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「あさま山荘事件…あれから50年」(小島正憲)

【小島正憲の「読後雑感」】
「あさま山荘事件…あれから50年」

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

1. あさま山荘を「蛮行記念館」に

昨年、私は、あさま山荘を「蛮行記念館」とすることを思い立ち、所有者の代理人と購入交渉を行った。

あさま山荘の現在の所有者は、香港のキリスト教奉仕団体である。その団体の日本の活動拠点として正生會という組織があり、責任者を在日華人のG氏が務めている。

香港に電話をして、日本の責任者のG氏の連絡先を聞き、ダメ元でG氏に電話をしてみたところ、快く会っていただけることになった。東京駅のレストランで昼食を共にしながら、1時間ほど話をした。

私は、率直に、「あさま山荘を“蛮行記念館”にしたいので、私に譲っていただきたい。それが不可能ならば、2~3年間、お貸しいただきたい。再来年が50年という節目なので」と懇願した。価格については近隣の同様の物件の相場でお願いした。腹の中では、「なにしろ修繕済みとは言え、築60年を超す物件なので、そんなに吹っ掛けられることはないだろう」と思っていた。

G氏は、「香港の本部の幹部と相談して返事します」と言ってくださった。そのときの感触は悪くはなかった。しかし、あれから1年余、G氏からの回答はまだない。

《あさま山荘 2021年12月10日 撮影》

あさま山荘事件は、1972年2月19日に起こった。連合赤軍の残党が、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「あさま山荘」に、管理人の奥さんを人質として、28日まで立てこもったのである。当時、その間の警察との攻防が、テレビで全国に放映され、全国民がそれを凝視した。この事件は、不幸な犠牲者は出したが、連合赤軍側の全面降伏で終わった。

この事件後、連合赤軍のリンチ殺人事件なども明るみに出てきたことも相俟って、日本社会全体が、連合赤軍の常軌を逸した一連の行動に対して強い拒否反応を示した。もともと、学生を中心とする左翼運動は、1970年安保闘争の敗北後、急速に衰退していたが、この連合赤軍の一連の事件が、左翼運動に完全に終止符を打つものとなり、ほとんどの左翼活動家が戦線を離脱して行った。私も、その中の一人であった。

かつて私は同志社大学に籍を置いており、そこで主に学生運動を行っていた。当時の同志社大学における学生運動は、共産党系の民主青年同盟(略称:民青)と、反共産党系の社学同、革マル、中核など(総称:トロツキスト)の勢力が拮抗し、激しく闘っていた。

トロツキストの中には、あのよど号事件で北朝鮮に行った文学部の若林がいた。また経済学部にも連合赤軍に加担し、榛名山に行く一歩手前まで、連中といっしょに同行していたNもいた。

私は、たまたま姉からの強い影響で、高校時代から民青に所属しており、トロツキストたちとは一線を画していた。当時の民青中央の方針は非暴力であり、同時に同志社大学の民青も過去の反省から、たまたま非暴力闘争を強く志向していた。おかげで私は、殴られる程度の被害者にはなったが、加害者にならなくて済んだ。

だが、これはたまたま、私が非暴力を唱える組織に身を置いたからの結果である。現に私は、入学当初、トロツキスト(社学同)から強い勧誘を受けていた。あのとき、それに乗り、入る組織を間違えていれば、私は加害者となり殺人を犯していたかもしれないし、また反対にリンチで殺されていたかもしれない。

1960年代後半から70年代前半、私を含めた多くの学生たちが、共産主義思想にかぶれた。当時の共産主義思想は暴力革命を肯定しており、ことに「革命は銃口から生まれる」という毛沢東思想の影響を大きく受けていた。

トロツキストたちの中には、公共物の破壊やハイジャック、内ゲバ、リンチ殺人などという罪を犯すところまで行きついてしまった者もいる。それらの学生運動家(トロツキスト)の蛮行は、あさま山荘事件を契機に、社会から糾弾され、見放され、学生運動全体が急速に衰えて行った。その結果、学生運動家たちは運動から身を引き、その経歴を隠すようにして、社会に紛れ込んで行った。私も、その中の一人であった。

あれから50年、かつて華々しく闘った学生運動家たちは、民青系もトロツキストたちも、今や、後期高齢者になろうとしている。中には、すでに亡くなった者もいる。この数年、かつての学生運動家たちの中に、あの時期を回想する手記などを発表する者が出て来た。

第2章で紹介する『きみが死んだあとで』も、その一例である。しかし、彼らのほとんどが、かつて自らが行った蛮行を素直に語ろうとしていない。彼らは、自らの蛮行を厳しく総括せず、頬かむりしたまま、死んで行くつもりなのだろう。

私は、それを許してはいけないと思っている。彼らは、死ぬ前に、自らの活動を蛮行として認め、総括してから逝くべきである。私も例外ではあり得ない。私は、あさま山荘を遺し、そこを総括の起点として利用することを思い立ったのである。いたずらにあさま山荘を朽ちさせてしまうべきではないと考える。

