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「親日『台湾』から見た日本」全三回-③「台湾人が敬愛する日本人」

【短期集中連載 全3回】
「親日『台湾』から見た日本」
第三回「台湾人が敬愛する日本人」

簡 憲幸氏((株)IT eight 代表取締役社長、国際事業コンサルタント)

◆台湾人が敬愛する日本人

片思いと言うのは悲しいものです。台湾人は日本統治時代の日本人のことをよく覚えています。国民党の反日教育の嵐の中にあっても、台湾人は敬愛していた“日本人”を忘れることはありませんでした。

しかし台湾に縁のある日本人のことを、現代の日本人はほとんど知らないのです。なぜ台湾人は100年前の日本人のことを覚えているのでしょうか? なぜ今の日本人は忘れてしまったのでしょうか? 答えは簡単です。台湾人は日本人の恩義を語り伝えているからであり、日本人は語り伝えていないからです。一言で言えば「教育の問題」なのです。

以下、台湾人が尊敬している日本人を列挙しましょう。

政治または行政面で言えば、この4人、つまり「児玉源太郎」「後藤新平」「新渡戸稲造」そして「明石元二郎」です。

台湾の第4代総督・児玉源太郎は、軍部による統制を嫌い官民による産業振興を目指します。
医師の後藤新平はその見地から台湾の改革を断行し、アヘンと伝染病の根絶を目指し、医大を作り都市開発を進めました。
農学博士・新渡戸稲造は、製糖産業での産業振興に目をつけ、台湾を台湾は世界有数の生産地としました。
児玉源太郎が他界して、その神社を江の島に作ろうという計画が起きたものの、11万円の建設予算に、内地では3千円しか集まらず、それを知った台湾人は2週間で不足分を集めてしまいました。

また第7代総督・明石元二郎の台湾での人気はずば抜けていました。彼は、台湾電力を設立し日月潭水力発電事業などを行い、貨物輸送の増大を見越し鉄道敷設を広げ、そして教育差別をなくすための台湾新教育令など、実に様々な改革をしてきました。

八田與一の功績も彼の指導のもとでした。しかし赴任後一年ほどで故郷の福岡で他界をしてしまいます。明石総督は「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言により、遺体は台湾に戻され葬られました。台湾人の日本人への感動は極まりました。

治水工事では、なんといってもアニメや映画にも登場している、当時東洋一の大水利事業「嘉南大圳」を完成させた八田與一です。

また西郷隆盛の息子である西郷菊次郎が台湾の東北部の宜蘭庁長として任命され、住民の悲願であった暴れ川の宜蘭川の氾濫を抑えるための宜蘭川堤防建設を行いました。後に、住民から慕われたことで「西郷庁憲徳政碑」と刻んだ石碑を建てられ、堤防は「西郷堤防」と命名されました。

嘉義県東石郷副瀬村「富安宮」に、森川清治郎巡査が「義愛公」という神として祀られています。彼は、貧農の税金を下げさせようと奔走するのですが叶わず、それどころか戒告処分を受けてしまいます。農民を助けられなかった自責の念に駆られ自害をします。それを知った農民たちは悲嘆にくれます。しかし疫病が流行っていたころ、農民の枕元に訪れた森川巡査が「飲み水に注意」するよう注意を喚起したことで、死んでまでも私たちを心配してくれる、として神として崇められるようになりました。

同じく巡査で苗栗県獅頭山の権化堂で神として祀られている広枝音右衛門警部も地元では知られています。彼は台湾人2000人の海軍巡査隊の総指揮官としてフィリピンのマニラに遠征。現地で玉砕覚悟の攻撃を命じられたのを回避させ「責任は私がとる」として自決して台湾人の部下を守りました。

その他、台湾の教育に殉じた日本人6人のことを「六氏先生」と呼び、芝山巌神社が創建されました。さらに10年もの研究の末に「蓬莱米」を開発し台湾の農業を飛躍的に伸ばした末永仁磯永吉も知られています。

医療では台湾人の平均寿命が30歳ぐらいから60歳まで延ばしたと言われる医師で台湾医学専門学校校長の堀内次雄が知られています。

台湾初代学務部長で日本近代音楽の育ての親伊沢修二、さらに台湾主要都市の上下水道を完成させ浜野弥四郎、などなど台湾で活躍し慕われている日本人に限りがありません。

このように台湾に貢献した日本人たちを「神」として崇め尊敬してくれる人たちが、今でも台湾にいることを私たち日本人は知る必要があります。

彼らの台湾に残した功績は「日本精神(リップンチェンシン)」として、今も語り継がれています。

◆台湾人に学ぶ日本の魂

さて「ありがとう」という感謝は、目先の損得勘定で使う言葉ではありません。相手を思う気持ちの表れです。自分が得したから「ありがとう」ではありません。優しさ、思いやり、慈悲、愛情、献身、など相手の心に触れた時に自然と湧き出る魂からの言葉が「ありがとう」なのです。

