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「その後の友愛會」(日比恆明)

【特別リポート】
「その後の友愛會」

日比恆明氏(弁理士)

【友愛會発足の経緯】
台湾には「美しい日本語を台湾に残す」ための「友愛會」というグループがある。以前、私はこの会に何回か参加させていただいたことがあった。だが、2019年から始まったコロナ騒動で台湾への入国が制限され、参加できなくなった。しかし、今年3 月には自主検疫が廃止されて入国が自由になったことから、久し振りに訪台して友愛會に参加させていただいた。最初に参加したのは2013年のことで、今回の参加は11年目となり、この間に会がどのように変わったかを考えてみた。

友愛會が創設されるまでには長い道のりがあった。1973年10月に台湾国立博物館で開催された「川端康成遺品展」の準備のため、川端康成夫人と作家の北条誠が台北を訪問することがあった。その時、現地の通訳が北条に向かって、「あなた様は」と表現すべきところを「貴様は」と発言したのであった。この通訳の言動に北条が激怒したことは言うまでもない。この暴言が観光客や貿易の商社員などに向けられていたなら、その場の笑い話で終ったかもしれない。しかし、相手が相手であった。北条は小説家であって日本語の重鎮であり、言葉には厳しいものがあった。

さらに「美しい文章の書き方」とかか「文章を書く人の為に」といった文章表現の解説書も発刊した実績もある。北条は、「戦後の台湾では、日本語はこんなに乱れてしまったのか」と驚かされたのであった。その後、北条がこの事件の顛末を台北で翻訳業をしていた知人の陳燦暉、陳燦暉の兄弟に説明し、こんな乱暴な日本語が台湾でまかり通っていることを憂いたらしい。この北条の嘆きが発端となり、陳燦暉が代表となって美しい日本語を台湾に残す勉強会が始められた。勉強会が何時から開始されたのかは不明であるが、1973年かその翌年ではなかろうか。

                写真1

しかし、当時の台湾は中国大陸から転進した蒋介石による独裁国家であり、日本統治時代の文化は中華思想に反するため全て排除されていた。日本映画は上映されず、日本語の書籍の販売は禁止されていた。この頃に訪台すると、「日本の雑誌を持っていたら譲ってもらえないか」と尋ねられることがよくあった。

表向き日本の書籍の販売は禁止されていたが、基隆や高雄などの港町では日本の週刊誌や文芸雑誌は半ば堂々と売られていた。船員が無断で持ち込んでいたのであった。また、会員制の日本雑誌の貸本屋もあったらしい。それほど、当時の台湾人は日本語で書かれた書籍に飢えていたのであった。

そんな社会情勢の中で始められた日本語の勉強会であるため、公に活動することはできず、喫茶店で密かに続けられていたらしい。その後、1987年には38年間続いた戒厳令が解除され、1988年には台湾生まれの李登輝が総統に就任し、1991年には国民が総統を選ぶ直接選挙が施行されるようになった。台湾の民主化が始まったことで、1992年10月には私的な勉強会は「友愛會」として正式に発足し、一般から会員を募ることになった。以来現在まで、月一回の例会が開催され、一時は会員数が140名を超えるまでに成長した。

以上が台北の友愛會の経緯であるが、これは私があちこちの情報をまとめたものであることから正確性には欠けている。評論家の宮崎正弘が雑誌「諸君」に友愛會の歴史を掲載しているので、詳しくはそちらをご参照されたい。私は原本を読んでいないので、本文に間違いがあればお詫び申し上げます。

【私と友愛會】
異国にあって、台湾人(この言葉は差別ではない。現在の台湾在住の人々は国籍を表現するのに「中国人」よりも「台湾人」を選ぶという社会調査の結果がある)が主催する日本語の勉強会という特異性から、国内のメディアには数多く取り上げられている。朝日、読売、毎日、産経の大手新聞には軒並み取材され、テレビ番組ではNHKの特集番組に取り上げられた。私がこの会を知ったのは読売新聞の記事であった。

写真1は2014年4月19日に開催された会場の光景である。ホテルの宴会場のドアーを開けると、その中では流暢な日本語が飛び交い、日本にいるような錯覚を覚えた。この頃の会員を区別すると、戦前に日本語教育を受けた高齢の台湾人と、戦後生まれで留学、駐在などの何らかの理由により台湾で生活している若い日本人の二つに分けられた。その比率は八対二ではないかと推測され、この頃の会員の平均年齢は76歳であった。

