【講演録】「RCEP時代の経営戦略」(坂口 孝則)

~安い・高品質なアジア製品・サービスに負けない企業の生き方 [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「RCEP時代の経営戦略」(坂口 孝則)

坂口 孝則氏

未来調達研究所(株)所属。大学卒業後、メーカーの調達部門に配属される。調達・購買、原価企画を担当。サプライチェーンを中心とし、企業のコンサルティングを行う。コスト削減、原価、サプライチェーン等の専門家としてテレビ、ラジオ等でも活躍。著書に『未来の稼ぎ方』等、37冊。

■コストに負けない適正価格を

 訴求していく意気込みを

コロナ禍というのは、日本の企業や事業に刷新を突きつけたのではないかと、私は思っています。DX化から始まって、事業構造の見直しやリスクの分散、どうやって海外の拠点と連携していくのかなど、様々な問題が繰り返し突きつけられていると思います。

RCEPはアジア各国との関税の障壁等が、一部、被関税障壁も大きく取り除かれる中で、いかに多国間貿易を広げていくかという好機でもありますし、そして日本の各製造、メーカーが、どのように生産し、どこから調達すべきか、といった最適地調達、最適地生産、最適地への販売行為を模索する必要があります。同時に、RCEPの恩恵を十分に得るためには、幾つかルールと言うか、仕組みを知っておかないといけません。

RCEPはあくまで手段であって、目的ではないと思います。皆様の本当の目的は、時代に追随する強い事業のあり方、企業のあり方ということが近いでしょうから、RCEPの話とその後、これからの事業環境、企業経営の考え方に触れていきたく思います。

私はサプライチェーンの分野を基本的に主戦場としているコンサルタントで、目下37冊、本を出しております。主には大企業と中堅企業のコンサルティングをやっており、大手アパレルメーカーの繊維を作っている所と、あとは半導体製造装置のメーカー、そして鉄鋼メーカー、原材料メーカーのサプライチェーンのコンサルティングをやっております。加えて、未来調達研究所に加え、心療内科、不動産会社の経営にも関わっています。

サプライチェーンは6個ぐらいの分野がありますが、私が担当しているのは購買物流というところです。会社があるとして、お客様につなぐ流通の所、協力会社、取引先からモノを買ってくる所、そして、二次、三次、四次の下請け、孫請け、ひ孫請けに至るまでの協力会社との連携、この辺に関して、繰り返しコンサルティングを行っています。

GDPに対する鉱物性燃料の輸入額率のグラフをみると、日本は非資源国家ですので、原材料、鉱物性燃料は、全て諸外国から買ってくる必要があります。それをなぜGDPと比べるかと言うと、GDPが倍、3倍に成長しているとすれば、鉱物性燃料もたくさん買ってもおかしくないわけです。しかしながら、GDPと比較することで、日本という国が1994年から2020年に至るまで、どれくらいの値段上昇、あるいは価格下落の中で鉱物性燃料を買ってきたのかを指し示しています。

このグラフに製造業全体の原価率を重ね合わせてみると、ほぼ製造業の原価は海外からやって来る鉱物性燃料に首根っこをつかまれてる、と言いますか、ほとんどそれだけで原価率が決まっているような状態になっています。鉱物性燃料が下がったら利益が出るし、上がったら利益が出なくなるという体質で、30年、40年ぐらいずっと苦しめられているのが日本の現状です。

従って、私がまず、ちょっと気にしないといけないと思うのは、原材料価格や原価に依らないような値付け、さらに言えば、中小企業の皆さんが、値上げをガンとするくらいの覚悟を持つというのが、全ての起点になると思います。

私がとても尊敬する一倉定さんというコンサルタントの先生がいらっしゃって、かつて「企業戦略とは、値上げのことである」と言われました。私が物流購買という所に身を置きながら「値上げしろ」言うのは少々乱暴ではありますが、RCEPで関税がなくなって1%、2%安くなると言っても、コストとか原価に負けないような適正な価格をきちんと請求していく意気込みは非常に重要になってくると思います。

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【講演録】「令和4年の政治政局を読む」(神崎 博)

~報道最前線からみた総選挙結果と課題! [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「令和4年の政治政局を読む」(神崎 博)

神崎 博氏(関西テレビ放送 報道局報道センター 専門部長)

 

