沖縄の人達が働くために入植した経緯があります。関東圏の文化に沖縄の文化が入り交じって、ごちゃ混ぜになったのが南大東島の風習なのです。
 そもそも、沖縄には本州にある日本神道の歴史は無く、全く違った琉球神道が存在していました。このため、写真にあるような鳥居を建立する風習もありませんでした。沖縄県で日本神道の慣習による秋祭りをするのは南大東島くらいのようです。なお、沖縄本島には日本神道による神社が5社ありますが、これらは沖縄返還された1972年以降に創建されたようです。

 豊年祭の初日午後には小中学生による子供相撲が開催されました。選手が土俵入する前に司会者により選手名が紹介されるのですが、皆それぞれ自分のしこ名を持っています。好きな相撲取りのしこ名を使っていました。土俵の廻りは観客席ですが、同級生達が応援していました。島には小中学校がそれぞれ一校しかないため、応援する皆様は選手と顔なじみです。なお、島には高等学校が無いため、中学校を卒業すると沖縄本島にある高等学校に進学します。このため、応援席には高校生の年代の若者は見かけられませんでした。

 この日、NHKの沖縄支局のクルーが豊年祭を取材に来ていました。毎週日曜日の午前8時から放映される「ちいさな旅」のための取材なのだそうです。NHKが南大東島を放送するのは台風の時だけ、と思っていたら珍しく特集番組を制作するようです。しかし、これはNHKによる地方に住む受信者へのサービスかと思われます。現在、大都市での放送受信料の徴収率は50%を切っているようです。実はNHKの放送財源の多くは地方に住む受信者からの負担で成り立っているのです。このため、NHKでは全国のあちこちで取材を続け、その
地方を全国に紹介しているのです。何年間に一回位はその地方を紹介することで、その地に住む受信者に納得したもらうためでしょう。こんなサービスは民放ではあまりやりませんが。

 この日、部落のあちこちでは家族や知人との宴会が見かけられました。この家庭では庭にある芝生の上で飲食をされてました。沖縄本島や本州に住む親戚が来島し、実家などで懇親を深めていました。特に、今年は4年振りの豊年祭であることから、多くの親戚や兄弟が里帰りされてみえました。

 島の中心には地元で有名な「大東そば」を提供する食堂があります。前回に出掛けたときの経営者は高齢になったので、親戚の娘に経営を引き渡していました。この食堂で出された「そば」とは小麦粉を練って腰を強くしたうどんです。汁は塩味で、関西のうどんよりも塩味が強い感じがしました。しかし、ラーメンのようにくどくて後味を引くような出汁ではないため、毎日食べてもあきがこないでしょう。

 繁華街の交差点の角という絶好の位置には「スーパーミナミ」という雑貨店が営業していました。前回の旅行の時は「大盛商店」という屋号でしたが、この11年の間に経営権が2回ほど変わり、現在の経営者は 3人目ということでした。営業時間は午前6時から午後11時まででコンビニストアーと全く変わりません。雑貨店なのですが、弁当、煙草から食肉など、生活に必要な商品はほぼ揃っていました。

 ここで驚いたのは各種のデビットカードが使用できることでした。前回はデビットカードは使用できず、全て現金払いでした。離島にもデジタル化が進んできたことが実感されました。
2011年には那覇との間に高速光ファイバー回線が設置されたので、技術的には可能だったのでしょう。しかし、島内にある店舗を回ってみたのですが、クレジットカードを受け付けてくれる店舗は見つかりませんでした。仮りに島の店舗がクレジットカードに対応したとしてもそれほど利用されることはないでしょう。島内では大きな買い物をすることは稀であり、また、店舗の方も高額な商品は置いていないからです。

 南大東島には小さいながらゴルフ場もあります。「南大東島ゴルフ倶楽部 銀ちゃん」というのが正式名称のようです。ショートコースですが9ホールあり、ティーの位置を変えて2周することで18ホールになるのだそうです。太平洋を目の前にしてボールを打つのは気持ちの良いものでしょう。
 グリーンフィーは9ホールで2千円とのこと。これで経営は成り立つのか不思議でしたが、30年近く運営されているので成り立っているのでしょう。ゴルフ会員券は有りませんが、3万円を払うと1年間有効の会員となることができ、会員には9ホールが千円の割引になる特典があるそうです。

 この建物がゴルフ場のクラブハウスですが、何だか建築現場の仮設住宅みたいです。それも当然で、ゴルフ場の所有者が建設会社なのだからです。クラブハウスは芝の整備機械や肥料などの倉庫も兼ねているようでした。受付カウンターの奥では中年のマネージャーがテレビを鑑賞しながら客待ちしていました。南国特有のノンビリした風情となって、ほのぼのとした感じを受けました。

 島を巡り廻ったのですが、驚いたことに何処に行ってもゴミが落ちていないのです。ペットボトルから煙草の吸殻までほとんど見かけられませんでした。島の人からの話では、年に二回ほど集落総出で清掃活動をするそうですが、それだけではなさそうです。島民の全てにゴミを出さない意識が強いのではないかと思われました。小さな島なので、各人が勝手にゴミを放出していたなら、島中がゴミだらけとなってしまいます。ゴミを出さない、ゴミを見つけたら積極的に収集するのが習慣となっているようです。
 写真はあちこちで見かけられたゴミ箱で、瓶、缶、ペットボトル本体、ペットボトルのキャップと分類して捨てるようになっていました。東京の路上でゴミが多いのは、このようなゴミ箱が少ないからだと思われます。しかし、東京でゴミ箱を設置したら、家庭ゴミで溢れてしまうかもしれません。

 バイクを借りて砂糖きび畑を走行していると、徐々に昔の感覚が戻ってきました。30年近く前には毎年のようにカリブ海のキューバ、ジャマイカ、プエル・トリコなどに出掛けていました。その時の記憶が頭に浮かんできました。紫外線の強烈な太陽光、砂糖きびが続く畑、乾いた空気、南国特有の匂いなどがカリブ海の島国と似ているのです。バイクに乗りながら、そんな思い出が湧いてきました。

 南大東島は遠い島です。10年後にも出掛けてみて、どのように変化しているのかを観察してみたいものです。しかし、私の寿命が先に終わり、二度と渡航できないかもしれません。運が良ければ再度訪れてみたいと願っています。その機会が来るのを楽しみとしております。