この日の会場には70名以上が参加され、台湾人の会員は80歳を越えてみえる方ばかりであった。彼ら彼女らは、台北二中、台北三中、台北第三高女などの超エリート校を卒業された方ばかり(台北一中は日本人が優先して入学できたので、台湾人の入学者は極少なかった)。日本語の高等教育を受けた彼ら彼女たちが、今更日本語を勉強する必要は無いはず。なぜ高齢のエリート台湾人が友愛會に集まってくるか、と言えば、そこには何重にも絡み合った複雑な理由があった。 

まず、この会は、台北で唯一日本語を気軽に話せる場所である。高齢台湾人達の学生時代、学校では台湾語ではなく日本語で授業が行われていた(戦前の台湾では現在の標準北京語ではなく、福建省で話されていた閩南語が変化した台湾語が主流であった)。会場は、若い時代に覚えた日本語を使い、過ぎ去った青春時代を思い起こすことができる場所であるとも言える。

さらに、高齢台湾人にとって日本語は、戦後の政治にもからんでくる。日本語で学んでいた学生時代の彼ら彼女らの将来には、官僚や医師などの職業が約束されていた。

だが、日本の敗戦により大きく運命が変えられた。日本に変わって台湾を統治したのが国民党であり、官公庁などの主要なポストは中国本土から渡来した外省人に占められた。エリートの台湾人がその能力を発揮できる職業が排除され、社会構造が反転したのだった。

その他にも、政治的には色々な出来事があった。高齢の台湾人会員にとって日本語は、郷愁という単純な表現では伝えられない思い入れがあるのではなかろうか。閉鎖された会場の空間は、長い間封印されてきた戦前の社会を思い出すことができる場となっているようであった。


                写真2

今回参加した2023年6月17日の例会では、出席者は20名ほどで、台湾人と日本人の比率は六対四といったところで日本人の比率が増えていました。日本人の職業は、留学生、現地大学の日本語学科に職を得た人達といったところでした。10年前の例会でお会いした会員で、今回再会できたのは4名のみでした。多くの台湾人の会員が亡くなられており、10年間の変化を感じさせられました。

例会では何時ものように昼食が終わってから勉強の時間となります。最初は女性アナウンサーによる短編小説の朗読から始まりました。この日は江戸川乱歩の「指」という小品が読まれました。朗読を聞くのは耳慣らしと同時に、日本語のアクセントを回復させるためのものです。

外人が話す日本語にはどこかクセがあり、流暢に話していても出自が分かってしまいます。日本人が永年台湾に住んでいると、微妙にアクセントやイントネーションが変わってくるようです。正しい発音の朗読を聞くことで、発音やアクセントなどを矯正することができます。


                   写真3

次に、講師がスクリーンにテキストを投影し、日本語についての話題、問題点などを解説しました。本日は現地大学の日本語学科で教鞭をとっている日本人講師が講義していました。テーマは「外来語の学び方」というもので、現地の学生などから「最近の日本語は外来語を取り入れることが多くなり、日本語を学ぶ台湾人にとって障壁となっている」という意見があったことから、日本語に使われている外来語を解説していました。

日本語を学ぶ台湾の大学生を相手にしている講師なので、講義内容は高度なものでした。テキストには多数の外来語が例示され、大学の授業で使った内容を流用されたのではないかと思われました。

【時間の経過による日本語の変化】
私が最初に台湾を訪問したのは1970年でした。日本による支配から開放されて25年を経過していましたが、全島のどこでも日本語が通じました。中年以上の台湾人であればほぼ会話できました。日本語が通じなかったのは、外省人が多い警察官と役人程度でした。その旅行中、私が若い台湾人に下手な英語で道順を尋ねたところ、中々通じませんでした。その若い台湾人のそばにいた老人が私の話しを聞いていて、私を日本人であると判断したようでした。老人は、「何だ、おたくは日本人か。日本人なら日本語を話せ」と言われたのには度肝を抜かれました。

しかし、戦後も25年経つと台湾の人達の日本語もかなり怪しくなっていました。例えば、「どこいくか?」という日本語を良く聞きました。「何処に行きますか?」という意味なのですが、「い」の発音にイントネーションを置くため不思議な日本語となっていました。また、「同じくないよ」という表現も良く耳にしました。