1969年京都府生まれ。同志社大学卒業後、関西テレビ入社。「スーパーニュース アンカー」17時台編集長、「報道ランナー」解説デスクを担当。阪神淡路大震災、地球温暖化防止会議(COP13:インドネシア)、北京五輪、米朝首脳会談(トランプ対金正恩:ベトナム)、G20(大阪)等を取材。

■入社後はカメラを担当、

 海外特派員を経てニュース担当に

 私は、『報道ランナー』という夕方4時45分から関西テレビチャンネルでやっている番組で、ニュース解説を担当しています。

 私は1969年、京都の亀岡で生まれ、大学でメディアの勉強をした上で93年に関西テレビに入社し、今29年目です。最初3年間は技術職の生産技術というところでバラエティやスポーツ番組の主にカメラマンをやっていました。『快傑えみちゃんねる』という上沼恵美子さん司会の番組や、やしきたかじんさんの『たかじん胸いっぱい』、あとは『三枝の愛ラブ! 爆笑クリニック』ではスタジオ技術もやっておりました。

 スポーツでは、ちょうど私が入った頃はオリックスのイチローさんが活躍し、リーグ優勝してその後日本一になりましたが、その時の野球中継で日本シリーズのカメラをやりましたし、マラソンでランナーと一緒に走る移動中継車に後ろ向きに座って追いかけるカメラも3年間やりました。

 その頃に阪神淡路大震災が起き、私はスポーツ制作系にいましたが、報道の中継技術が大変だったので、応援という形で被災地に入り、3日目に神戸の御影公会堂という避難所になっていたところへ中継でカメラで入り、報道の記者と一緒に仕事するのはほぼ初めてでしたが、とても過酷な現場でした。ほとんど寝ずにほぼ3日間寝ない状態でも記者の人がずっと取材をして、私はリポートする記者を撮り続けて、中継車に寝泊まりしながら一日に30回ぐらい生中継をして、5分、10分おきぐらいに中継が来るような形で、被災地や避難所の状況をお伝えしました。

 元々記者になろうと思って会社に入ったので、その翌年に報道に異動しました。報道のニュースの中のスポーツ担当をやったり、奈良県に国立の奈良文化財研究所と県立の橿原考古学研究所という2つあるのですが、主にその担当で、発掘もの、遺跡のニュースなどを中心にやり、私がいた時には天理の黒塚古墳で銅の鏡が大量に出た、卑弥呼の鏡がたくさん出たということで学者に取材したりしました。

 その後、京都支局に行きましたが、その前にはあの和歌山のカレー事件、林眞須美受刑者の自宅前で人権的にどうなんだという議論はあると思いますが、各社のカメラがずっと張って一挙手一投足を撮影する「張り番」をやったり、あとは神戸の連続児童殺傷事件で須磨の現場に行ったりしました。

 あとは、阪神淡路大震災の現場に行って建物が倒れて沢山亡くなった、それを何とか皆さんにお伝えしたいという思いがあったので、防災担当で防災番組を担当しました。

 そもそも海外支局で特派員になりたいという学生時代からの夢があり、報道に来て5、6年目にやっと叶いました。どこでもいいから行かせて欲しいと言っていたこともあり、一番人気のなかったマレーシアのクアラルンプール支局赴任になり、丸3年、駐在しました。

 マレーシアにはあまり事件がないのですが、アジア友軍というような形で色々なところに行きました。パキスタンで地震があって飛んだり、当時、6ヶ国協議で北朝鮮のミサイル問題を話し合う会議があったので北京に行ってくれ、と言われたり、あと別の会議がソウルである、アメリカの安全保障のトップが来るということでソウルに行ったり、殺害された金正男がマカオにいるという情報があったので、マカオ中をジョンナム氏のインタビューを取るために探し回るということをやりました。

 日本に帰ってからは、「FNNスーパーニュースアンカー」という、今の「報道ランナー」の前の前の番組の5時台のニュースの統括責任者をやり、当時は青山繁晴さんの「ニュースDEズバリ!」の担当をやりました。

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【講演録】「〝渋沢栄一〞と〝久坂玄瑞〞」(坂市太郎)
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【講演録】「〝渋沢栄一〞と〝久坂玄瑞〞」(坂市太郎)

