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「日米貿易摩擦と米中貿易戦争」(前編)(小島正憲)

小島正憲氏のアジア論考
「日米貿易摩擦と米中貿易戦争」(前編)

小島正憲氏((株)小島衣料オーナー)

かつて日本は米国との間で、数度の貿易摩擦を経験した。それらは米国からの圧力に、日本が一方的に屈し譲歩した結果、収まった。まさにそれらは貿易摩擦という表現がピッタリする。それらのうち、最初に起きた日米繊維摩擦については、私も実際に体験した。

今、トランプ大統領の出現で、中国と米国の間では貿易戦争とも呼べる様相が展開している。互いに関税を高くして、叩き合っている様子は、たとえ中国が貿易戦争という表現を使いたくなくても、それはまさに戦争そのものである。

日米の貿易摩擦と米中の貿易戦争は、なぜ、様相がかくも違うのか? 
それは両国や世界にいかなる結果を及ぼすのだろうか? 
今回はそれを論じてみたい。

1.日米貿易摩擦:日本のとった「負けるが勝ち」戦略

「どんな古いミシンでも、すべて最新鋭ミシンの新品価格で買い上げます」。
1972年のある日、輸出縫製品組合から、こんな手紙が送られてきた。

当時、わが社は米国向けのコートを生産しており、そのため輸出縫製品組合に所属していた。組合の会議では、数年前から、「米国は、日本からの大量の繊維製品の流入に頭を痛め、そのうちに繊維製品の輸入を禁止するかもしれない」という話しが持ち上がっていたが、有効な対策を打ち出しかね、組合幹部は右往左往するだけだった。

その後、日米両政府の間で、この懸案について、何度も話し合いがもたれた結果、田中角栄通産大臣の英断で、それは自主規制という形で決着した。当然のことながら、その決着は組合員の死活問題であり、組合内は大騒動となった。そこで田中大臣がとった懐柔策がミシン買い上げ・設備廃棄だったのである。

当時、多くの組合員が急いで中古ミシンを買い漁ったので、日本中の中古ミシンが底をついてしまったほどである。組合員たちは、安い値段で中古ミシンを買い集め、それを新品価格で買い上げてもらい。大儲けした。もちろんわが社も、その甘い蜜に群がった口である。その結果、政府の対米繊維自主規制政策に文句を言うものは、まったくいなくなってしまった。ほとんどの組合員たちは、設備廃棄で得た資金で、新しいミシンを購入して、内需の縫製にうまく転換した。

それ以降、日本全土から繊維製品の対米輸出はきれいさっぱり姿を消した。なお、これは縫製業界だけではなく、織物業界などにも適用された政策で、設備買い上げ・産業構造改善事業の過程では、腐敗や汚職で大きな問題が起きた。

当時の日本経済は戦後の復興から高度成長期を歩んでいたが、1971年にはドルショックがあり、経済は激変していた。その最中の繊維自主規制ではあったが、田中角栄が「日本列島改造論」を発表し、日本中がミニバブル状態で好景気となっていたため、内需に転換したほとんどの企業の受注は好調だった。もちろん失業者もほとんど生まれなかった。

しかし1973年には、第1次オイルショックに見舞われ、日本中が大騒動となった。当然のことながら、石油価格が高騰したので、日本全体が省エネに励んだ。政府の大臣たちもスーツを半袖にして範を示し、夜の街のネオンもほとんど消えた。企業内でも、社長から末端社員に至るまで、省エネ・省人に、懸命の努力重ねた。わが社も私を筆頭に、生産性の向上に努めた。私は縫製工程にロボットを導入することを考え、日夜汗水垂らして、機械と格闘した。

その結果、日本社会は重厚長大型から軽薄短小型へ、見事に産業構造を転換させた。今度は、日本から電化製品や鉄鋼などが怒濤のように米国に流れ込んだ。たまりかねた米国の強い要請に従い、日本政府は1977年、鉄鋼・カラーテレビなどの輸出自主規制を行い、嵐が過ぎ去るのを待った。

1979年、第2次オイルショックを経て、米国では低燃費の日本車が売れ出し、1980年代、今度は自動車などで貿易摩擦が起き、米国内で日本車の打ち壊しなど、激しいジャパンバッシングが発生した。日本政府はこれも輸出自主規制で対応し、トヨタを始めとした自動車メーカーは米国内での工場開設などで乗り切った。各種の妨害にもめげず、世界各地に進出する日本製品に対して、1985年、プラザ合意で、円高という足かせがはめられた。また1986年、日本の国内市場の開放を強く迫られ、「前川レポート」を出さざるを得なかった。

それでも日本国内景気は好調であり、やがてバブル経済を招来することになる。巷では、人手不足が起き、労働集約型企業はまったく経営ができなくなった。1990年代、多くの労働集約型企業が中国へ進出し、中国が目覚ましい経済発展を遂げたので、米国の主要な貿易相手は中国と変化していき、ジャパンパッシングといわれる状態となり、日本は米国の批判の矢面に立つことから免れることになった。1992年、バブル崩壊に見舞われた日本は、その後、失われた30年に入った。

