「事実は小説よりも奇」を彷彿させる経営者に会った。コスモイニシア(8844)代表取締役会長の高木嘉幸氏。
1983年、日本リクルートセンター(現リクルートHD)入社。初日早々「環境開発(後のリクルートコスモス、現コスモスイニシア)営業部出向」という辞令。設立10年余の不動産グループ子会社。社員50余、年商約300億円。未だバブル期前で業界は停滞期。背負わされた仕事は、積み重なっていた分譲マンションの在庫販売。
「事実は小説よりも奇」を彷彿させる経営者に会った。コスモイニシア(8844)代表取締役会長の高木嘉幸氏。
1983年、日本リクルートセンター(現リクルートHD)入社。初日早々「環境開発(後のリクルートコスモス、現コスモスイニシア)営業部出向」という辞令。設立10年余の不動産グループ子会社。社員50余、年商約300億円。未だバブル期前で業界は停滞期。背負わされた仕事は、積み重なっていた分譲マンションの在庫販売。
■清話会リモートセミナー 2022年5月30日(月)
「キーウから、ウクライナの今を伝える」
ーキーウ在住のボクダンさんが現地からリモートで語るー
ボグダン・パルホメンコ(在ウクライナ、SEPA LLC〔美容器具代理店〕経営者
1986年ウクライナ生まれ。90年旧ソ連から母親と日本の神戸に移り住む。大阪で小・中学校を卒業後ウクライナに戻り、キーウの高校、大学、大学院を卒業。大学卒業後は三菱商事に就職、その後MTG(株)に転職。現在はSEPA LLCを立ち上げ、日本の化粧品などの輸入販売を行っている。
■小中学校は、日本とウクライナで卒業
僕は1990年、5歳になる少し前に日本に行って、以後ずっと日本に住んでいました。そのときはまだソ連邦でしたが、91年に崩壊して、その後も母親が日本に残る決意をして生活をしていました。
年に1回、夏休みの期間、日本の学校が休みのときに40日間、僕はウクライナに戻って、おばあちゃんと一緒に1年分の全ての教科の勉強をし、結局、小学校、中学校はウクライナと日本の両方で卒業しました。その過程で、ウクライナの人のリラックスしたムード、心のピュアな部分に触れて、どこかで二つの国を足して2で割ったら最高の国ができるな、と感じていました。それで両方の国の懸け橋としてできることをやりたいとずっと思っていました。
色々な人と関わることが子どもの頃からあって、会社の社長さんとか会長さん、国会議員、大臣クラスの人たちとか、国を動かしていくような人たちが多かったのです。そこで重要になるのが、ただモノを翻訳して情報を渡すのではなくて、その情報がちゃんと伝わったかというところまで責任を持って伝えること。現地に通訳の人もいますが、彼らは言葉だけ訳すのですが、内容を最後まで吟味せずに訳してしまう。本軸から幹の部分を僕は訳すとすれば、彼らは枝葉の部分だけを訳すみたいな感じで、そこを僕は子どもの頃から意識していました。
その後、日本企業に就職して、今も自分の会社で日本の素晴らしい健康とか美容の品物を紹介しています。ウクライナも日本と同じでお酒とかタバコからだんだん、健康、美容の方向に世間の関心がスライドし始めています。色々な国の商品を見ても、日本のものが一番、肌質にも合うし、誰が飲んでも食べてもすごく効果を発揮するものなのです。多くのウクライナの人に日本の良さを伝えてきました。
■ロシアは、戦争ではなくナチスを倒すミッションだと思っている
ウクライナで日本語ができるとなると、ウクライナ市場よりもロシア市場で活躍するほうが、より色々な可能性があるのです。ロシアに出ている日本企業の数も多いし、ロシアとの貿易の数量も、比較すると10倍ぐらいの差があります。ロシアなら100億円のビジネスも、ウクライナでは10億円の規模になってしまう。ですから、ロシアのビジネスをやっていてそこから枝分かれしてウクライナも一つの地域としてやる、というのがポピュラーだったのです。
■清話会セミナー 2022年6月6日(月)
「日本の未来を拓く」
ーすべての人に夢とチャンスを!ー
衆議院議員 前 経済再生・新型コロナ対策担当大臣
にしむらやすとし
西村 康稔
1962年兵庫県明石市生まれ。1985年通産省入省。2003年衆院議員初当選。経済再生担当大臣、TPP担当大臣全世代型社会保障改革担当大臣、内閣府特命担当大臣(経済財政政策)、新型コロナウイルス感染症対策担当大臣を歴任。現在、自民党選対委員長代行・コロナ対策本部長、党内最大派閥の清和政策研究会の事務総長等を務める。
聞き手 マーケティングコンサルタント 西川りゅうじん
■誰も経験したことのない答えのない戦い
おはようございます。長年のお付き合いの西川りゅうじんさんからご案内いただき、本日は喜んでおうかがいした次第です。新型コロナ、海外の地政学リスクとそれに伴うインフレ、円安などによって、日本経済は、今、大きな転換点に来ています。その中で、我が国がどういう道を歩んで行くべきなのか、私の考えをお話させていただければと思います。
コロナについては、担当大臣として、今この世に生きている人は誰も経験したことがないパンデミックの中で、毎日、専門家の先生方、特に、有識者会議会長の尾身茂先生とは毎日1時間以上、ずっと1年7、8ヶ月、議論をさせてもらいました。「もっと厳しくやれ」という人もいれば、「厳し過ぎる。経済のことを考えろ」という人もいる。その双方から何をやっても批判を受けました。
「感謝の心を」話に生かす
第5回 新人時代の守(基本)は感謝の心で学び上手
職業人生においてプロと呼べるレベルになるためには、成長段階として、守・破・離の3つの段階があります。守は基本、破は改善、そして離は新、初、独自の事柄の産み出しです。新人時代は守、だからこそ基本を正しく修得し、信用を得て任され、責任持った一人前になることです。その第一歩は、期待に応えて、現場で認められ、存在感を示し、将来に向けた目標、希望、夢の自己の想像図に向けて、土台をしっかり創り上げることです。
そのためには常に感謝の心で育てていただく楽しみです。その実践は上司や先輩、お客様ヘのひと言に謝念を込めることです。
例えば、
①「はい」という学びの機会を頂く素直なひと言
②「お願いたします」という依頼の言葉
③「ありがとうございます」の感謝の言葉
④「ごめんなさい」のうまくいかなかったときの反省の言葉
⑤「おかげさまで」という成長できた謙虚な言葉 …
があります。
この言葉には、お忙しい中、育てていただく感謝であり、他部署、他社に伺った時の「お会いできる時間を配慮いただき、ありがとうございます。新人ですが、どうぞよろしくお願いいたします」との心の届けです。この「よろしくお願いします」には、「お導きください」という意味合いも込められています。
■社長、こんな気持ちありませんか?