一坂太郎氏  

萩博物館特別学芸員

1966年兵庫県芦屋市出身。大正大学文学部史学科卒業。現在、萩博物館特別学芸員、防府天満宮歴史館顧問を兼任。日本文芸家協会員。幕末維新史を中心に研究・執筆。最近の著書に、『暗殺の幕末維新史』(中公新書)『坂本龍馬と高杉晋作』(朝日新書)『久坂玄瑞』(ミネルヴァ書房)など多数。

 

◼️盛り上がらなかった〝明治150年〟

 明治は決して遠い昔ではない

渋沢栄一と久坂玄瑞は天保11年(1840)、同じ年に生まれています。久坂玄瑞は禁門の変で元治元年(1864)に数え歳25で京都で亡くなり、渋沢栄一は昭和6年(1931)、92歳まで生きしました。

渋沢栄一に会ったという人に私は会ったことがあります。作家の南條範夫さんという方。明治41年(1908)生まれで、NHKの大河ドラマで『元禄太平記』という作品の原作を書いた方です。

東大の学生だった頃、学生新聞の編集をやっており、渋沢栄一に取材に行ったそうです。渋沢栄一が慶応3年に徳川慶喜の弟、昭武の随行としてパリ万国博覧会に行った、その間に幕府が倒れ、帰ってきたら幕府がなくなって、新しい政府になっていたということについて聞いたとの話を後になって知りました。

平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から150年で、国を挙げてのイベントがありましたが、全く盛り上がりませんでした。明治100年のときは昭和43年(1968)でしたが、まだ明治生まれの人たちがたくさん生きていました。1968年の長者番付1位は松下幸之助さんで、明治生まれです。

その当時から20年ほど前、日本は戦争で負け、ひどい目に遭った。こんなことになったのはなぜか。明治維新からの何かボタンの掛け違いがあったのではないかということで、特に歴史学会は明治100年を祝うべきではないと徹底して抵抗しました。政府が歴史を書き換えようとしている、という運動も起こりました。各家庭にも戦争の傷跡が普通に残っていたでしょうから、明治維新はよかったのか悪かったのか、お茶の間の話題でできたのでしょうが、150年になってみるともうそれは分からない。

政府が出したものを見ると、明治150年のとき、明治は素晴らしい時代だった、という論調が、明治100年のときとあまり変わらないのです。明治維新で産業や経済が発展した、それは事実でしょう。民主主義の芽生えみたいなものもありましたが、結局は国家主義へと進みます。

ただ私が思うに、当時の日本は外国に戦争をすることが一番の目的で、だから産業が発達し色々な科学技術が導入された。それは国民の生活を豊かにしようとしてやったというより、富国強兵を目指していこうということです。

その中心に天皇制があった。天皇を日本の中心に持ってきて富国強兵を実現、対外戦争を繰り返し、とうとう昭和20年に敗戦を迎え、それから民主主義が出てくるという歴史だったはずが、随分イメージが違うという妙な違和感を覚えました。

対外戦争や天皇制の歴史だった、それがいいか悪いか、賛成するか反対するかは別としても、そうであることは史実です。そこに全く目を向けない明治維新像を広めようとしたから、何となくそっぽを向かれて盛り上がらなかったのかなと思っています。

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【講演録】「西洋人初の芸者、新たな挑戦」(紗幸)

~日本の伝統文化存続のために [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「西洋人初の芸者、新たな挑戦」(紗幸)

紗 幸(さゆき:フィオナ・グラハム)

(芸者、早稲田大学講師)

オーストラリア出身。交換留学生として日本の高校を卒業。慶應義塾大学で学位取得後、オックスフォード大学でMBA取得。世界数ヶ所の大学で講義をし、ドキュメンタリー制作の監督も務める。2007年12月浅草で正式に芸者としてお披露目を行い、花柳界400年の歴史上初の西洋人芸者としてデビュー。

■芸者に扮してテレビ番組をつくる中で

 本当の芸者になる運命に

 私が日本に最初に来たのは交換留学生としてでした。15歳のとき1年間、日本の高校に入って、日本の家庭にお世話になりました。直接の交換でしたので、私のオーストラリアの実家には19歳の真面目な女の子が来ました。その後一回、帰国して、16歳でまた日本に来て高校に入り直して、高校を終えました。そのとき1年間、休学をして日本の四季を味わえるところでアルバイトをしました。夏は東京の離島、冬はスキー場。芸者になった今、思い返しても素晴らしい体験でした。

