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「なぜ拠点移動は遅れるのか?」(小島正憲)

小島正憲氏のアジア論考
「なぜ拠点移動は遅れるのか?」

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

8月23日、ついに、トランプ大統領は、米国企業に中国からの撤退を要求した。

もし、トランプ大統領が本気でこれを実行したら、米国企業に引き続き、日本を含め各国企業が次々と撤退するため、中国経済はたちどころに破綻するだろう。事態は予断を許さないが、いずれにしても、米中貿易戦争勃発後、中国企業も含めて、多くの外国企業がわれ先と中国から撤退・拠点移動をしようと、慌てふためいている。

ただし、わが社を含めた中国進出企業、とりわけ労働集約型日本企業の多くは、すでに、おおむね撤退を完了させている。中には、逃げ遅れている企業もあるが、それには特別な理由がある。現実は、学者やジャーナリスト、海外進出コンサルタントなどが説くような理論的? で筋道だったものではなく、もっと泥臭いものである。

14億人とも言われる人口を擁している中国も、2003年ごろから人出不足に陥った。それと共に、人件費はどんどん上がっていった。

2007年末には労働契約法が改正され、労働者がストライキをすれば、必ず経営者側が負けるハメになった。その結果、2008年ごろから、中国に蝟集していた世界各国の労働集約型企業は、新天地を求めて、拠点移動を始めた。

わが社も、2010年にバングラデシュ、2015年にミャンマー、2018年にフィリピンに中国から移動して、それらを軌道に乗せた。同時に、一時は5工場で1万人を雇用していた中国の会社を、今では1工場=500人規模まで縮小した。

それでも今の日本本社の利益は、かつての中国全盛時代を下回ることはない。つまりわが社は、この10年で、見事に、1990年代初頭の日本から中国へという移動に次ぐ、二度目の拠点移動を成功させたということである。

もちろん同業他社も、中国からベトナム・カンボジア・ラオス・インドネシアなどに、拠点移動を完了している。しかも彼らは、米中貿易戦争勃発で慌てふためいて拠点移動してくる企業を横目に見て、しっかり次の戦略を練っている。

一般に、東南・南西アジアに進出し、その工場を黒字化するには、5年間を要すると言われている。したがって後発転入組が、一本立ちするころには、先発組はその地を後にしているかもしれない。

とは言っても、拠点移動はなかなか難しい。人脈なし・資金なし・人材なしの三無の中小零細企業が、インフラ・周辺産業などが未発達な国に、先達なしで進出していくのは無謀ともいえる。だから海外進出は、常に倒産と背中合わせなのである。

それでも海外進出・拠点移動をしなければ、自滅・倒産が待っているだけである。まさに、「出るも地獄、残るも地獄」なのである。

わが社もこの30年間、豪州・タイ・韓国・ミャンマーなどにめくらめっぽう進出したが、大損をして撤退というハメになんども陥った。そこからわが社が学んだものは、進出する時から「撤退しやすい会社」にしておき、失敗しても、それを致命傷にせず、身軽に次の拠点に移動し、そこで金儲けのチャンスをうかがうという戦術である。いわば「神出鬼没」、「出処進退自由」が大事であり、常に拠点移動をしやすくしておくということが肝要なのである。 

それは理論的? には難しいことではない。つまり、「小規模の基幹工場(レンタル工場が望ましい)を作り、そこに技術や検査などの中枢機能を蓄え、経営は現地人に任せ、あとは下請け衛星工場を拡大し、生産キャパを広げる」という仕組みを作ればよいのである。

このようにしておけば、撤退するときには基幹工場のみをたためばよく、金銭的損害も少なく、労務負債も抱えなくて済む。もちろん、このような戦術は、わが社だけの得意技ではなく、韓国企業などがよく使う手でもある。

だが、そのような仕組みを作っておいても、拠点移動が遅れる場合がある。そこには頭の中で描いた戦術通りには進まない現場の泥臭い事情が絡んでくるからである。

学者やジャーナリストや海外進出コンサルタントなどの識者が、よく使うセリフに、「現地化」というものがある。それは文字通り、「海外に出たら、現地の人々の中に溶け込んで働くことが大事である」というものである。