〇社長が現場から離れても業績の上がる経営をしたい
〇社長が指示しなくても社員が自分で考えて成果を出せる会社を作っていきたい
〇個人商店ではなく組織で仕事ができる会社を作りたい
〇社長が現場の仕事から離れて3年後の会社を作る仕事をしたい・・・・・
とはいえ、社長が現場から抜け出すことはなかなかできないですよね? なぜ、社長が現場から抜け出せないのか?
■中小企業は「ないない尽くし」の組織
組織とは、同じ考え方を持つ者が目標の共有化を図り、その実践に向けて方策を考え、ルールと基準に基づいて、個々の役割に応じて動く集団である。そして個々の人間性を認め合い、成果をともに喜び合う関係である。
人が2人以上集まれば、組織となる。政治・宗教・スポーツの世界など、あらゆる世界に組織がある。ほとんどの組織は、価値観が似ている人が集まり、構成されているからまとまりやすい。まとまりやすいから、冒頭の条件を容易にクリアすることができる。
しかし、中小企業は例外である。中小企業は、いわば「人間動物園」だ。たまたま同じ職場で働いているが、価値観が違いすぎたり、目標がバラバラだったり、行くべき方向性がわからず迷っていたりする。
しかし、中小企業は人なし、物なし、金なし、管理なしという「ないない尽くし」の環境に置かれている。さらに、一人2~3役の兼任主義で運営されているがゆえに、組織が持つ機能の深い掘り下げができず、日々、悪戦苦闘している。
組織としての骨格バランスが崩れているため、当たり前のことが当たり前のようにできない。頑張ってはいるが、頑張り方が違うために成果が思うように上がらない状態になっている。
中小企業の基盤はこのように脆弱である。基盤が弱いために慢性的に何かしらの病気を抱えたまま会社運営をしているのが中小企業なのである。それでは、その中小企業を運営している経営者について説明していきたい。
##多様化する選択肢から親族外の承継が増える
前回お伝えした通り、帝国データバンクが実施した、全国企業「後継者不在率」動向調査の2021年版では、後継者不在率は61.5 %と調査を始めた2011年以来最低となりました。不在率は4年連続で減少しており、企業が後継者を決定するというトレンドが顕れています。コロナ禍により自社事業について見つめなおす経営者が増えたことも背景の一つとして考えられるでしょう。
同調査では、事業承継の主流派今も変わらず親族による承継であり38.3%を占めますが、この割合は年々少しずつ低下しています。後継者候補が決定している企業に関する調査でも、最も多いのはご子息を候補としている企業で38.5%を占めますが、これについても年々減少しています。
摂津の伊丹では、17世紀はじめから酒を江戸へ出荷し、鴻池新右衛門が清酒の江戸送りをはじめたのは慶長4年(1599年)と伝えられている。江戸時代最高の酒造り技術書といわれる『童蒙酒造記』(1687年頃)は、鴻池流の技術を中心に「寒造り」という低温発酵を薦めている。その中の「伊丹流」では、上槽前に焼酎を醪の一割くらい加え、酒の日持ちをよくするという、「柱焼酎」すなわち粕取焼酎を使用したことが書かれている。この時に、刀傷の薬として各藩に「柱焼酎」としての粕取焼酎が注目され広まった。その「柱焼酎」は、現在の「本醸造」のはしりである。この「寒造り」を酒造りの基本とした技術が広まり、農閑期の寒い時期に、丹波の農民が灘など大量の酒造りが可能な地区に移り、酒造りに腕を磨いた。これが丹波杜氏の始まりとされている。
この頃から、上方から江戸へ運ばれ消費された酒のことを「下り酒」と言い、伊丹や灘、山城、河内、播磨、丹波などで造られた酒が運ばれた。また、伊勢、尾張、三河、美濃で造られた酒を「中国もの」と言った。下り酒は、17世紀後半は「菱垣廻船」、酒樽専門の「樽廻船」は明治の中期まで海上輸送された。下り酒は、造り酒屋>江戸酒問屋>酒仲買人>小売酒屋>消費者という流通で送られ、江戸の下り酒問屋のある新川、茅場町、呉服町などで仕切られた。この時に活躍したのは、近江商人であることは、間違いない。