 その後、慶應義塾大学に受かって、人間科学という分野を選び、それが後に社会人類学という分野を専攻するきっかけになりました。大学を卒業してから、大手の生命保険会社に就職して、日本の会社がどんなところで、会社員はどんな生活を送っているかを知ることができましたので、それも芸者になってからいい経験だった、と感じています。2年間勤めましたが、その後、英国のオックスフォード大学に渡ってMBAを取得しました。それでまた日本に戻ってきて、経済関係の記者になり、共同通信、ロイター通信に1年ずつ所属しました。

 その後、もう一回オックスフォード大学に渡って、社会人類学で博士課程に通いました。社会人類学はフィールドワークが必要で、社会の中に入って勉強します。同じ時期に通っていた学生は伊豆の海女さんの修行をしましたし、またカラオケについて博士論文を書いた人もいました。

 私は、22歳のときに入った生命保険会社に戻って、日本の会社について論文を書くことにしました。当時、すでに終身雇用という考え方が変わり始めていて、その時代の変わり目を、私自身の動きを追いながらNHKで番組をつくる、ということをしました。そうしたらその保険会社が潰れてしまって、論文とはほかに大手企業が潰れたことについての本も書きました。芸者の世界は100年間、成績が落ち続けている世界です。大手企業がどのように潰れていくかを目の当たりにしたのは、今から思うと得難い経験でした。

 オックスフォードで博士課程を取得した後に、シンガポール国立大学で先生になって、日本文化と社会人類学的な観点で、ナショナルジオグラフィックやNHKなどでドキュメンタリー番組をつくり始めました。カルロス・ゴーンが最も注目を浴びていた時期、BBCの密着取材で番組をつくったこともあります。ゴーン氏が工場に入っていくと社員がピンと立ち上がって、神様が工場に来たかのような感じでした。

 大学の先生をやりながら番組づくりをしていましたが、フリーランスのディレクターでしたので、自分でテーマを考えて調べてテレビ局でプレゼンをするのですが、2、3分で「この番組は絶対につくるべきです」とアピールしなければなりません。

 ある日『SAYURI(さゆり)』という芸者を主人公にした本を原作にした映画ができるので、それをテーマにドキュメンタリーをつくってはどうか、と提案を出したのです。そのときはあまり興味を持ってもらえなくて、「私が芸者になっていく過程を番組にしてはどうですか」とポロっと言ったのが、今日の芸者になったきっかけになりました。

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【講演録】「岸田政権と日本経済のこれから」(吉崎達彦)

~コロナ禍の日本を浮揚させることはできるか [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「岸田政権と日本経済のこれから」(吉崎達彦)

吉崎 達彦((株)双日総合研究所チーフエコノミスト)

 

1960年富山県生まれ。一橋大学卒、日商岩井㈱入社。広報誌『トレードピア』編集長、米ブルッキングス研究所客員研究員、経済同友会代表幹事秘書・調査役などを経て企業エコノミストに。日商岩井とニチメンの合併を機に2004年から現職。『モーニングサテライト』等でコメンテーターを務める。

■サプライズのないバイデン大統領

 進むインフレとFRBの出方

11月最後の木曜日に行われる感謝祭という習慣は、北米だけで欧州にはありません。つまり、植民地であるアメリカとカナダにやってきた人たちが、今年の秋に収穫がなかったら全員、飢え死にだという切羽詰った状態でやってきて、それで秋の収穫に対して感謝を捧げる日で、大変重い意味のある日です。この感謝祭を過ぎると、翌日がブラックフライデーで、年末商戦の始まりです。お店が黒字になるからブラックだという話です。

政治の立場から言うと、この感謝祭の11月25日前にいろいろ済ませておかなければいけない。例えば、大きな法案はできればこの前までに通したい。もう一つ、バイデン政権は昨日(11月23日)石油の戦略備蓄の放出を発表しました。アメリカは常に石油を備蓄しており、場所はルイジアナ州ニューオーリンズの近くです。ここはミシシッピ川の河口です。つまり、石油が何かのときはミシシッピ川を遡って、全米各地に供給できるようになっています。これを緊急放出する。そうやって石油価格を少しでも下げたい。

