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福島第一原子力発電所視察と笹の川酒造見学会 [ 清話会 取締役事業部長 佐々木 俊弥 ]

福島第一原発構内

 

 SJCメンバーの学校時代の同級生が、福島第一原発の所長をやられているというご縁から、原発構内の見学をさせていただくこととなった。

 

 事前の説明では、構内の放射線量がかなり下がっており、いまや防護服やマスクを付けずに入所できるとのこと。かつては福島第二原発のPR館として利用していた施設をリニューアル、昨年11月に廃炉資料館としてオープンし、2020年東京五輪に向け安全性をアピールするためにも、東京電力では見学を積極的に受け入れている、という。

 

 2011年の事故から8年。廃炉まで30~40年もかかると言われるなか、実際にこの目でどうなっているのか確かめたいと考えるメンバーは予想以上に多かった。

 

 廃炉資料館は富岡町にある。かつては16,000人の住人がいたが、現在は13,000人ほどだ。そこから東京電力の専用バスに乗り、福島第一原発へは約20分の道のりだ。国道6号線を北上し、大熊町に入ったあたりから帰宅困難区域となる。道路の両側は人の住まない廃墟がしばらく続く。地震で崩れ落ちたままのスーパー、自動車販売店、飲食店などが無残な姿をさらしている。

 

 この道を通行できるのは四輪の車のみで、二輪車や自転車は通行できない。各家の玄関前はフェンスで塞がれている。ただ、この4月から避難指示が解除され、1年に30回まで帰宅可能となった。

 

 とは言え、少なくとも車窓からは、道路沿いの民家に人影は見られなかった。

   

 

原発構内の線量は劇的に下がった。線量計を各自携帯し、1時間の見学後の線量は0.02mSV、歯医者でX線撮影をした程度であった。「廃炉」の道筋は見えてきた。しかし、帰宅困難区域の廃墟ぶりを見ると、「復興」の二文字が見えづらい。なぜなのかを問うと、草木、道路、家屋、瓦礫等々の除染を行う人手を回す余裕がないから、との回答であった。

 

 

 

 

 

 

廃炉に向けて抱える3つの課題

 

 初めに、廃炉資料館で福島第一原発の概要、3.11の津波の状況と被害状況、復興・廃炉に向けてのこれまでの取組みと課題、今後の工程などにつき、担当者から説明があった。

 

 事故当時、1~3号機は運転中、4号機は運転しておらず、原子炉の中に燃料がなかった。地震と津波で電源を失い、燃料を冷却する機能が失われた。そのため1~3号機の原子炉にあった燃料が溶け落ち、現在は「燃料デブリ」として容器の下のほうにある。

 

 廃炉に向けて、今抱えている課題が3つある。

 

 1つ目が1~3号機にたまった燃料デブリを安全に取り出すこと。2つ目は 使用済み燃料プールが1~4号機にあり、そこにある燃料を安定的に冷却しながら取り出さなければならない。4つ目は汚染水の問題。

 

 今年度、まず1~3号機のどれから燃料デブリを取り出すかと、その方法を確定する。そして事故発生から10年目の2021年、そうして決めた初号機からの燃料デブリ取出しを開始する。

 

 使用済み燃料プールからの燃料取り出しはすでに4号機で終え、3号機は4月に開始した。1,2号機は2023年度に開始予定とのこと。

 

 汚染水対策もかなり進んでおり、冷却水は循環させて使用する、地下水が染み込んでこないようにするなど、これ以上増えない対策を立てながら進められている。

 

 実際に現場に足を運ぶまで、正直、ここまで廃炉作業が進んでいるとは思わなかった。とは言え、復興にはまだまだ長い道のりだ。

 

 

ピーク時に7,000人以上いた作業員も、現在は3,400人と半分以下だ。2015年に大型休憩所が完成、快適な空間での休憩、ミーティングができるようになったほか、大熊町の給食センターでつくられた福島県産の食材を使った温かい食事を食べられる食堂や、シャワールーム、コンビニエンスストアもあった。

原発構内では写真撮影禁止だが、職員の方が撮影した写真を後日送っていただき、本誌への掲載も許可をいただいた。

 

 

 

 

 

 

東北初のウィスキー蒸留所

 

 笹の川酒造は1765年(明和2年)に創業、2015年に250周年を迎えた郡山駅から車で15分ほどの老舗の酒蔵だ。が、同じ敷地内に、東北初のウィスキー蒸留所・安積蒸留所も構えている。専務の山口恭司氏が、そのいきさつを語ってくれた。

 

 

 創業以来ずっと日本酒を造ってきたが、太平洋戦争時に軍から合成酒を造ってほしいと頼まれ、その関連で焼酎なども造るようになった。戦後、合成酒が要らなくなり、清酒を造るにも米の石数が足りない。当時、郡山に進駐軍が来ており、山口氏の祖父が米兵に飲ませたいということでウィスキーを造り始めたのがきっかけという。

 

高度成長期の波に乗り、日本のウィスキー市場は拡大の一途をたどった。が、酒税法改正の影響もあり、1983年を境に市場は縮小に転じた。安積蒸留所でも当時2,000円ほどのウィスキーが、酒税分の1,500~2,000円上乗せで4,000円前後の価格になった。以後、焼酎に市場を奪われ、2008年まで25年間、ウィスキー〝冬の時代“となった。その間、安積蒸留所では原酒も枯渇、しばらくウィスキー造りを休止、日本酒造りに専念することとなった。

 

 2015年、NHK朝ドラ『マッサン』の影響でウィスキーブームが到来、安積蒸留所もウィスキー造りを再開すべく製造設備を一新、日本酒蔵の敷地内に蒸留所を再建し、2016年の春から蒸留を再開した。そこから今年で3年、暮れには限定品のウィスキーを出そうと計画中だ。

 

 福島県は今年、全国新酒鑑評会で「金賞受賞数7年連続日本一」となった。笹の川酒造は、もともと南部杜氏だったが、杜氏というのは「変える」ということになかなか頑固で、紆余曲折の末、現在は山口氏の兄嫁が杜氏をやっているとのこと。日本酒造りも変革を続け、金賞は逃したものの2年連続で入賞、来年は金賞受賞酒蔵の一角に名を連ねるべく、さらなる磨きをかけている。