2.米中貿易戦争の現状

米国のドナルド・トランプ大統領は当選後、選挙中の公約である中国との間の膨大な貿易不均衡是正のために、2018年度7月、中国から輸入される818品目に対して、340億ドル規模の追加関税(関税25%)措置を発表した。これに対して中国は、鄧小平の遺言でもある「韜光養晦」政策をかなぐり捨て、報復として、米国から輸入される545品目に対して、340億ドル規模の追加関税(25%)を発動した。

さらに米国は8月、第2段として284品目に対して160億ドル規模の関税措置を発動した。同時に中国も333品目に対して160億ドル規模の関税措置を発動。9月、米国は第3段として5745品目に対して2000億ドル、中国は5207品目に対して600億ドルの関税措置を発動。

米国は10月、12月1日に予定されている米中首脳会談で対立が緩和できない場合、全品目を対象とした第4段の関税措置を12月初旬に発表し、2019年2月上旬に発効することを検討していると発表した。

今や対立は貿易問題にとどまらず、「技術の強制移転・知的財産権の侵害・南シナ海の航行の自由・イスラム教徒弾圧などの人権問題・借金漬け外交・米国でのスパイ活動」などにまで及んでおり、中国が妥協できない規模になってきており、まさに貿易に端を発した冷戦に至りつつある。

これは貿易摩擦と呼ぶような段階ではなく、貿易戦争と呼ぶべきである。

3.「負けるが勝ち」と「韜光養晦」

①なぜ日本は「負けるが勝ち」戦略で乗り切れたのか?

第2次大戦で日本は、米国が率いる連合国軍に完敗した。それ以来、日本は軍事面での対米従属国となり、現在に至っている。その後の一時期、米国に次ぐ世界第2位の経済大国と呼ばれるほどになったが、それは日本人が米国の軍事力や核の傘で守られ、安心して経済を伸張させることに専念できたからである。

それ故に、米国への軍事面での従属状態が解消されることはなかったし、日本人は常に米国のご機嫌を損なうことを怖れた。したがって日本人の心の中には、経済大国になったと言われても、それが原因で大国意識が芽生えることはなかった。 

米国から理不尽な要求がなされても、日本はそれをご主人様の意向として、受け容れざるを得なかったし、日本人は喧嘩しても勝てないことを知っていたので、最低限の譲歩を行い、米国を納得させ、良好な貿易関係を持続させることに成功した。しかもその後の努力で、別産業でさらに米国輸出を増進させていった。

まさに日本と米国の間で起きたのは、貿易摩擦と呼べる程度のものであり、それは日本の一方的な譲歩で終わった。それは日本人総体に、自国が対米従属国であるという認識があり、大国意識がなかったので、政府が「負けるが勝ち」戦略をとることに異論はなかったからである。また、そのことが結果的に日本の経済成長を大きく後押ししたのである。

最初に貿易摩擦が起きたとき、日本政府は内需を喚起することによって、それを乗り切ることに成功した。ちょうど経済成長が軌道に乗りはじめたときで、巷は好景気で湧いており、対米自主規制を迫られたほとんどの企業が、設備廃棄で得た資金で内需転換に成功した。景気の拡大と共に、人手不足なども進行し、それがさらなる内需の増進に貢献した。

その結果、貿易摩擦で自主規制を迫られた繊維産業などでは、対米向け輸出はほとんどなくなり、そのことに異を唱える企業もまったくなかった。

オイルショックを経て、高品質の鉄鋼や電化製品が日本から米国市場になだれ込むようになり、貿易摩擦が再燃したが、それも自主規制でクリヤーした。さらにその後、今度は自動車輸出で三度、貿易摩擦を経験することになったが、いつもの手でなんとか逃げ切った。

そこで起きてきたのが、プラザ合意による超円高であった。米国は日本を円高に追い込むことによって、日本車の輸入に歯止めをかけようとした。それでも日本人の合理化努力によって、自動車などの輸出はあまり減らなかった。超円高は、日本人を慢心させ、日本社会にバブル経済を発生させた。それでもこの経済現象が、日本の内需を劇的に刺激し、日本経済を輸出大国から一変させることになった。ただし日本経済は、バブル崩壊後、長期間にわたる不況に陥った。

上記を要約すると以下のようになる。
日本政府は、対米貿易摩擦を、「負けるが勝ち」戦略で乗り切った。それは日本人総体に対米従属国意識があり、誰もその戦略に異論を唱えなかったからである。しかもそれは経済が高成長を遂げようとする時期に起きたので、内需転換が容易だったからでもある。

さらに日本人総体が「臥薪嘗胆」の心境で、新たな向上を目指して努力をしたことも功を奏した。また、その努力も限界に近づいたころに、劇的な円高がもたらされたことも、貿易摩擦を緩和させる上で大きな効果をもたらした。

(後編に続く)

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清話会  小島正憲氏 (㈱小島衣料オーナー )
1947年岐阜市生まれ。 同志社大学卒業後、小島衣料入社。 80年小島衣料代表取締役就任。2003年中小企業家同友会上海倶楽部副代表に就任。現代兵法経営研究会主宰。06年 中国吉林省琿春市・敦化市「経済顧問」に就任。香港美朋有限公司董事長、中小企業家同友会上海倶楽部代表、中国黒龍江省牡丹江市「経済顧問」等を歴任。中 国政府外国人専門家賞「友誼賞」、中部ニュービジネス協議会「アントレプレナー賞」受賞等国内外の表彰多数。