バイデンさんは、やることが非常に丁寧で念が入っています。日本政府にも付き合ってくれ、おたくも石油備蓄あるだろう、ということで、日本は苫小牧の港の反対側の所に、大きな備蓄基地があります。ただ、日本政府はそこまでやるつもりはなくて、余りの部分を放出して、お茶を濁すということです。

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~若き農業法人社長の挑戦 [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「農業の無限の可能性にかける!」(中森剛志)

中森剛志(中森農産(株)代表取締役) 

1988年東京都生まれ。東京農業大学農学部卒業。在学中より「日本の農業に一生を賭ける!」を合言葉に活動。日本農業最大の課題は生産分野にあるとの確信から25歳の時に埼玉県加須市へ移住。27歳で稲作農家として独立、翌年法人化。JGAP・有機JAS認証事業者。埼玉県稲麦作経営者会議理事。

 

■25歳で就農、なぜ米の

大規模農場化を目指したか

私は今、農業をやっていますが、東京生まれでもともと農家ではありません。今年、農業を始めて6年目で、今33歳です。東京農業大学の農学部で「日本の農業に一生を賭ける」を掲げて学生時代を過ごし、青果流通業や飲食業を東京で営んでいました。同時に、超党派のシンクタンクやスローフード協会に関わって、農業に貢献できる形で動いてきました。

25歳のときに、様々考えた上で農業生産のほうに行かなければ、日本農業の課題が解決できないという結論に自分なりに至り、埼玉県加須市に移住し、メガファームの構築を目指すということを、ここ5、6年やっています。

加須市で1年半、米作りを大規模にやっている早川農場さんで研修を受け、2016年に独立就農しました。お米作りで10ha。17年、18年と毎年、規模を拡大し、今年は150ha、作付け延べ面積だと200haぐらいやっております。米、麦、大豆、サツマイモ、日本で四大作物といわれるものを栽培しています。同時に有機栽培の取組みもどんどん増やしていて、今年は15 haぐらいやっています。

今は社員が10人ほどいます。資材は普通に卸やメーカー、JAから仕入れており、出荷先は、ほとんど卸売業者で、流通業者に販売する前に、間に入ってもらっている形です。今年、このコロナ禍で非常に米価が下がっており、2年前に比べ半値ぐらいになっています。輸出米も同じくほぼ半値です。弊社は契約栽培で大ロットで出していますので、それほど影響は受けていないというのが正直なところです。

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【特別インタビュー】白百合醸造・内田多加夫社長
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【特別インタビュー】白百合醸造・内田多加夫社長

「ワインは農業。人と同じくそれぞれに個性がある地元を

大切にすることが、おいしいワインづくりの基本」

ロリアンワイン 白百合醸造(株)

〒409-1315 山梨県甲州市勝沼町等々力878−2

Tel: 0553-44-3131

 

内田多加夫 代表取締役社長

白百合醸造は昭和13年(1938)に、今の内田多加夫社長の御祖父様が創業された。いみじくも清話会と同じ年の創業だ。現在、日本に約330のワイナリーがある(H31年)が、“ワインの里” 甲州・勝沼には約30、山梨県は80のワイナリーがある。世界各国から数多くのワインがエントリーする「デキャンタ・ワールド・ワイン・アワード(DWWA)2021」で、日本のワイン2本がプラチナ賞を受賞したが、そのうちの1本は白百合醸造「ロリアン 勝沼甲州 2019」であった。

清話会では「SENKEN良品クラブ」を立ち上げ、「テロワールなお酒と食品」の通販を手掛けていく予定だが、ご縁があって白百合醸造のワイン、ブランデー(グラッパ)を扱わせていただくことになった。ワイナリーに内田社長を訪ね、その思いとワイナリーの歴史について伺った(聞き手:佐々木俊弥〔清話会 代表取締役〕)。

 

■ワインと、日本酒や

 他のお酒類との違い

――昭和13年(1938)という戦争直前の時期にワイナリーを始められた、そのいきさつを教えていただけますでしょうか。

内田: いま「始められた」と言われました。ところがその時代のワイナリーはすべて「始めた」わけではないのです。ブドウがあるからブドウを絞って、鍋や釜に入れておいておけば自然に発酵してワインになってしまいます。