来年2月、あさま山荘事件から50年の節目を迎える。私は、「蛮行記念館」構想を打ち出すには絶好だと考えている。年内にG氏へ再度連絡を取って、頼み込むつもりである。そのとき、G氏から高額の提示がなされたときは、蛮勇を奮って対処するつもりであるが、私の資力で及ばない場合は、かつての学生運動家のもとを、奉加帳を持って訪ねて回って、資金調達を行おうと考えている。

2.『きみが死んだあとで』
   映画・DVD : 代島治彦監督  マクザム発売  
   書籍 :代島治彦著  晶文社   2021年6月30日

代島監督は、この映画の作成動機を、
「若者の死は残酷であるが、若者を死なせてしまった者たちのその後の人生もまた残酷なのである。なぜなら若者の生と死の“記憶”とともに、若い死者に対する“贖罪”が一生かけてつづいていくからである。“贖罪”の意識は若い死者の肉親でなく、若い死者と生前に出会った人、若い死者と同じ時代を生きた人、全員に生まれる」
「18歳のきみ、山崎博昭が死んだあとで、彼らはいかに生きたか。きみの存在は、彼らをいかに生きさせたか」
と書き、それを描きたかったと述べている。

そして同名の本の発行については、
「14人のインタビューの中で、映画に収録できなかった部分で、1冊の本を作ることにした。せっかくならということで、映画が描く時代と重なるぼくの少年時代の“記憶”を書き下ろしたが、どうせならということで、当時ぼくが一番あこがれた元日大全共闘議長・秋田明大さんに会いに行き、その原稿もこの本に収録することにした」
としている。

映画は登場人物の慟哭までもリアルに伝えているので、視聴者にも当時の雰囲気がなまなましく伝わってくる。だが登場人物が素人ばかりなので、セリフがわかりづらく、生き残った人たちのその後の人生については、理解しづらい。それでも、補完的に発行された本を読むと、そこから生き残った人々の生の葛藤の様子がよく読み取れる。その意味で、この映画と本は一対であり、映画を観て本を読まなければ、代島氏の意図は理解できないだろう。

映画は、弁天橋の上で、山崎博昭くんの遺影が掲げられるシーンから始まる。本の方は、
「1967年10月8日、羽田・弁天橋で18歳の若者が死んだ。ベトナム反戦を訴えるデモのなかで当時京都大学1年生だった山崎博昭が殺されたのだ」
という書き出しで始まる。そして映画も本も、その山崎くんと大阪の大手前高校で同学年だった人たちのインタビューで進められていく。

彼らは、大手前高校の先輩である赤松英一さんの影響で、そのほとんどが中核派の活動家になり、山崎くんの死に慟哭し活動にのめり込んでいく。そしてその後、内ゲバなどに疑問を抱き、またそれに耐えられず、戦線を離れて行く。

映画と本から、その後の彼らの悲喜こもごもの人生を窺い知ることができる。ただし、代島氏が、「若者を死なせてしまった者たちのその後の人生もまた残酷なのである」と書いている割には、それらは「残酷」なものではない。

反対に、各人各様ではあるが、社会に埋没し、高度成長期の日本を生き延びた姿が描かれているのである。悩んだ挙句、死線を彷徨ったというような記述は少ない。なによりも、あの時代の自分の生き方への強い反省がない。

さらに言うならば、「反戦平和」を唱えていたにもかかわらず、それを成し遂げ得ず、資本主義社会を否定していたにもかかわらず、資本主義社会にどっぷりつかり、高度成長経済の恩恵を受けてきたことへの悔悟の念は、まったく表されていない。もちろん、自分たちの浪費の結果としての日本国家の大借金にも、責任を感じていない。

彼らはまだ生きている。今からでも遅くはない。罪滅ぼしを行うべきである。それでも、代島氏の映画や本に顔を出している彼らは、内ゲバなどの加害者になっていなかったという事情もあるだろうが、良心派とも言える。彼らの他にも、大手前高校で山崎くんと行動を共にした者は、まだ相当数いるし、あの当時、学生運動に身を投じていたものは数えきれないほどいる。それらのすべての人が、すべからく、自らの人生を総括し、若き日の「反戦平和」夢を実現するために、行動を起こすべきである。

ましてや加害者は、死ぬ前に罪を白状し、懺悔していかねばならない。私は、その総括の起点として、あさま山荘を「蛮行記念館」とすべく、行動を思い立ったのである。

本の最後の方で、代島氏は自らのことを「サカナヤ」だと書いている。代島氏は、「サカナヤ」について、
「マスコミは生意気がって権力や大人に反抗するヒーローやヒロインに仕立てる。その気になった本人が人生をかけて無茶なことを実行した場面をサカナ(ネタ)に仕立てる」
と書き、
「あの時代に、逮捕されたり、負傷したりした学生のその後の人生が無茶苦茶になったとき、どれだけのかつての取材者がその敗北した人生を見守り、支援し続けたか。秋田明大の名を売り物にしようとする“サカナヤ”は、利用価値のある間は秋田明大が逃げ帰った故郷の倉橋島まで追いかけてきた。そう、秋田明大の映画を作ろうとしたぼく自身が“サカナヤ”だった」
と述懐している。

この文章を読んで、私は、これは、あさま山荘事件を追いかけている私自身に、浴びせられている文章だと思った。

 

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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。