台湾の人々は、日本統治時代の日本人に触れて、戦後70年以上が経っても「ありがとう」の気持ちを持ち続けてくれています。

日本統治時代の日本人は、政治家でも技術者でも教師でも警官でも医師でも、それは「当たり前」のこととして、自分のなすべき仕事であり「義務」して行っていました。褒められることを目指していたわけではありません。

しかし日本人の「義務」は「使命」であったことを忘れてはいけません。「台湾を日本と同じように、いや日本以上に一等国として自慢できるようにしよう」という使命をもって取り組んでいました。

多くのそうした日本人を見て、台湾人の心が動いたのです。その感動と感謝を、今の台湾の人たちは持ち続けています。

振り返って、今の日本の社会はどうでしょうか? 今の日本人はどうでしょうか? 目先の合理主義に美徳はありません。個性だと称した利己主義に友愛はありません。自己愛だけの自由主義に感謝はありません。

100年前に台湾に残した日本の魂を、今の日本人は学びに行く必要があるのではないでしょうか。しかし、台湾において日本の魂を直接に受け継いだ方々を「日本語族」と言いますが、もう80歳、90歳です。またその同時を知る「湾生」と呼ばれる台湾生まれ育ちの日本人も80歳、90歳です。

時は冷酷です。今の日本人にとってできることは限られつつあります。

いまこそ、日本において「台湾に残されている日本の魂を学ぶ」ことが必要かと思われます。日本人がかつての日本人を、台湾で学ぶのです。この学びは、アジア、そして世界へとつながってゆくと信じています。

【日本国への提案】

日本国と中華民国とは、国民党の馬英九政権時代に2011年に日台航空協議においてオープンスカイ協定を締結し、日本への台湾人観光客が驚異的に増加しました。また2013年には日本は排他的経済水域の一部に日台双方の漁船が操業できる「適用水域」を設けるなどの「漁業秩序の構築に関する取決め」(日台民間漁業取決め)に調印しました。

とくに「日台民間漁業取決め」は、海上の国境線を定めたようなものであり、日本と台湾とは中国を無視して決断したこととして画期的でした。

今後は、さらに日本国は中華民国との関係回復のためになすべきことがあります。

アメリカ合衆国が台湾と結んでいる「台湾関係法」がありますが、これに加えて今年にトランプ大統領が署名した、アメリカ合衆国と台湾の全レベル高官の相互訪問を促す「台湾旅行法」の2法案を基本として「日本版・台湾関係法」を制定します。

その趣旨は、
①国家間の外交関係の維持
②軍事面での協力
です。
これにより台湾を実質的な国家として認め、国家間の交流を促進させます。また覇権国家からアジアを守り、アジアの健全な発展に寄与することは言うまでもありません。

ここで問題なのが、中華人民共和国が「一つの中国として、中国大陸、マカオ、香港、台湾は不可分の中華民族の統一国家・中国である」という主張をしています。この主張に対して、日本国としては「その主張を理解する」とだけに留まれば良いと思います。二枚舌と言われようが気にすることはありません。日本国と中華民国とが仲良くなることに、他国の侵害は受けません。

最終的には「日華安全保障条約」「日華平和友好条約」の提携を目指します。つまり新たに中華民国(または台湾)を国家として認めることです。これは「再び」ではなく「新たに」にです。なお「日華」として日本国と中華民国として表現していますが、現在の中華民国政府が「台湾」を好むのであれば「日台」でも良いかと思います。

こうした提案に対して「中国が認めない」「そんなことは不可能だ」と言って簡単に諦める人もいるでしょう。しかし台湾への義を通すために、心ある日本人の誰かが声を上げる必要があります。「中華民国(台湾)は、日本にとって大切な国家である」と。

 

(了)

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簡 憲幸(かん のりゆき)((株)IT eight 代表取締役社長、国際事業コンサルタント)

台湾系華僑二世。1954年東京生まれ。日本大学芸術学部卒業後、アート・ディレクター、コピーライター、プランナー、マーケッター、文筆家として活動し、その後、新規事業コンサルタントとして、またアジアを中心とした海外進出コンサルタントとしても活動、また国際人、文化人として幅広く講演活動、交流事業を行っている。著書『リーダーの教科書』。(一・社)TOURI ASSOCIATION理事長、「東京台湾の会」事務局長等の役職を多数兼任している。