そもそもワイン造りとはどういうものか。ワインを造る、と言いますが、ワインはできちゃったのです。ブドウがあって、放っておけばアルコールになることは知っている。現代だから酵母菌という言葉を知っています。ワイナリーは酒税法で税金を払わなければなりません。ワイナリーの創設とは言いましても、そこに書類があったからというだけで、その前から皆、造っていたはずです。ブドウを取ってきて置いておけばワインになってしまうのですから。ですからワインは、売るためではなくて、自分たちが飲むために、自宅の裏庭や蔵で造り始めたわけです。

 昭和13年当時、山梨県にはワイナリーが3000軒ありました。私どもも、そもそもは酒、タバコ、塩の小売業でした。その裏で、ワインを造って10人くらいの農家の人たちと飲んでいました。そして近所の人たちと白百合葡萄酒共同醸造組合をつくりました。

 日本人は、ワインを日本酒、清酒、焼酎と同じ部類で考えがちですので、特殊な人が特殊な方法で、特殊な免許を持ってマジックみたいにお酒を造っていると思っているようですが、そうではありません。ですからほとんどのワイナリーが自宅と併設で、本業のほうがなくなってワインのほうが主になっていった、ということです。

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【講演録】100歳マラソンランナー(永田光司)
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【講演録】100歳マラソンランナー(永田光司)

私はいつの間にか100歳9ヶ月になりました。お陰さまで、無病息災でこの歳まできました。人生100歳と言いましても、25年と35年と40年とに分けることができると思います。

25年と申しますと、ちょうど青春時代で、軍国時代に生を受けたものですから、20歳になるとすぐ軍隊に参りまして、5年間、野戦をかけずり回って、25歳で帰って参りました。したがって、25歳から日本の社会勉強ということで、60そこそこで定年となり、この歳まできております。

満州事変が昭和6年に始まり、昭和16年の大東亜戦争まで10年間、軍国主義の世の中でした。終戦が昭和20年、翌年の21年に私は帰って参りました。世の中のことが何も分からない、呆然とした2、3年を過ごしましたが、日本へ帰ってきてから35年間、社会に奉仕させていただいたわけですが、大東亜戦争で300万人以上の戦死者を出して、尊い命を皆さん捧げられて、辛うじて私も命からがら帰らせていただいたわけですが、そういう戦死者の後を受けて、日本の国が復興するわけです。

 戦争も終わり、これから自分のやりたいことをやらせてもらおうという時代に入るときに、われわれは青春時代を全部、昔の軍国時代のときに奪われて、あといよいよ定年、60すぎたらもう何もない。

私は若いときに登山をやっており、山登りが自分も好きでございました。他に趣味も何もありません。1人では山に行けませんので、グループを組んで登山をして、アルプスを相当登りましたから、足には自信がありました。

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第9回「年商30~50億(社員30~100人)を突破させる方法」(小池浩二)

■従業員30人~50人の企業でよく発生する問題点

会社の成長に伴う歪みは、「仕事が増加し、それに対応するために人を急激に入れるから生まれる」。

社員数が50名前後になり、複数事業会社・複数事業部・複数拠点スタイルで運営していく会社には共通の問題が発生しやすくなる。それは、多面的展開経営でやりっ放し体質を持っており、ややもすると膨張成長気味になっていることである。核になる人財候補はいるが、人を動かす方策のパターンがなく、バラバラ状態となりやすい。

組織運営における部門運営の基本は、各部門長の経験や性格に左右されてはいけない。各部門長の経験や性格に左右されると、同じ社名を名乗っているが、別法人の色合いが強くなる。年商30億を突破するためには、この標準化や様々な融合化がポイントになる。つまり組織運営に本格的ギアチェンジをしなければ、規模成長の弊害で会社がうまく回らなくなる。

経営者の取組み方も社長が歩くルールブックとでは、社員の成長を阻み、社内に不満が高まり、本来守らなければならないルールが社員に分からなくなる。つまり、組織自体にリスクが高まるのである。

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【講演録】「中小企業にDXはほんとうに役立つか」(日沖健)

~業種や規模、冷静に見つめて、見据える未来 [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「中小企業にDXはほんとうに役立つか」(日沖健)

日沖 健(ひおき たけし) 

日沖コンサルティング事務所代表

1965年愛知県生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、日本石油(現・ENEOS)に入社。98年 Arthur D. Little School of Management修了、MBA。2002年 日沖コンサルティング事務所を開業。産業能率大学総合研究所兼任講師、中小企業診断士、中小企業基盤整備機構アドバイザー。

 