たしかに、現地へ派遣された駐在員が現地化せず、いつまでも「お客さん」であっては、現地での事業の成功はおぼつかない。派遣駐在員にとっては、現地の言葉を覚え、現地人と寝食を共にして働くことが事業成功への近道である。そうすれば、当然のことながら、現地人との間の信頼関係も厚くなるからである。

だが、その反作用として現地化し過ぎ、現地妻ができてしまうことも少なくない。異国の娯楽も少ない地では、それもやむを得ないことと推察できるが、場合によっては、現地で家庭を築き、土着してしまうこともある。大企業ならば、妻子同伴で現地駐在ということも可能だろうが、中小零細企業では、ほとんどが単身赴任である。しかもそのほとんどが男盛りであるから、土着化も自然の成り行きであろう。しかし、これが拠点移動・撤退の場合のもっとも大きな支障になるのである。

土着した現地派遣幹部は、自らの生活基盤を、その地に定めてしまったわけであり、そこから再度他の国への転出はできない。したがって、その地が経営にとって不利になりつつあることがわかっていても、本社にはその事実をひた隠し、まだまだやれるという情報を流し、その地に留まろうと画策する。その結果、企業はズルズルとその地に居残ることになり、拠点移動のタイミングを逸してしまう。

昨今の中国残留組の中には、そのような例が少なくない。日本の妻子から縁を切られてしまい、日本にも帰ることができず、さりとて中国から他国に転出することもできず、中国の都会の片隅で呻吟している日本人男性も少なくない。

1990年、わが社は韓国から中国へ拠点を移動させた。1980年代中ごろから、韓国には日本から多くの縫製工場が進出していたが、わが社と同じように、さっさと中国へ拠点移動させた工場は少なかった。同業他社の派遣駐在員の多くは、現地化しており、拠点移動に消極的だったからである。そして、それらの企業は淘汰されていった。

余談だが、当時の韓国人男性は、現地で日本人男性が韓国人女性を伴侶にしていくことを、不快に感じ、日本人男性に強い敵愾心を持っていた。私は、それが、現在の日韓対立の遠因の一つになっているのではないかと思っている。

1997年の東南アジア通貨危機のとき、インドネシアに進出していた韓国企業の中にも同様の例を見ることができる。ここでも現地化し、土着し、家庭を持った派遣駐在員は、その地を動こうとしなかった。そのため多くの企業が遅れを取った。

それでも中には、親会社から、その工場を譲ってもらい、そこに居残り、イバラの道を選ぶ勇者もいた。後日談だが、2010年、親会社がインドネシア再進出を企図し、現地で経営を続けていたその勇者のもとを訪ねたという。

拠点移動ではないが、2008年、中国の青島にあった韓国企業で、面白い事件が起きた。当時、韓国企業の間では、経営に行き詰まっての「夜逃げ」が流行っていた。青島の韓国企業でも経営が悪化し、派遣されていた韓国人たちが共謀して、夜逃げを敢行したのである。

だが、韓国人の中で、一人だけ、現地の中国人と結婚し、土着している者がいた。他の韓国人たちは、彼から情報が洩れるのを恐れ、彼には知らせずに、一夜のうちに、全員姿を消してしまった。後に残された韓国人は、翌朝、何も知らずに出社し、見事に人質になった。

これが、拠点移動が遅れる大きな理由である。ことほど左様に、拠点移動に伴う人間模様は泥臭いものである。本社は現地事情を精査の上、断腸の思いで、拠点移動を決断しなければならない。

どうでもよい話だが、最近の高齢者向け断捨離関連本には、「断捨離の中で、もっとも難しいのは人間関係の断捨離である。ことに高齢男性は、女性関係をきれいに片付けておくことが肝心である。まちがっても、死後、相続の段になって、弁護士と共に、権利を主張する女性やその子が現れるというようなことがないように」と書いてある。

まさか海外から、追いかけてくることはないだろうが、現地化・土着には長期的視点での深い思慮が必要である。だが、しかし、そんなことを言っていると、ますます海外に雄飛しようとする日本の若者はいなくなってしまうだろうが。                                           

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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。