例えば、AとBの商品の品質が違う場合に「AはBと同じくないよ」と表現するのです。日本語であれば「AはBと違います」という表現になるでしょう。この表現方法は、どうも中国語の文法から来ているように思われました。中国語で2つの事項を比較する場合に「同じくない」という表現をするからです。その文法が頭の中に残っているため、「違う」という意味を「同じくない」と表現するのではないかと思われました。

言語は日常的に使っていないと、間違っていることに気がつかなくなるようです。

 

【代表の授章】


               写真4                

友愛會を立ち上げた初代代表の陳燦暉は2012年に亡くなられました。現在は翻訳業の張文芳が会の代表として運営を引き継いでいます。現代表の張文芳は昭和四年の生まれで、本年95歳になられます。少々足元が悪いようですが、毎月の例会には必ず出席されています。

その張文芳には、台湾で日本語の普及に尽力された、という理由で2015年に日本政府から旭日双光章が授与されました。授与者数が少ない外国籍枠で勲章を授与されるのは名誉なことです。日本政府による授与は、「台湾にはこのような素晴らしい親日家がお見えになります」という中国共産党への当て擦りかもしれません。

 

【台湾の日本語学習】


                  写真5

数十年前の台湾ではどこでも日本語が通じていましたが、現在では駅にある観光案内所やホテルのフロントなどの特殊な場所でしか通じなくなっています。台湾の街を歩いていて、日本に留学した経験のある台湾人と巡り会えたらラッキーなことでしょう。しかし、台湾人が日本語の学習に関心が無いというのではなさそうです。

写真5は嘉義の駅前で撮影したもので、「地球村」という学習塾の看板が見られます。ここでは英語、日本語、韓国語を教えています。この学習塾はチェーン店のようで、大きな町の駅前には必ずといっていいほど見かけられます。この他にも、台湾のどこにでも日本語学習塾が見かけられますが街では日本語が通じません。それは、「教養として」日本語を学んでいる人達が多いからと思われます。

日本でも同じようなもので、全国どこにでも英会話学校が開校しているのですが、その店舗数に比べて英語が話せる日本人は希少です。暇つぶしに外国語を勉強したとしても上達しません。仕事のために外国語を身につける必要に迫られなければ熱心に勉強しないのです。台湾でも日本でも共通した現象でしょう。

【これからの友愛會】
友愛會の一番の悩みは「会員の高齢化」と「会員数の減少」です。そもそも、戦前に日本語の高等教育を受けた人達が集まって始めたグループのため、高齢化により毎年櫛の歯が欠けるように会員が減少しています。新規の会員を補充するように努力されているようですが、思うようには集まらないようです。そこで、これから友愛會の会員が増える方法を考えてみました。

『ゲストの招聘』
台湾には歌手、俳優などの芸能人ばかりか、政治家、大学教授などの文化人が多数訪問しています。それらの有名人に依頼し、30分ほどのスピーチをしてもらいます。芸能人であれば営業活動の一環で快諾してくれることは多く、文化人も同様に講演の内容が一致すれば快諾してくれる可能性は高いと思われます(もちろん、出演料は無料という条件ですが) 。

『文化講座の開設』
現在、友愛會の勉強では日本語に講座内容を限定していますが、これを文化まで広げたら関心のある会員は増えるのではないかと思われます。日本語を理解できる台湾の人達に日本文化を解説することになります。書籍では理解できない日本文化も多くあり、日本語を学習している台湾の大学生には意外にうけるかもしれない。

『日本人観光客の誘致』
現在、日本から台湾を訪問する観光客は年間217万人(2019年)と膨大な人数となっています。リピーターが増えていることから、通常の観光地は既に回ってしまい、新たな訪問先を考えている観光客は多いと思われます。そのため、台湾の文化や風土を説明する講座を設け、友愛會に観光客を引き入れることも考えられます。

台湾で日本語が通じるセミナーに参加できる、となれば観光客が飛び込むかもしれません。その場合、インターネットにホームページを開設し、開催日、会場を告知する必要があります。以前、友愛會では独自のドメインを保有していたのですが、いつの間にか消滅してしまったようです。早期に回復して欲しいのは私ばかりではないようです。