  • 幕末の漢学者の例から

荘田平五郎という人の話をまず致します。大分県出身の方か三菱グループの方でなければご存じないと思います。慶応義塾で教えていましたが、岩崎弥太郎に引っ張られて三菱に入り、三菱グループの基礎を築き、「三菱の大番頭」と言われました。

江戸時代の話ですが、江戸に蘭学の修行に行きます。そこで鉛筆、ペンシルというものを手にします。そして、郷里である大分の臼杵に帰ったとき、漢学者の集まりがあり、その中で「これはペンシルというもので、なかなか便利にできておる」と見せるわけです。それを聞いた漢学者の人たちは、2通りの反応をしました。

一つのグループは、これはなかなか面白い、とペンシルを採り入れてやがて洋学に転向しました。大半の人はあまり興味を示さず、毛筆で漢学にとどまった。その後どうなったか。漢学から洋学に転向した人たちは明治時代になってからとても成功した。一方、ペンシルを拒否した人たちは、あまり成功しなかったという話です。

荘田平五郎も大成功するのですが、成功しなかった人の1人が、後に言葉を残しており、荘田平五郎が成功したのは、『要するに、誰よりも早くペンシルを取って活用したからだ』と言っているのです。

荘田平五郎、幕末のペンシルと今のDX、これは非常に似てると思います。世の中には新しいものがどんどんできます。その新しいものを見たとき、新しいものだからと拒否するのと、取りあえず興味を持って試してみる、その違いはけっこう大きいのかなと思います。

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【講演録】「中小企業はSDGsにどう取り組むべきか」(菊原政信)

~もはや大企業のみの課題ではない、その理由 [ 特集カテゴリー ] ,

【講演録】「中小企業はSDGsにどう取り組むべきか」(菊原政信)

菊原政信氏(フィルゲート(株)代表取締役、青山学院Hicon主管研究員)

青山学院大学経済学部卒業。大学在学中よりビジネスを始め、卒業と同時にアメリカ、東南アジアを中心に貿易を行う。その後、システム開発会社の代表を経て、2010年マーケティング・コンサルティングを目的にフィルゲートを設立。次世代小売流通サービスの研究会「Next Retail Lab」代表幹事を務める。

■SDGsに至るまでの歴史

SDGsは一度にできたわけではなく、歴史があります。誰一人取り残さないということで、子どもから大人、各国の方がすぐ分かるものとして、17個の目標を定めていますが、1番から17番のアイコンを見ると、何を意味しているかが小学生でも分かるように考えられています。SDGsは国連で採択されたもので、2030アジェンダは原書で約35ページ。日本語翻訳も国連連合広報センターのホームページからダウンロードすることもできます。

1945年、国連憲章にまず基本的人権や人間に関する問題について定義されたのが始まりです。その後、世界人権宣言(48年)、ストックホルム会議(72年)を経て、87年になって持続可能な開発というSDGsに関連するキーワードが出てきます。やがて92年の地球サミット、2000年の国連グローバル・コンパクトという会議。そこから国連ミレニアム開発目標があり、2015年にSDGsができる、いう流れです。

2015年のSDGs。それに先立つMDGs(ミレニアム開発目標)。これは開発途上国向けの開発目標で、貧困、初等教育、女性、乳幼児、妊産婦の方を平等に扱いましょうということがメインでした。その15年後にSDGsが採択されましたが、17のグローバル目標の下に169のターゲットという、より具体的な行動指針が設けられています。また、それに対応した232の指標が設けられているのがSDGsの構造となっています。このSDGs 2030アジェンダに関しては、国際社会全体が、人間活動に伴って引き起こされる様々な問題を解決するという点に主眼に置いた、それを世界で共通の認識として持ったという画期的な合意であった、と申し上げられます。

その根底をなすのが16番と17番「平和と公正を全ての人に」、世界中の誰もが力を合わせて、地球上の自然の恵みを大切にして、人権が尊重される。そして全ての人が豊かな、感じられるような世界をつくっていく。17番においては、全ての人や企業がそれぞれが役割を持ち、パートナーシップを築いて協力、連携し合う。

17個の目標の中に、包摂的、インクルーシブという言葉が多く出てきます。包摂的とは、誰しもが分け隔てなく、一緒に生きましょうということですから、先日、行われたオリンピック、パラリンピックでも、しきりにインクルーシブという言葉が使われていました。

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